第49話 卒業パーティー①
十歳で入学して六年。
長いようで短かった学園での生活が終わる。
一人一人名前が呼ばれ、壇上で卒業を証明する勲章が授与される。
呼ばれた名前はジル様だったけれど、壇上でこの勲章を受け取るのはこれで二度目だ。感慨深いというよりは、ジル様として今ここに立っているという不思議な気持ちの方が勝る。
卒業式自体はこれで終わり。あとは一度帰宅して、夕方から講堂で卒業パーティーが開かれることになっている。
帰宅する前にお世話になった先生方に挨拶をして回っていると、背後から声をかけられた。
「ジル様!」
聞きなれた声に振り返れば、泣きはらした目をしたアリーシャが息を切らして駆け寄ってきた。
式典の時からハンカチを目に当てていたのを知っているので別段驚きはしなかったけれど、なかなかに酷い顔をしていて思わず笑ってしまった。
「そんなに泣いていたら、目が溶けてしまいますよ」
「だって、卒業してもう会えないと思ったら……」
そう言ったそばからアリーシャの目から涙が溢れる。
在学中に仲良くしていた友人の半分は、卒業後は都から遠く離れたところへ嫁ぐことが決まっていた。卒業したら、あとは結婚式に呼んでもらうまでおそらく会うことはできない。
別れを惜しんで涙を流すアリーシャの姿がひどく懐かしい。
私もこうして泣きましたわね。
感慨深くアリーシャのことを見つめていると、ジル様が彼女の涙の伝った頬に指を滑らせてハンカチを差し出した。
「確かに学園を卒業したらなかなか会えなくなりますね。少し寂しくなりますが、そのぶん僕が貴女のそばにいますから……」
ジル様はそのままアリーシャとの距離を詰めると、彼女の目尻にそっと口づけた。
ボンッと音が鳴りそうなほど、アリーシャが顔を赤く染める。
「ジ、ジル様!?」
ひどく狼狽えるアリーシャを見て、ジル様がしてやったりといったふうに口元に笑みを浮かべるのがわかった。
「びっくりして涙も止まりましたか?」
「もう! からかわないでくださいっ! 心臓が止まってしまうかと思いましたわ!」
顔を真っ赤にしたまま胸に手を当てて抗議しているけれど、本当はまんざらでもないのを知っている。というか、むしろ嬉しいと思っているに違いない。
もっと素直になったらいいのに、と思うのは第三者視点だからでしょうか。
ジル様は流れるような動作でアリーシャの手を取ると、その甲に口づけた。
「夕方、迎えに行きます。貴女をエスコートできるのを楽しみにしていますよ」
こういう時、お姫様のように扱われるアリーシャが羨ましくてたまらなくなる。
いいなぁと素直にアリーシャを羨ましく思う。自分に嫉妬してもしょうがないことくらいわかってはいるのですが、こればかりは理屈じゃないのです。
チクチクと針につつかれているような胸の痛みに蓋をして、私はジル様と共に踵を返した。
***
日が傾いて東の空に星が輝きだした頃、シルバーに綺麗な装飾の施されたフロックコートをきっちり着こなしたジル様はメイベル家の前で馬車を下りた。
メイベル家の執事さんに声をかけてアリーシャを呼び出してもらう。
エントランスで待たせてもらっていると、奥からひょっこりとお父様とお母様が顔を出した。
ジル様の中で目覚めてから何度かお会いしたことはあるけれど、いつもはアリーシャが一緒だったからこんなふうに顔を合わせることはなかった。
ジル様が少し身を固くして姿勢を正すのがわかった。
私のお父様とお母様なんですから、そんなに緊張しなくてもいいのに。
くすんだ灰色の髪を後ろで一つに束ねたお父様は人のよさそうな笑みを浮かべた。
「やぁ、ジルベルト君。卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「在学中はアリーシャが迷惑をかけたね」
「いえ……決してそんなことはありませんでしたよ」
にこやかにお父様とジル様が会話を始める。
「卒業して社交界デビューしたら、君たちの結婚式の準備を進めようと思っているのだが、君からは何か希望はあるかな?」
「僕からの希望は、出来る限りアリーシャの希望をかなえてあげられるような式ができればと思っています」
ジル様の話を聞いたお母様が「あらあら」と手に持っていた扇子で口元を隠した。
「アリーシャもよい方に嫁げて幸せですわね。ねぇ? あなた」
「そうだな。初めて婚約の話をいただいた時は、てっきりうちの山が目当てだと思っていたものだがな」
そうそう、私も最初はメイベル家の領地で保有している『山』が目当てなのかと思っていたものです。
ジル様のバートル家は製紙業が盛んなので、林業を主にしているメイベル家とはとても相性がいい。
学園で親しくなって婚約の話が出たのも、そういった政略的なものが理由だと思っていた。
私自身、その頃にはジル様のことが好きになっていたので政略的なものでも好きな人と結婚できるのは貴族として奇跡的なことだと思っていたのです。
だから、子供の頃からずっと思い続けてくれてたという話を聞いて驚いた。
ジル様は小さく頭を振って、お父様とお母様に深くお辞儀をした。
「この婚約はアリーシャがいてこそです――僕とアリーシャの結婚を許してくださってありがとうございました」
ゆっくりと頭を上げてお父様とお母様を見ると、二人ともとても穏やかな微笑みを浮かべていた。
その時、正面の階段に薄い藤色のドレスに身を包んだアリーシャの姿が現れた。アリーシャはエントランスにジル様の姿を確認すると早足で階段を下りてくる。
三人の視線がアリーシャに集まる。
少しばかり淑女らしくない様子にお父様が苦笑した。
「きたきた――――それじゃあ、ジルベルト君。娘を頼んだよ」
「あの子はちょっとうっかりしているところがあるから、しっかり見ていてあげてくださいね」
「はい、必ず!」
ジル様が力強く頷く。
目頭が熱く感じたのはジル様の感覚なのか、私の感覚なのか。
お父様、お母様……。
私がいないところでジル様とこんなお話をしていたのですね。全然知りませんでしたわ。
こんなに大切にされていたのに、私はなんてことをしてしまったのでしょう。ジル様との婚約を破棄されてふさぎ込んでいた時も相当心配をかけたのに、あげく命を投げ打ってしまった。
親不孝な娘でごめんなさい。お父様、お母様。
今度は絶対ジル様と幸せになるから。
アリーシャにいってらっしゃいと声をかけて屋敷の奥に戻っていく両親の後ろ姿に胸の内で謝罪の言葉をかけて、階段を下りて駆け寄ってくるアリーシャに視線を向ける。
薄い藤色のドレスにいつもとは違うアップにされた髪型、ジル様の瞳と同じ色をしたネックレスとイヤリング――――かつての自分と寸分違わぬ自分がそこにいた。
迎えに来てくださったジル様からドレスの感想もいただけなくて、似合ってなかったかしらと嫌な汗をかいた当時の記憶が甦ってくる。
表情を固くしている様子から、目の前のアリーシャもジル様にどう思われているのか緊張しているのが伝わってくる。
「…………ドレス、よく似合っています」
不意にジル様の口が開いた。
「え」
「え」
予想外の言葉に、アリーシャだけでなく私まで反応してしまった。
しまった、と思って慌てて口を閉じる。
頬が熱い。ジル様が照れているのだとわかってしまった。
「すみません。本当はもっと気の利いた言葉を言ってさしあげたかったのですが、どの言葉も今の貴女の前ではかすんでしまって……」
「まぁ!」
きょとんとしていたアリーシャが花がほころぶように笑った。
長ったらしい誉め言葉なんて必要ない。今も昔も、アリーシャは『似合ってる』その一言だけで十分だった。
あの日言われることのなかった言葉に、私も自分が言われたかのように嬉しくなる。もしかしたら、口にはしなかっただけで、かつてのジル様もそう思ってくれていたのかもしれないと思った。
***
アリーシャを伴って学園に戻ってきた私とジル様は、決戦会場ともいえる講堂の入り口をくぐって受付を済ませた。
アリーシャと腕を組んでホールに足を踏み入れると、そこはいつものがらんとした講堂ではなかった。
煌びやかに飾りつけられた空間には宮廷から招かれた楽団の演奏する優雅な音楽が流れている。
日常とは違った雰囲気に他の生徒たちも浮き立っているのがわかる。
クラスメイトが集まっているところまで歩いていくと、アリーシャがちらりとジル様の顔を伺ってきた。
歩いてくる時にアリーシャの友人が集まって談笑しているのが見えたから、そこに混じりに行きたいのだろうことはすぐにわかった。
「少しだけ、席を外してもいいでしょうか?」
「ええ。ですが、ダンスの時間には戻ってきてくださいね」
控えめに確認してくるアリーシャをジル様は快く送り出す。
その後ろ姿を見送っていると「ジルベルト」と横から声をかけられた。ブライト様だ。
「やぁ、ブライト。昨日はどうも」
暗に昨日眠らされたことを持ち出されて、ブライト様がうっと顔を引きつらせる。
「……それに関してはホントごめん。悪かったと思ってるよ――――ただ、誓って言わせてもらうけど、君が心配するような話はしてないからね」
「わかってますよ。ブライトがアリーシャをそういう目で見ていないのは知っていますから、初めから疑ってはいませんよ」
「君の中で僕はずいぶん信用があるんだね」
「疑ってほしかったんですか?」
「まさか! ただもっと怒ってるかと思ったからさ…………あ。ライアンだ」
軽口をかわしていたブライト様は、ライアン様とコーデリア様が連れだってホールに入ってきたのを見つけて不意に言葉を止めた。
ブライト様がお二人の姿を見たまま声を潜める。
「今回どうなるかはわからないけど、コーデリア嬢から飲み物を渡されても絶対に飲んじゃだめだからね」
「…………わかっています」
ブライト様からの忠告に、ジル様も声を潜めて小さく頷いた。
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