第48話 ジル様と最後の夜を

 ブライト様との秘密のお話をした後、ジル様が起きる前に解散になったので私はそのままジル様になりすましてお屋敷まで帰ってきた……まではよかったのです。

 どういうわけか、その後お部屋で目を覚ましたジル様に体の支配権をお返ししてからというもの、ジル様は机に向かって黙り込んだまま微動だにしなくなってしまった。


 気まずいですわ。

 何でしょう、この重々しい空気。絶対、ぜーったい、ジル様怒ってますわ。


 ご家族との夕食の時はいつも通りだったのに、部屋に戻ってきた途端、再び黙り込んでしまったジル様を前に私は確信した。

 やっぱりジル様怒ってますわ。

 全く話しかけてこないですし、机の端を指でトントンしたり、時折ため息をついたりしていますもの。

 心当たりといったら、先ほどのブライト様とのやり取りしか思い当たらない。

 いきなり眠らされたジル様からしてみたら怒るのもごもっともだとは思うのだけれど、かといってブライト様と話していた内容を話すことはできなかった。

 まるで針のむしろに座らされているかのような感覚に、私は小さくため息をつく。


 ジル様とすごす最後の夜なのに。


 そう思ったら、切ない思いに胸が張り裂けそうになった。

 イヤ。

 こんな気まずい時間が二人でいられる最後の時間なんて絶対に嫌だと思った。

 私は一度唇を結ぶと、覚悟を決めて重苦しい沈黙を破った。


「――――ジル様。せっかくですから月でも眺めながらお話ししませんか?」


 私の言葉に、ジル様が窓の外に目を向けた。

 綺麗な丸い月が闇夜の世界を青白く照らしているのが見える。

 返事はなかったけれど、ジル様は窓際に備えつけてあった机を離れて、バルコニーへと続く大きな窓を開けた。

 外に出ると少し冷たい風がジル様の髪を揺らした。

 ジル様は手すりに寄りかかると小さく息をついた。白くなって吐き出された息が風に流されて消えていく。


「…………寒くはありませんか?」


 気遣うように聞かれて、私は話しかけられたことが嬉しくて「大丈夫です」と答えた。

 勢いあまって外に連れ出してしまったけれど、何を話すかは全く考えていなかった。

 ジル様は私が話し出すのを待っているのか、口を開く気配はない。

 ど、どうしましょう。

 話したいことはたくさんあったはずなのに、これがジル様と二人きりで話せる最後の夜かと思ったら何から話したらいいのかわからなくなってしまった。

 あうあうと何度か口を開いて閉じるのをくりかえしていると、ジル様が痺れを切らしたように口を開いた。


「すみません。先ほどは、その……少し、大人げなかったと思っています」

「え……?」


 てっきり責められるかと思っていたのに、告げられたのは謝罪の言葉で私はきょとんとしてしまった。

 ジル様は手すりに寄りかかった腕に顎を乗せて手入れの行き届いた庭に視線を落とした。


「ブライトにそのつもりがないのはわかっているのですが、貴女と二人きりで何を話したのかが気になってしまって……」

「ジル様……」

「ブライトとはどんな話を?」


 聞かれてうっと言い淀む。

 全部を正直に答えるわけにはいかない。かといって、ジル様に嘘はつきたくない。

 だから、知られたくないところは省いて、ブライト様との会話の一部分だけを伝えることにした。


「……明日を越えたらという話をしていました――――ジル様は明日を無事に越えられたら何がしたいですか?」


 話した内容を突っ込まれる前に質問でそれを防ぐ。

 ジル様は目をぱちぱちと瞬いたあと、少し口元を緩ませた。


「そうですね……アリーシャとこれからの話をしたい、かな」

「これからの話……ですか?」

「ええ。結婚式の話とか、子供は何人ほしいとか――そういう、これからの話を」

「こ、子供!?」

「ふふ……アリーシャは何人ほしいですか?」


 楽しそうなジル様とは裏腹に、私は慌てふためいてしまう。


「まっ……」


 まだ早くありません!? そう言おうとして気づいてしまった――これからの話をしたい相手は『私』ではなくアリーシャもう一人の私なのだということに。

 いつだったかのように、頭から冷や水を浴びせられたかのようだった。

 ジル様の隣に並ぶアリーシャとまだ見ぬ子供の姿を想像して、私の気持ちは急激に冷えていく。

 その場所にいるのは、私だけど『私』じゃない。

 震えそうになる声を必死で抑えながら、ジル様に話しかける。


「そ、それはアリーシャに聞いていただかないと……」

「貴女もアリーシャでしょう?」

「わ、私はジル様のアリーシャではありませんもの……聞かれても困りますわ」


 言っていて胸が苦しくなってくる。

 体の支配権がジル様にあってよかったと心底思う。そうじゃなかったら泣いてしまったに違いない。

 覚悟はとっくにしていたはずなのに、まだ諦めきれない心が『どうして私じゃないの』と叫び声をあげている。

 これ以上言葉にすることができなくて私は唇を噛みしめて黙り込んだ。

 少しして、ジル様が「僕は」と小さく口を動かした。


「僕にとっては、貴女もアリーシャですよ」


 夜風に乗せるように静かに告げられた言葉に、私ははっと息をのんだ。


「前に貴女は僕に言いましたよね? アリーシャとは同じ名前をした別の人間だと考えてほしいと…………けれど、僕にはどうしても貴女をアリーシャとは別の人と切り離して考えることができませんでした」

「え……?」

「だって、貴女はどこまでもアリーシャでした――考え方も好きなものも行動の仕方さえも、すべてが僕の大好きなアリーシャのままで、アリーシャではないと言われても到底納得できるものではなかったんです」

「ジル様……」


 どうしてジル様はこうまっすぐな言葉をくれるのでしょう。

 私は私をアリーシャとは別の人間だと考えてほしいと言いながら、心の奥底ではずっとアリーシャとして見てほしいと願っていた。

 矛盾しているのはわかっていたけれど、生きているアリーシャがいる以上、私ではジル様のアリーシャにはなれないと自分自身に言い聞かせてきたのに。

 ジル様はふと思い出したように少し笑うと続けた。


「でも、貴女はアリーシャよりも少し積極的でたまに強引なところがありますね」

「そ、それは……」


 アリーシャと比べられて口ごもる。

 それは今を生きている方のアリーシャがジル様の前では淑女らしく見られたいと猫をかぶっているからに他ならない。


「こちらが素だと言ったら減滅されますか?」


 今さら取り繕っても手遅れかと正直に白状すると、ジル様は間髪置かずに「いいえ」と答えた。丸い月を見上げながらジル様は目を細める。


「僕は今の貴女も好きですよ」

「あら、浮気になってしまいますわよ?」


 涙が出そうなほど嬉しい気持ちを隠して軽口のように突っ込めば、ジル様からもくすりと笑いが返ってきた。


「それは貴女とアリーシャを別の女性として考えた場合でしょう? 同じ人なんですから浮気には当たりませんよ――――それに、思い出したんです」

「?」

「前にブライトを交えて中庭で話した時に、誰かが泣いている夢を見たと言ったのを覚えていますか?」

「え? ええ……」

「あれはやっぱりアリーシャ、貴女でした」

「わたし……?」

「何もない真っ暗なところで泣きじゃくる貴女の手を引いたのは僕です――貴女が本来行くべきところに戻れなかったのは僕のせいだったのかもしれないと、昼間ブライトの話を聞いて思ったんです」


 それを言う前に寝かされてしまいましたが、とジル様はため息まじりに肩をすくませた。

 なるほど、ジル様が寝る直前に言おうとしていたことはこのことだったのですね。

 記憶を巡らせてみたけれど、ジル様の中で目覚める前にそんなやりとりがあったなんて私自身は全く覚えていない。なにせ崖から落ちて目覚めたらすでにジル様の中だったのだから。

 この話の真否はわからない。

 本当にあったことなのかもしれないし、ジル様の見たただの夢なのかもしれない。

 けれど、たとえ夢だったとしてもジル様が『私』に手を差し伸べてくれたことがたまらなく嬉しかった。

 恋した乙女は単純ですわね、こんなことで簡単に舞い上がってしまうんですもの。


「私は果報者ですわね。死んでからも、こうしてジル様のおそばにいられるんですもの」


 一度言葉を切って小さく息を吸う。

 最後なんだから、ちゃんと伝えたいことを伝えなくては。


「ジル様……得体の知れなかった私を、祓わずにおそばに置いてくださってありがとうございました。それに、アリーシャのことも」

「?」

「ジル様の中にいることを秘密にしてくださっているでしょう?」

「ああ……そのことですか。貴女のこと、やっぱりアリーシャに話さなくていいんですか?」


 不意に、ジル様がそんなことを言ってくる。

 以前、私が未来から時を遡ってきたアリーシャだとわかった時、ジル様はブライト様の他にアリーシャにもこのことを話そうと提案してくれた。当事者のアリーシャにも協力してもらった方がいいのではないかと。

 確かにアリーシャにも協力してもらった方がいいのはわかっていたけれど、私はその申し出を断固として拒否した。

 大好きな婚約者の中に得体のしれない女がいるなんて、どうして言えましょう。例えそれが信じがたいことに未来の自分だったとしても、私がアリーシャなら嫌だと嫌悪感を抱いたに違いない。そして私と同じ思考回路をしているのだから、アリーシャだって同じくそう感じるだろうと思ったのだ。

 だから、私がジル様の中にいることはアリーシャには秘密にしてもらっている。

 ジル様はアリーシャに秘密にしていることで後ろめたさを感じているのかもしれないけれど、何が不仲に繋がるかわからない今、不安要素は取り払っておくに越したことはない。

 私は頷いて以前と変わらない答えを返した。


「今はまだ、このまま秘密にしておいてください。お慕いしている人の中に自分とはいえ異性の方がいるなんて、ジル様だって嫌でしょう?」

「それは……確かにそう、ですが……でも、『今は』ということは、いつかは話してもいいと?」

「そう、ですわね……すべてが丸く収まったら、その時は」


 きっと私はもうジル様の中にはいないから。

 心の中でそっと呟く。

 そんな呟きなど知る由もないジル様が、私の言葉の先を続ける。

 

「その時は、一緒にアリーシャに怒られてくださいね」

「え……」

「『え』じゃありませんよ。隠し事されてたって知ったら、きっとアリーシャは怒るでしょう? 僕たちなんですから、潔く僕と一緒に怒られてください」


 『協力者』――確かにその関係を持ちかけたのは私だったはずなのに、その言葉が今はとても重く感じられて、私はぎこちなく頷き返すことしかできなかった。

 少しの沈黙の後、ジル様は青白い月を見据えたまま口を開いた。


「――――明日、何があっても無事に乗り切りましょうね」


 決意と共に放たれたジル様の言葉に、私は自分のいない未来に思いを馳せた。

 すべてが終わった先に私はいない。それでも。


「ええ。今度こそ、ジル様と一緒の未来を歩ませてください」


 一緒に歩むのは私ではないけれど、私の夢はもう一人の私に託すことにいたしましょう。

 そのためにも明日を無事に乗り越えないと。

 月明かりの下、私は決意を新たにした。

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