第46話 卒業式前日
あっという間に月日は流れ、卒業パーティーはもうすぐそこまで迫っていた。
卒業試験も無事に終わって久しぶりにアリーシャと一緒に休日を過ごしていた私とジル様は、以前ダブルデートで訪れた公園に来ていた。
あの時はライアン様を気遣ってコーデリア様にジル様の隣を譲ったアリーシャだったけれど、二人きりの今は気兼ねなくジル様の隣を歩いている。にこやかに隣を歩くアリーシャの視線がちらりと少しだけ下に下がった。
それだけで、私には彼女がジル様と手を繋ぎたがっていることがわかってしまった。
手を繋ぎたいのに、自分から言い出すのははしたないかしらと思っているに違いない。
ジル様はそんなこと思ったりしないから、もっと積極的になったらいいのにと思う。きっと今の私にあって昔の私になかったのは積極性だったのかもしれない。
アリーシャに助け船を出そうと口を開きかけた時、ジル様の口が動いた。
「手を、繋いでもいいですか?」
「! はいっ!」
欲しかった言葉をかけてもらえてアリーシャがぱっと顔を輝かせた。
ジル様がそっとアリーシャの手をとって指の間に自分の指を絡ませる。いわゆる恋人繋ぎといわれる繋ぎ方にアリーシャが頬を赤らめる。
前は私がアリーシャがしたいことを察して助け船を出したりしていたのだけれど、最近ではジル様が自ら察してアリーシャに声をかけることが増えていた。
ジル様の頬が緩んでいるのがわかる。
こうしてジル様の中からジル様とアリーシャのことを見ていてわかったことがある。
以前の、逆行前の私たちには圧倒的に言葉が足りなかった。
『きっと』とか『思っているはず』とか推測するばかりで、私はそれを言葉にしてこなかった。もちろん、言わなくても伝わることだってあると思う。
けれど、言わなければ伝わらないことも確かにあるのだと、それをこの体になってから悟った。
お互いの想いを伝えあった今、二人に以前の私たちのようなぎくしゃくした様子は見られない。
きっともう大丈夫ね。
私がフォローしなくても、ジル様もアリーシャもきっともう大丈夫。些細なことですれ違っても立て直す方法を知っているのだから。
私はジル様と手を繋いで幸せそうに歩く
***
卒業式の前日。
明日は卒業式と卒業パーティーしかないから、実質学生らしい生活は今日が最後だ。
持ち込んだ荷物を持ち帰るのに何度も教室と馬車の間を行ったり来たりしている人、友達と別れを惜しんで遊びに行く人、学園での思い出に浸って中庭で語らう人――――みんなそれぞれ思い思いの放課後を過ごしている。
アリーシャは友人と卒業の記念におそろいの雑貨を買うのだと町へ繰り出していった。
ジル様も友人から出かけないかと声をかけられていたけれど、これから用があるのでと言って誘いを断っていた。
用事なんて何もないのに。
どうしたんでしょうと思って聞けば、単に気分が乗らなかっただけですと返ってきた。学園生活最後の日だというのにそのまま普通に屋敷に帰るつもりらしい。
「ジルベルト」
帰り支度をしていると、ふと前方から声をかけられた。
ジル様が顔を上げると、斜め前の席で同じように荷物を片付けていたブライト様が体を捻ってこちらを振り返っていた。目の下の隈は相変わらず濃い。
「ねぇ、このあと何か予定ある?」
「いえ、ありませんが……」
「じゃあさ、一緒に図書室でお茶してかない? 最後だからって図書委員の先生が閲覧室での飲食を特別に許可してくれたんだ――――どう?」
どう? と言ったブライト様は人懐っこい笑みを浮かべていたけれど、その手が小さく震えているのに気づいてしまった。
そのちぐはぐな様子にジル様も気づいたのでしょう。ジル様はそれに気づかないふりをして「いいですよ」と二つ返事で誘いに応じた。
色よい答えが聞けて明らかにほっとしたような顔をしたブライト様は、食堂でお茶を貰ってくるから先に図書室に行っててと教室を出ていった。
ブライト様に少し遅れて教室を出た私たちは、人けの少ない特別棟の廊下を歩いていく。
ちらりとジル様が中庭に目を向ける。
学生生活最後の日とあってか、放課後はいつも閑散としている中庭にもまばらに人がいた。
視界の隅にライアン様とコーデリア様の姿を捉えて、ジル様がその場に足を止めた。
ライアン様が卒業パーティーのパートナーにコーデリア様を誘うことができたと、興奮気味に報告してきたのは少し前のことだ。
「ライアン様、うまくいってよかったですわね」
いつかのダンスの授業で少しぎこちない様子で踊る二人の姿を思い出して言えば、ジル様からも「本当に……」としみじみと返事が返ってきた。
授業で踊る二人を見て、うまくいくといいなと思ったのがずいぶん前のように感じられる。
なかなか仲が進展しなくてじれったい思いもしたけれど、あのダブルデートの日以降、なんとなくライアン様とコーデリア様の距離がぐっと縮まったように感じられた。
ライアン様に手を引かれて歩くコーデリア様を見送って、ジル様は今度こそ図書室に向かった。
***
学園生活最後の日に図書室に来る人はいなかったようだ。
貸し切り状態の図書室で、ブライト様が食堂から貰ってきた紅茶を淹れてくれた。
ブライト様は向かい側に腰を下ろすと眉尻を下げて力なく笑った。
「ごめんね、帰るとこだったのに。なんか、いよいよ明日かって思ったら緊張しちゃってさ……」
ブライト様が目の前に置かれた白いティーカップに視線を落とす。ゆらゆらと揺れる紅茶の水面を見つめながらカップを両手で包み込むように持つと、内に秘めていた不安を口にした。
「九年……ずっとこの日が来るのを待ってたんだ。君と初めて出会ったあのお茶会の日から、いろんな本を読み漁って明日の卒業パーティーに備えてきた。けど、どんなに準備したって不安なんだ。君もアリーシャ嬢も仲はいいままだし、コーデリア嬢もライアンをパートナーに選んだ。前とは違う未来になってるはずなのに、どうしても落ち着かなくて」
「……ブライトは九年もそんな思いを抱え続けていたんですね」
ジル様の視線を受けて、ブライト様が小さく笑って肩をすくめた。
「幸い学園を卒業するまでたくさん時間はあったからね。もんもんと思い悩む時間もいっぱいあったよ。まさか君たちと協力して明日を迎えられるなんて、あの頃は思いもしなかったな――――実はさ、今だから言うけどずっとアリーシャ嬢のことが気がかりだったんだ」
「私、ですか?」
唐突に出てきた自分の名前にきょとんとすれば、ブライト様が少し困惑したような顔をした。
「一緒に時を遡ったはずなのに、君はアリーシャ嬢の中に帰ってきていなかったから。ずっと術が失敗して僕だけが過去に戻ってきたんだと思ってた。あの魔術は『過去の自分の中に甦る』はずのものだったからね」
「で、では私が今ジル様の中にいるのは……」
「完全に想定外だよ……だから初めて会った時すごく驚いたんだ。戻ってくる時間も場所も違っていたからね」
「そういえば、ブライト様に初めてお会いした時はジル様に掴みかかるほど驚いていらっしゃいましたわね」
「うん。だからジルベルトを眠らせてでも、どうしても君が僕の知ってるアリーシャ嬢かどうか確認したかったんだ」
「そういうことでしたのね」
なるほど。聞けば聞くほどブライト様の行動の謎が解けていく。
けれど、未だにわからないこともある。
おそらくジル様も同じことを思ったのでしょう。私の代わりにブライト様に質問する。
「どうして戻ってくる時間も場所も違ってしまったんでしょう?」
「それについては僕にもさっぱり。逆にアリーシャ嬢に聞くけど、君がジルベルトの中で目覚めた日って何か特別なこととかあったりした?」
何か特別なこと、と思い返す。
あの日は朝から色々あったけれど、『特別なこと』と言われてぱっと出てきたのは刺繍のハンカチのことだった。
逆行前の未来で渡せなかった刺繍のハンカチを渡すことができたという話をすると、ブライト様はあくまで推測でしかないけどと前置きをした後で「そこがアリーシャ嬢が戻りたかった日だったんじゃないかな」と結論付けた。
戻りたかった日と言われてもピンとこないけれど、確かにあの出来事あたりを境にジル様とぎくしゃくしていったような気がするから、私は無意識のうちにあの日をやり直したいと思っていたのかもしれない。
「つまり、私もブライト様も戻りたい日が違っていたから、戻ってきた時間も場所も違っていたってことでしょうか?」
「あくまでかもしれないって話だけどね。ただ、それだけじゃ君がジルベルトの中にいる理由はわからないままだけど」
「それなんですが……」
ジル様が口を開いたところで、不意に視界がぐらりと揺らいだ。
力の入らなくなった体がガタンと音を立てて机へと倒れ込む。
何!?
慌てる私をよそに、ジル様はご自分の身に何が起こっているのかわかっているようだった。
「ブライト……なぜ……」
「ごめん、ジルベルト。少しだけ、アリーシャ嬢と二人で話をさせて」
申し訳なさそうに言うブライト様の様子に、今しがた飲んでいた紅茶に睡眠薬が盛られていたことを確信する。
ジル様が何か言おうとしたけれど、声にはならず瞼が落ちて視界が真っ暗になる。
代わりに、私に体の支配権が移ったのが分かった。
自由に動かせるようになった体を起こして姿勢を正した私は、向かいに座るブライト様に非難の目を向けた。
「どうしてジル様を眠らせたりなんか……」
「ごめんね、アリーシャ嬢。どうしても、
そう言ったブライト様の目は悲しみに揺れていた。
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