第39話 ダンスの練習に誘われました
卒業パーティーが終わって婚約解消を無事阻止できたら、私は消えるかもしれない。
ここ数日、ことあるごとにそのことが頭をよぎっていた。
だからでしょうか、物思いにい耽っていた私はブライト様の呼びかけに全く気づくことができなかった。
「じょう……シャ嬢……アリーシャ嬢ってば!」
「はっ」
勉強会の終わった図書室でブライト様に話しかけられていた私は、彼の何度目かの呼びかけによって我に返った。
「あ……なんでしょう、ブライト様」
「…………なんでしょう、じゃないよ。アリーシャ嬢。君こそどうしたのさ、さっきから心ここにあらずって感じだよ?」
図星をつかれてギクリとする。
ブライト様の探るような視線に、私は首をぶんぶん振る勢いで否定した。実際には首は振れませんでしたが。
「なんでもありませんわ! さ、最近いいことがあったもので……」
いいことがあったのは本当なので、それを理由に言葉を濁した。
ブライト様もダブルデート以降、ジル様とアリーシャの様子が前にもまして親密になっていることに気づいているはずなので、いいように受け取ってくれることを祈るばかりだ。
「そう? それならいいんだけど……それで、さっきの話なんだけど」
「さっきの話?」
「聞いてなかったの!? ダンスの練習相手の話」
「ダンスの練習相手……ですか?」
的を得ない受け答えに、ブライト様は呆れたように「本当に聞いてなかったんだね」と言って、初めから説明してくれた。
「コーデリア嬢の卒業パーティーのパートナー、今のところライアンがコーデリア嬢を口説き落とそうと頑張ってくれてるけど、万が一断られた時は僕がパートナーを申し込まないといけないからね。保険をかけて今のうちにダンスの練習をしておこうと思ってさ…………僕、ダンス苦手なんだよね」
「それでダンスの練習相手を私に……」
なるほど、言い分はわかりましたわ。
でも、私が練習相手になるということはジル様の体をお借りしなければならない訳で、それならいっそアリーシャに頼んでみてはどうかと提案すると、ブライト様は嫌そうに顔を顰めた。
「えー……やだよ、ジルベルト怖いもん」
「た、たしかに……」
ダンスの授業でもアリーシャを他の男の人と踊らせるのをあまりよく思っていないのを思い出して、それなら仕方ないかと納得してしまった。
そんなやり取りを聞いて、今まで黙っていたジル様が「僕もいるんですが」と会話に割って入ってきた。
「ダンスでしたら、僕が練習相手になりますよ?」
「いや、でもジルベルト女性パート踊れないだろ?」
「…………」
そうだったと言わんばかりに、ジル様の眉間にしわが寄るのがわかった。
さすがに色々できるジル様でも女性パートは踊れないらしい。
結局、次の休みにブライト様のお屋敷でダンスの練習をすることに決まって、その日は解散となった。
その日の夜、ベッドの上で恋愛小説を読んでいた私はおもむろにジル様に話しかけられた。
「アリーシャ」
「はい?」
「明日からしばらくの間、僕より先に起きてくれませんか?」
「ジル様より先に、ですか?」
意図がわからずきょとんとする私に、ジル様は読んでいた本を脇に置いて目を閉じた。なんだか眉間にしわが寄っている気がする。
ジル様は大きく息を吐き出すと、意を決したように目を開いた。
「そうです。明日から毎朝、僕に女性パートのダンスを教えてほしいんです」
「ふぇ?」
「…………僕が女性パートを覚えてブライトとダンスの練習をします」
思ってもみなかった言葉に呆気に取られてしまった。
え? どういうことですの? ジル様、まさかそんなご趣味が?
やや混乱しかけた頭でジル様に真意を問いかける。
「それは、ジル様がブライト様と踊りたいということ……ですの?」
「違います」
きっぱりと否定されて、眉間のしわが深くなった。
「…………たとえ練習だとしても、貴女とブライトが踊るのが嫌なんです」
「アリーシャではありませんのに?」
「いいえ。貴女が踊るのであればアリーシャに違いありません。いくら踊るのが僕の体でも貴女がブライトと踊るのは嫌なんです」
あら。これはもしかして。
「…………妬いてくださるのですか?」
「…………………………いけませんか」
少し拗ねたようなジル様の答えに、私は胸が熱くなった。
体をもたない『私』に対してもアリーシャとして扱ってくれるのがたまらなく嬉しい。
そのジル様の気持ちはアリーシャではなく『私』に対してのものだから。
本来なら、私のことをアリーシャとは別の人間だと考えてほしいと言った手前、こんなことを思ってはいけないのかもしれない。
でも。それでも、私は。
「いいえ。とても嬉しく思いますわ」
震えそうになる声を抑えて、私は口元を綻ばせた。
***
それから次のお休みの日がくるまで、私は毎朝ジル様よりも早く起きて女性パートの動きをジル様に叩き込んだ。
起きてすぐの私が自由に体を動かせるうちは女性パートを踊って見せ、その後ジル様に体の支配権をお返ししてからは鏡を見ながら口頭で動きを指示した。
元より物覚えのいいジル様は私の教えた動きをすぐに自分のものにした。さすがジル様。
そして、ブライト様とのお約束の日。
私とジル様がレイ家のサロンに通されると、少し着崩したシャツとトラウザーズというラフな格好でブライト様が出迎えてくれた。
「やあ、ごめんね。休みの日にわざわざ来てもらっちゃって」
「いえ、かまいませんよ」
「あれ? 今はジルベルトかい? じゃあ、先にお茶してからの方がよさそうだね」
ブライト様がジル様を見てぱちぱちと目を瞬いた。
暗に、私と入れ替わるために睡眠薬入りのお茶を淹れると言ったブライト様をジル様が止める。
「いえ、お茶は結構です。ダンスの相手は僕がしますので」
「え? でも、こないだ女性パートは踊れないって……」
「ええ。ですから、覚えてきました」
「は?」
呆気にとられたような顔のブライト様に、私は苦笑して補足する。
「ジル様、
「ああ、そういうこと――まったく、ジルベルトも相当アリーシャ嬢のことが好きだよね。僕は練習できるなら中身がジルベルトでもアリーシャ嬢でもどっちでもいいんだけど」
私の一言で察してくれたようで、ブライト様はしょうがないなぁというふうに笑って肩をすくめた。
そうして、ジル様とブライト様のダンス練習が始まった。
私はジル様の中から練習の様子を見て、ステップや姿勢について気づいたことをその都度指摘した。指摘したと言っても、私の出る幕はほとんどなかった。
付け焼刃かと思ったジル様の女性パートのダンスはずいぶん様になっていたし、苦手だと言っていたブライト様のダンスも、基本をしっかり押さえたお手本のようなものだった。
しかも、ジル様が足を踏みそうになったりバランスを崩しそうになった時はさりげないフォローもできていた。これで苦手というのだから、ブライト様はどこを目指そうとしているのかしら。
相手を務めたジル様も練習の必要はないのでは? と首を捻ったほどだ。
ブライト様は「何事にも念には念を入れておかないと心配でさ」と力なく笑った。
練習の後、ブライト様の部屋に招かれてお茶をご馳走になった。
よく冷えたアイスティーで喉を潤した私は、ふとブライト様の背後に見えるベッドの上に無造作に積み重ねられた本に目を留めた。
以前、ブライト様の部屋を訪れた時よりも本が増えている気がする。
「ブライト様は普段からあんなにたくさんの本を読んでらっしゃるのですか?」
私の問いかけに、ブライト様は首を傾げた。何のことだかわかっていないようだ。
そんな私の質問の意図を汲み取って、ジル様がすかさずブライト様の背後のベッドを指し示してくれた。
ジル様の指を追うように一度そちらを振り返った後、ブライト様は納得したようにこちらを向き直った。
「ああ、あれか。そうだね、最近は時間があるとついつい読みふけっちゃって」
「もしかしてとは思ってましたが、最近貴方の顔色が輪をかけて悪いのはそのせいですか?」
「いやー、読むと止まらなくなっちゃってさー」
ジトっとした目をジル様に向けられてへらりと笑ったブライト様のお顔は、確かに以前よりも青白く目の下の隈が濃くなっているような気がした。
ジル様がすっと席を立って、ベッドに積み重なっている本へと歩み寄る。
黒や茶色、濃い紫色をした本の背表紙は、どれも見知らぬ国の言葉でタイトルが書かれていた。その一番上にあった本を手に取って、ジル様がブライト様を振り返る。
「…………すべて魔術書ですか?」
「そうだよー ――――そのジルベルトが持ってる本さ」
「これですか?」
「うん、それ。それが逆行転生の魔術書」
ブライト様がジル様の手にした本を見て本のタイトルを教えてくれた。
『逆行転生の魔術書』
これが。
私もジル様も目を見開いて本に視線を落とした。
黒い表紙に白抜きで見たことのない文字が羅列してある。
この国のものではない、異国の本。
ずっと、小骨が喉に刺さったかのように何かがひっかかっていた。
その正体が今やっとわかった。
私が逆行転生の魔術で時を遡ったというのなら、なぜ私にその魔術を使った記憶がないのでしょう。そもそも読めるはずもない本をどうやって解読したというのか。
私は何かを忘れている?
それとも
何かを見落としている?
何を? と考えながら、私はその答えが出ないままブライト様のお屋敷を後にしたのだった。
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