第38話 ジル様の告白
ライアン様たちのボートと離れるように、ジル様とアリーシャの乗ったボートは湖の西側を目指して進んでゆく。
湖を囲うように立つ木々の葉っぱは赤く色づいて、鏡のような水面にその姿を映していた。
清々しい天気なのに、私たちの周りだけどんよりした空気が漂っている。
うう、沈黙が重い。
当初、誰がこんなギスギスしたデートになると予想したでしょう。
私は向かいに座るアリーシャに目を向ける。
薄い菫色のラインが入った白地のワンピースに、ワンピースと同じ菫色のリボンがあしらわれたつばの大きな帽子をかぶったアリーシャは、風景に目もくれずじっとジル様のことを見ていた。
その目は不安に揺れている。
やがてボートが湖の西側の閑散とした場所に着くと、ジル様がオールを漕ぐのをやめた。
「アリーシャ」
ジル様が静かにアリーシャの名前を呼んだ。
びくりと体を震わせて、今にも消えてしまいそうな声でアリーシャが返事をする。
「…………はい」
「すみませんでした」
「え?」
「僕はまた貴女に悲しい思いをさせてしまいました」
思いがけない謝罪の言葉に、アリーシャがきょとんとした顔をジル様に向ける。
ジル様は以前アリーシャを不安にさせてしまった時のことを思い出して眉間にしわを寄せた。
思えば、あの時もコーデリア様がらみでしたわね。
ジル様はオールから離した手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「もうこんなことがないようにと思っていたはずなのに――――アリーシャ、よく聞いてください」
ジル様の言葉にアリーシャは静かに耳を傾けた。
「僕が好きなのは……一緒にいたいと思うのはアリーシャ、貴女だけです。それは今までもこれからも変わりません」
ジル様はまっすぐにアリーシャを見据えて思いの丈を吐き出した。
向かいに座るアリーシャが大きく目を見開いて、口元に手を当てて瞳を潤ませる。
「わたくし……私でよろしいのですか? 私、ずっとコーデリア様がジル様に想いを寄せているのを知っていました。ずっと不安で……今日だって、ライアン様を応援するようにみせかけて、本当は心の中でそのままライアン様とくっついてジル様を諦めてくださらないかなって……私、そんなことを考えていたんです……! 私はジル様が思っているほど綺麗な人間ではないのです」
ぽろりとアリーシャの目から涙が零れ落ちた。
アリーシャの気持ちが痛いほどわかる。
ガタンとボートが大きく揺れて、ジル様がアリーシャを抱きしめた。
ジル様の耳元でアリーシャが息をのむのがわかった。
「僕のためにそんな可愛らしいことを思ってくれるなら大歓迎です――――アリーシャ、僕には貴女だけです。貴女じゃないと嫌なんです……貴女以外、考えられない……!」
言葉と共にジル様の腕が強く、アリーシャの華奢な体を抱きしめる。
いつも冷静なジル様の感情的な姿に、アリーシャは驚きのあまり動きを止めた。
少しして、ジル様はアリーシャをその腕から解放すると、彼女の両頬に手を添えて深い青の瞳を覗き込んだ。
泣いたせいか少しだけ目元が赤くなっている。
アリーシャの瞳の中にジル様の姿が映りこむ。真剣でまっすぐな青い瞳に、目の前のアリーシャだけでなく私まで息をのんだ。
「大好きです、アリーシャ。この世界の誰よりも、僕は貴女が愛おしい」
ジル様の顔がアリーシャに近づいて、唇に触れるだけのキスをした。
一呼吸の後、アリーシャの顔が真っ赤に染まった。
口元に指を添えて口をパクパクとさせて、ジル様を驚いたような顔で見つめ返した。
「本当は卒業して社交界デビューするまではと思っていたのですが……すみません、我慢できませんでした」
ジル様は少し困ったような顔で小さく笑った。
私はジル様の中からその様子を呆然と見ていた。
キス……しましたの? 私(アリーシャ)とジル様が……?
唇に感じた感触に、じわじわと実感が湧いてくる。
ジル様とキスをしたというその事実に、幸せと切なさが交じり合った複雑な気持ちが湧き上がる。
ジル様とキスできた喜びと、相手は
それでもやっぱり嬉しいことには違いないかと、私はおめでとうという気持ちを込めて目の前で顔を真っ赤に染めるアリーシャを見つめた。
その瞬間、私は体からごっそり力が抜け落ちるような感覚を覚えた。
座っているのも辛いほどの眩暈を感じて、私はその場に蹲りそうになる。実際には体の支配権はジル様にあったので体はびくりともしなかったのですが。
じっと眩暈が治まるのをやりすごしているうちに、ジル様とアリーシャは二人で先に帰ることにしたらしい。どのみち泣きはらした顔ではデートどころではないだろう。
ジル様はライアン様の近くまでボートを移動させると、アリーシャの気分が悪くなったことを理由に先に帰ることを告げた。
そうしてジル様とアリーシャは手を繋いで馬車に乗り込んで帰途についた。
ガタガタと揺れる馬車の中、手を繋いだまま肩を寄せ合って座る二人は幸せそのものだった。
恥ずかしくてジル様の顔を見れないアリーシャが時折ちらりとジル様を見て、目が合うとぱっと目をそらして頬を赤く染める。その繰り返し。
言葉はないのに、沈黙が重くない。
そんな幸せそうな二人とは裏腹に、私は得体のしれない不安を感じていた。
先ほど感じた体の半分を持っていかれたような感覚……あれはなんだったのでしょう。
何が起こったのかを考えた私は、一つだけ思い当たることがあった。
『せめてキスくらいしたかったな』
それは私が死ぬ直前に思ったことだった。
今その願いが叶って、私は自分の存在の半分を消失したような感覚を覚えた。
もしかしたら。
もう一つの願い事――婚約破棄を阻止するという目的が達成された時、私という存在は消えてなくなるのかもしれない。
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