第29話 私の話とジル様の涙

 屋敷に着いたジル様は部屋に戻るなり人払いをして、窓際の勉強机に腰を下ろした。

 正面を向くと、窓ガラスにジル様が映っているのが見える。

 その表情はとても真剣で、きっと誤魔化しや下手な嘘は通用しないだろうことが伺えた。


「さぁ、アリーシャ。人払いもしましたし、話を聞かせてください」


 静かな室内にジル様の声はよく響いた。

 私は窓ガラスに映るジル様を見つめながら、小さく息をついた。


「その前に、一つだけ教えていただきたいのですが……」

「なんですか?」

「どうして急に私のことをアリーシャだと信じる気になったのですか? 私が以前どんなにアリーシャだと言っても信じてくれなかったではありませんか」

「…………それは……」


 ジル様は一度口ごもると、机に備えつけてある引き出しから淡い黄色の紙を取り出した。

 それは綺麗に四つに畳んであって、広げると見覚えのある文面があらわになった。私がジル様の中で目覚めた日の夜に書いた日記だ。


「字が」


 とジル様がその便箋の表面に書かれた文字を指でなぞる。


「字が、アリーシャのものだったので……」

「字、ですか?」

「特にここの跳ね方がアリーシャの癖と同じです。勉強会で同じようにアリーシャが書いているのを見ましたし、以前いただいた手紙も同じでした」


 そう言ってジル様は一番下の引き出しから平べったい箱を取り出して、中に入っている手紙を一通取り出して開いて見せた。

 それは随分前に私がジル様に送った手紙だった。

 これはもう誤魔化しようもありませんわね。

 動かぬ証拠を突きつけられて、私は覚悟を決めた。


「ブライト様のようにオーラの色が同じって言われるよりも、よほど信憑性のある理由ですわね」


 ため息交じりに言うと、ジル様も苦笑を返した。


「確かに、それはブライトにしかわからないですね――――なるほど……ブライトはオーラの色で貴女をアリーシャだと特定したんですね」

「ほんとう、非常識な方ですわよね……でも、だからこそ、こんな非常識なことでも信じてくださったのです」


 今を生きるアリーシャに会ったあの日、自分がアリーシャなのか何なのかわからくなっていた私に、ブライト様は君は『アリーシャ』だと何の迷いもなく信じてくれた。

 私が何者かを証明する手立てのない中、ブライト様だけが自信をもって私をアリーシャだと認めてくれた。

 私はそれに救われたのです。


「だから、ジル様。ブライト様のことを責めないでください。ブライト様はジル様だけでなく、私のことも助けてくれようとしているのです」


 そうして真っすぐ窓ガラスに映るジル様を見ると、彼はひどく傷ついたような表情を浮かべた。


「………………すみません」

「ジル様?」

「僕は……婚約者なのに貴女の言葉を信じることができませんでした。それどころか、アリーシャではないと否定して貴女を傷つけてしまった……」


 私はガラス越しに見えるジル様の顔を見て、学園でブライト様の瞳の中に映ったジル様の苦悶に満ちた表情を思い出した。

 ジル様はそのことをずっと気にしていらっしゃったのですね。

 あの時、確かに私は信じてもらえなくて傷ついたけれど、今となってはあの状態で信じられる方がおかしいとさえ思えるくらいには立ち直っている。だから、ジル様にも引きずってほしくはなかった。


「あの、ジル様。先ほども言いましたが、こんなこと普通は信じられないと思うのです。ですから、そんな顔なさらないでください。今こうして信じてくださっただけで私は十分ですから」

「アリーシャ……」


 名前を呼ばれて心が満たされていくのがわかる。

 名前を呼んでもらえるということが、こんなにも幸せなものだとは生きているときは思わなかった。

 そんなことをしみじみと思っていると、ジル様が私の書いた日記に視線を落とした。

 そこには目が覚めたらジル様になっていたことや、アリーシャのこと、ブライト様とのお話、それから今の状況とこれからのことが綴られていた。

 ジル様が文面に指を滑らせる。


「教えて下さい。なぜ……なぜ、貴女はこんなことになっているんですか? ここに『死んで魂だけ時を遡ってきた』と書いてあります……これは、ここに書いてあることはすべて、本当のこと……なんですか?」


 ジル様の声が掠れている。便箋を持つ手も微かに震えているのがわかった。

 まぁ、信じられないのも無理ないですわよね。

 少し先の未来で、アリーシャと婚約破棄して別のご令嬢と婚約しているということが書かれているのですから。

 すれ違いの起こっていない今のジル様にとっては理解に苦しむ内容ですわよね。

 このややこしい状況をどう説明したものかと、考えを巡らせながら口を開く。


「確かにここに書いたのは私自身に起こったことですが……これから先の未来にこれと同じことが起こるとは限りません」

「それは、どういう……?」

「ジル様はアリーシャからハンカチを貰った日のことを覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、もちろんです」


 ジル様は引き出しを引いてアリーシャから貰った刺繍入りのハンカチを机の上に置いた。


「…………私はこのハンカチをジル様にお渡しすることはできなかったんです」

「? ここにあるのに、ですか?」

「ああ、違います。ええと、私がお渡しできなかったのは死ぬ前にいた世界のジル様に、です――――あの日、ジル様がコーデリア様にハンカチを贈られているのを見てショックを受けた私は、そのまま教室にいるのが辛くて中庭に逃げたんです」

「だから、貴女はアリーシャが中庭で泣いていることを知っていたんですか」


 私は頷いて、今とは違う過ぎ去った『あの日』について語った。


「あの日、中庭で一人泣いていた私は、ジル様にあげるはずだったハンカチを風に飛ばされて池に落としてなくしてしまいました…………それ以降、少しずつ小さなすれ違いが積み重なって、ジル様は私との婚約を破棄してコーデリア様と結ばれました」


 ジル様が息をのんだ。そんな馬鹿な、と声なく口だけが動く。

 声も出ないほどの衝撃だったようで、ジル様はそのまま固まってしまった。

 でも、私が伝えたいのはここからなのです。


「けれど、過去は変わりましたわ。ジル様がアリーシャを追いかけてくださったおかげで、あの日渡せなかったハンカチは今ジル様の手の中にある――――私はね、ジル様。あの時、中庭で話すアリーシャと貴方を見て、今ならまだ間に合うかもしれないと思ってしまいましたの」

「間に、合う……?」

「すれ違いが起こる前なら、婚約破棄の起こらない未来を見ることができるかもしれないと……ブライト様にも言ったのですが、死んだ私が今更ジル様とどうこうなれるとは思っていませんわ。だから私、ここからお二人のことを応援しようと決めたのです」


 意外なほど冷静に自分の思っていることが言えた。

 言いたいことが言えてほっと息をついた私とは裏腹に、ジル様の口元はわなわなと震えていた。

 やがて、その口が恐る恐る開く。


「…………アリーシャ、あなた……あなたは、僕がコーデリア嬢を選んだから、死んでしまったんですか……?」

「…………」


 ジル様の悲痛な声に、私は言葉を詰まらせた。

 ここで肯定したらジル様を責めるように聞えてしまいそうで、私は頷くことができなかった。

 けれど、その沈黙を肯定と捉えたジル様が震える手で顔を覆って項垂れた。

 嗚咽が漏れて、零れた涙がジル様の頬を伝って流れ落ちた。


「すみません、アリーシャ。泣いて謝って済む話じゃないのはわかっています――――だけど、今だけ……今だけは貴女を悼むことを許してください」


 それは、私が初めて見たジル様の涙だった。

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