第20話 ある朝起きたら幽霊に憑りつかれていた③(ジルベルト視点)
授業が終わり、帰り支度をしていた僕にコーデリア嬢が声をかけてきた。
何かと思って顔を上げれば、彼女は僕に刺繍のハンカチを受取ってほしいと言った。
正直、婚約者のいる僕にハンカチを贈られるのは迷惑以外の何物でもない。アリーシャが誤解したらどうするんだ。
僕はなるべく穏便に断ったつもりだった。
けれど、コーデリア嬢の目に涙が浮かぶのを見て、ハンカチを見せてもらうことで事を治めてもらうことにした。
コーデリア嬢の刺した刺繍はとても繊細で、彼女の手先の器用さが伝わってきた。
僕としてはささっと話を聞いて終わりにしたかったのに、これがなかなか終わらない。一体いつ解放されるんだろうと思い始めた頃、僕の口が勝手に開いて「急用ができたので、僕はそろそろ……」と彼女に告げた。
内心やっと解放されたと思ったのもつかの間、僕の中の幽霊は僕に「アリーシャを追いかけて」と言ってきた。
見れば、さっきまで自席にいたアリーシャの姿がなくなっていた。
僕がなかなか動き出さなかったせいか、幽霊は急かすように続ける。
「早く行ってあげて! 彼女を……アリーシャを一人で泣かせないで……!」
その言葉に、僕は教室を飛び出して走り出していた。
中庭で泣いてる? アリーシャが?
真偽のほどはわからない。けれど、実際アリーシャは教室にはいなかったし、幽霊が嘘を言っているようには見えなかった。
すれ違う人たちがこぞって僕を振り返ったけれど、僕には悠長に歩いている余裕はなかった。
アリーシャ、待ってて。
教室棟を出て中庭に続く外廊下を走りながら、中庭に視線を巡らせる。
無駄に広い中庭が今日は忌々しい。
なかなか見つけられずにいた僕は内心舌打ちして、幽霊にアリーシャの居場所を尋ねた。
今思い出すからと言って黙り込んだ彼女は、しばらくして「池の方へ!」と声を上げた。
言われるがまま中庭の中央を突っ切って西側にある池の方へ走り抜けると、木の幹から風になびく銀色の髪を見つけた。
「アリーシャ!」
足がもつれそうになるのを堪えながら駆けよると、可哀想にアリーシャの目は泣きはらしたように赤く腫れていた。
一体どうしてとアリーシャにハンカチを差し出したけれど、彼女は受け取らずに呆然と潤んだ瞳を僕に向けてきた。
「ジル様……ど、して……?」
「貴女が泣いているという話を聞いて……それで」
そう答えれば、アリーシャは「でも、コーデリア様と一緒だったのでは?」と伏し目がちに目をそらした。
確かにコーデリア嬢とはさっきまで一緒に話していたけれど、アリーシャが悲しむようなことは何もしてないはずだ。
首を傾げながらも肯定すると、僕の口が勝手に開いた。
今ここで!? と焦ったものの、次に発せられた言葉は僕に対してではなく、アリーシャに向けて紡がれた言葉だった。
「一言だけいわせてください――アリーシャ、誤解しないで。ジル……僕はコーデリア嬢からハンカチは受け取ってませんよ」
それを言われたアリーシャが深い青の瞳を大きく見開いた。
彼女のその反応に、僕は唐突にどうして彼女が泣いているのかを理解した。アリーシャはさっき僕がコーデリア嬢からハンカチを受取ったんじゃないかと誤解していたのか。
アリーシャが「どうして?」と自信なさげに聞いてくるものだから、僕はきちんと自分の言葉でアリーシャのハンカチがほしいと伝えた。
誤解されなくてよかったと心底ほっとして微笑むと、アリーシャが満面の笑みを返してくれた。
***
帰りの馬車で一人きりになった折を見計らって、僕の中の幽霊に話しかける。
「あの、今日はありがとうございました」
そう告げると、幽霊は心底不思議そうな感じで「何がですか?」と返してきた。どうやら彼女は自分が何をしたか自覚がないようだ。
正直彼女がいなかったら、僕はきっとアリーシャを追いかけることなく一人で泣かせてしまったに違いない。誤解されたまま明日を迎えなくて本当に良かったと思う。
ふと幽霊からアリーシャのことをどう思ってるのかと聞かれた。
僕は懐からアリーシャにもらったオフホワイトのハンカチを取り出して、じっくりと眺める。
上手に見えるように取り繕って縫えているけれど、目立たないように縫い直した跡が何か所かに見受けられて微笑ましくなる。
花冠が編めないの、と泣いていた出会った頃の幼いアリーシャを思い出す。
僕がアリーシャと初めて会ったのは幼い頃にレイ家で開かれたお茶会でだった。
アリーシャは中庭で花冠が上手く編めずに泣いていた。それでも諦めずに花冠を完成させた時の彼女の笑顔が忘れられなくて、僕はその頃からずっとアリーシャのことを見てきた。あの時もらった四葉のクローバーは今でも僕の大切な宝物だ。
学園に入ってアリーシャと同じクラスになって嬉しかったけれど、彼女は幼い頃のことを忘れているようだった。無事に婚約関係になった今、それを自分から言い出すつもりはない。いつか彼女から思い出してくれたらいいなと思っている。
この刺繍を見たら、不器用だった彼女がどれほど努力したか想像に難くなかった。
そんな彼女が頑張って僕のために刺繍してくれたハンカチ。もらって嬉しくないわけがない。
本当に、アリーシャが僕の婚約者になってくれてよかったとしみじみ思っている。
彼女のことが愛おしくてたまらないと幽霊に答えると、彼女が息をのむ気配が伝わってきた。
そういえば、この幽霊はどうしてアリーシャが中庭で泣いているのを知っていたんだろう。
幽霊に聞いてみたのだけれど、教えてはくれなかった。
代わりにアリーシャのことなら誰よりも詳しいと豪語してくるので、僕はそれならばと幽霊にアリーシャの誕生日に何をあげたら喜ばれるかを相談することにした。
***
翌朝。
目が覚めて幽霊に話しかけると、反応がなくなっていた。
一晩寝たら幽霊も成仏したのかもしれない。
昨日話した時には僕とアリーシャのことを応援してくれると言っていたけれど、無事に成仏できたのなら良かったと思って、中庭で日課である剣の素振りを始めた。
しばらく経った頃、おもむろに口が動いて「おはようございます」と眠そうな声が発せられた。
残念ながら、幽霊は寝ていただけのようだ。
昨日一日で何度も経験しているとはいえ、自分の口が勝手に動く感覚は慣れるものではない。
がっくりと肩を落としていると、僕の中の幽霊は励ましてくれた。
何か心境の変化でもあったんだろうか、昨日自分が何者かわからないと意気消沈していた幽霊は、ずいぶんと前向きに物事が考えられるようになっていた。
簡単には解決できなさそうな今、彼女と諍いを起こすのは得策ではない。同じ体を使っている以上、なるべく穏便にすごすに越したことはない。
それを同居人という言葉を使って伝えれば、彼女からは「言い得て妙な感じですわね」と返された。
確かに言い得て妙かもしれない。
なんだかおかしくなって、ひとしきり笑い合うと、幽霊から「ジル様」と呼びかけられる。
「……ふつつかものですけれど、どうぞよろしくお願いいたしますわ」
そのかしこまったような言い方に、僕は思わず笑って「こちらこそ」と答えてた。
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