第13話 貴女のハンカチがいいんです
『アリーシャを一人で泣かせないで』という言葉に、ジル様は教室を飛び出して人けもまばらな廊下を中庭に向けて走り出した。すれ違う生徒たちが何事かとジル様を振り返ったけれど、ジル様の足は止まらない。
教室棟を出て、中庭に続く外廊下に出る頃には辺りには誰もいなくなっていた。
ジル様は外廊下を走りながらアリーシャを探してきょろきょろと顔を巡らせるものの、彼女らしき人影はない。
「それで! アリーシャはどのあたりに!?」
「ええと……ええと……今頑張って思い出しますので、少し待っていただけます!?」
ぴしゃりとジル様に言い放って、私は当時の行動を思い返す。
一言で中庭と言っても結構な広さがある。
私、どこで泣いていましたっけ。
泣いたという記憶はあるものの、人がいないところへと足の向くままに歩いたせいか、それが中庭のどのあたりだったかは全く覚えていなかった。
何か、何かなかったかしら。
思い出の中の景色はぼんやりと霞みがかったように思い出せない。
どんな些細なことでも何かなかったかと思い返したところで、ハンカチを風に飛ばされて中庭の西側にある池に落としたことを思い出した。
「ジル様、池の方へ! おそらくそのあたりにいるはずです!」
「わかりました!」
廊下の手すりを飛び越えて軽やかに中庭に降り立つと、西側に向かって方向転換をする。
足の長いジル様は走るのも早くて、西側にある池にはあっという間にたどり着いた。
そこから少し北に歩いたところで、木の幹から銀色の髪が風になびいて見え隠れしているのを見つけた。
「アリーシャ!」
ジル様が駆け寄りながら声をかけると、木に隠れるようにして座っていたアリーシャがびくりと体を震わせた。
けれど、声をかけられたアリーシャは硬直してしまったかのように、呼びかけてもこちらを振り返ろうとはしない。
そうしているうちにジル様がアリーシャの元にたどり着いた。
膝をついて正面からアリーシャの顔を覗き込むと、案の定彼女の目は泣きはらしたように腫れていた。
ジル様がブレザーの内ポケットから薄緑色の無地のハンカチを取り出して差し出せば、アリーシャは潤んだ瞳を向けてくる。
「ジル様……ど、して……?」
「貴女が泣いているという話を聞いて……それで」
「……追いかけてきてくださったのですか?」
「ええ」
「で、でも、コーデリア様と一緒だったのでは……?」
「? 確かに先ほどまで一緒でしたが……」
それが何か? とジル様は首を傾げる。
そんなジル様の様子に、私はジル様の中で項垂れた。
わかってない。ジル様、どうしてアリーシャが泣いてるか全然わかってらっしゃらないわ。
ほら、アリーシャも不安そうな顔をしているではありませんか。
…………仕方ありませんわね。
私はアリーシャに聞かれてもおかしく思われないように、ジル様に一言断って口を開いた。
「一言だけ言わせてください――アリーシャ、誤解しないで。ジル……僕はコーデリア嬢からハンカチは受け取ってませんよ」
「!!」
まずはアリーシャの誤解を解いてあげないとと思って私がなるべくジル様っぽく聞えるように言うと、アリーシャは深い青の瞳を大きく見開いた。
「ほんと、に……? 本当にコーデリア様から貰ってませんの?」
「ええ。渡されましたが、受取りませんでしたから」
私の言葉を引き継いで、ジル様が答える。
「どう、して?」
「どうしても何も。貴女という婚約者がいるのに、受け取るわけがないでしょう?」
ジル様はアリーシャの涙の跡を差し出したままになっていたハンカチでそっとぬぐって、「そういえば」と続ける。
「そのコーデリア嬢から聞いたのですが、アリーシャも授業でハンカチに刺繍をしたのでしょう?」
「え? ええ」
「ねぇ、アリーシャ。貴女は僕にはくれないのですか?」
ジル様はアリーシャの耳元で内緒話をするように声を潜めて、彼女の真っすぐな銀髪をひと房手に取ってくるくると指先に絡めて絹のような感触を楽しんだ。
その仕草に、真っ赤になったアリーシャが慌てて上半身を反らしてジル様から距離を取る。
「な、な、なな……」
「ダメですか?」
「だだだ、ダメではないですけど……でも、私の作ったものでいいのですか……?」
スカートのポケットからオフホワイトのハンカチを取り出したアリーシャの声がだんだんと小さくなっていく。
なんだかんだで自信のないアリーシャは、一生懸命作ったハンカチをジル様にお渡しするのをためらっているようだった。
じれったいですわね。貴方のために一生懸命作ったんですって渡してしまえばいいのに。
第三者目線になると冷静になれるから不思議だ。
ジル様がアリーシャに目を合わせる。
こうすると、アリーシャの瞳の中にジル様の姿を見ることができた。
アリーシャから差し出されたハンカチを受取って、ジル様は柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。貴女のがいいんです」
ジル様の言葉に、アリーシャが満面の笑みを返す。
無事に誤解は解けたようで、そのあとは二人ともぎくしゃくした様子もなくハンカチを広げて雑談を楽しんでいた。
私の記憶の中の一人で泣いていたアリーシャはもういない。
私はアリーシャの笑顔にほっとして、彼女が一人で泣くことがなくてよかったと思った。
けれど、何故でしょう。
自分に向けられたものではないジル様の笑みに、ちくりと胸が痛んだ気がした。
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