第12話 刺繍のハンカチ

 なんとか一日乗り切りましたわ。

 ホームルームを終えて騒めきだつ教室で、私はジル様の中で安堵の息をついた。

 あとは家に帰るだけ。

 ジル様が机の中に入れていた教科書や筆記用具を鞄にしまっていると、頭上から声がかけられた。


「ジルベルト様!」


 その聞き覚えのある声に私はピシリと固まった。

 ジル様はそんな私の様子に気づくことなく顔を上げる。

 思った通り、そこに立っていたのはコーデリア様だった。


「コーデリア嬢、どうかしましたか?」


 コーデリア様は細い腕の先をスカートの後ろに隠して、もじもじと体を揺らしている。

 何かしら。嫌な予感がしますわ。

 コーデリア様は後ろに隠していた手をさっと前に差し出した。

 その手には白いハンカチが握られている。


「午後の授業で刺繍を刺しましたの。よろしかったら、もらっていただけないかと思って」


 頬を染めて恥じらうようなコーデリア様の姿に、私は背筋の冷えるような感覚を覚えた。

 婚約者のいる男性に刺繍のハンカチを贈るという神経が信じられない。

 私が愕然としていると、ジル様は差し出されたハンカチとコーデリア嬢を交互に見て席を立った。

 ジル様は女性が刺繍のハンカチを男性に贈る意味がわかっているのでしょうか。

 ハラハラしながら見守っていると、ジル様は丁寧に頭を下げて受け取りを拒んだ。


「すみません、コーデリア嬢。僕は貴女のハンカチを受取ることはできません」

「……それは、婚約者がいらっしゃるからですか?」

「ええ」

「それは存じてますわ。でも、私……上手くできたから、ずっと憧れてたジルベルト様に使っていただきたくて……」


 コーデリア様の目がみるみる涙で潤んできて、それを見たジル様がうっと狼狽える。

 ジル様の手が開いて、ぎゅっと握られる。


「すみません。それでも、僕はアリーシャを裏切るようなことはしたくないので――――ああ、泣かないでください。ええと、せめて刺繍を見せていただくことはできますか?」


 ジル様……。

 今にも泣きだしそうなコーデリア様を前にしても、私のことを優先してくれたことに胸が熱くなる。

 ジル様の誠意が伝わったのか、コーデリア様はおずおずと握りしめていたハンカチを開いた。

 そこには赤やピンクの小さな花が左下と右上に綺麗に刺繍されていた。確かに本人が上手にできたというだけあって、かなりの力作だった。


「綺麗な花ですね。これは何という花なんですか?」

「アネモネですわ」


 アネモネ。花言葉は確か『貴方を愛する』とか『はかない恋』とかだった気がする。

 そういえば、思い出しましたわ。

 確かこの授業、花言葉を調べてその花を刺繍したハンカチを誰かにプレゼントするという趣旨のものでした。

 プレゼントする相手は親でも兄弟でも好きな人でもいいというので、私はジル様にお贈りしようと花言葉を調べてナズナとブルースターの花を刺繍したのでした。

 コーデリア様とはお席が離れていたから何を刺繍したかまでは知りませんでしたが、まさかアネモネだったとは。

 ジル様が花言葉まで知っているかはわからないけれど、婚約者のいる相手にそんな花言葉の花を刺繍したハンカチを贈ろうとするなんて正気の沙汰とは思えなかった。

 私はふと、コーデリア様の向こうで不安げにこちらを見ているアリーシャの姿に気がついた。

 その不安げな表情に、この時のことを思い出した。

 そうだ。私はこれを見て、ジル様がコーデリア様からハンカチを受取ったんだと思ったのでした。

 芋づる式にその後のことも思い出した。

 帰りにハンカチをお渡ししようと思っていた私は、これを見て渡す気をなくして中庭でこっそり泣いたんでしたっけ……。

 そこまで思い出して、あれ? と首を傾げる。

 ジル様から婚約破棄を言い渡された直後、私はコーデリア様と二人でお会いしたことがあった。

 その時、彼女はこう言ってなかったかしら。


 『ジルベルト様とは随分と前から相思相愛の仲だった』と。


 私はそれを聞いて、自分の想いがずっと一方通行のものだったのだと愕然としたのですが、今のジル様の様子を見る限りではそんな感じはありません。

 少なくとも、今はコーデリア様よりもアリーシャを優先してくれているように見えます。

 私ははっとして、まさかとコーデリア様に目を向けた。

 先程まで泣きそうだったコーデリア様はハンカチを手に、刺繍について楽しそうにジル様に話している。

 こうして話していれば、少し離れたところにいたアリーシャにはきっとジル様がハンカチを受け取ったように見えたはず。

 もし、それが目的だったとしたら……。

 思えば、この頃からジル様との関係がぎくしゃくしてきたような気がします。


 ああ、そういうことでしたの。

 私はこの時になって、コーデリア様にジル様を奪い取られたのだと悟った。

 どこが随分前から相思相愛だというのでしょう。真っ赤な嘘ではありませんか。

 まさか今になって、こんな形で真実を知ることになるとは思いもしませんでした。

 私、なんて愚かだったのかしら。

 愛する人のことも信じられず、勝手に誤解して。


 コーデリア様の肩越しに、アリーシャが俯きながら教室を出ていく姿が見えた。

 待って、行かないで。誤解なの、ジル様はハンカチを受け取ってないのに。

 ジル様はコーデリア様と話をされていて、アリーシャが出ていったことに気づいていない。

 早く追いかけたいのに、コーデリア様の話はまだまだ終わりそうな気配もなくて、私は思わず口を挟んだ。


「あの、すみません。コーデリア嬢、急用ができたので僕はそろそろ……」


 私が急に話し出したものだから、ジル様が驚いて口元に手を当てる。

 その様子には気がつかなかったのか、コーデリア様は「あら、私ったらつい楽しくて長々とお話ししてしまいましたわ」とすんなり話を終わりにしてくれた。

 コーデリア様が自席に戻っていくのを見送って、ジル様が誰にも聞こえないように小声で抗議してくる。


「いきなりなんですか! 学園ではしゃべらないでほしいとあれほど……」

「お願い、ジル様! 今すぐ私を追いかけて!」

「私?」


 ああ、もう! ややっこしいですわね!


「アリーシャです! 彼女を追いかけて!」


 『アリーシャ』の単語に、ジル様がぴくりと反応する。

 アリーシャの席へ目を向けて、ようやく彼女が教室にいないことに気がついたらしい。

 ジル様の視線がアリーシャを探して教室を彷徨う。


「アリーシャ……?」

「早く中庭へ行ってくださいませ!」

「中庭?」


 訳がわからないといったふうにジル様が聞き返してくるけれど、説明する間も惜しい。

 中庭で人目を忍んで泣いているアリーシャを思うと胸が痛くなる。

 あの時、ジル様が追いかけてきてくれたらどんなに嬉しかっただろう。

 私は祈るような気持ちでジル様に願った。


「早く行ってあげて! 彼女を……アリーシャを一人で泣かせないで……!」

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