第5話 二人の少女

 まだ委員の仕事が残っているから図書室を離れられないというブライト様を残して、私とジル様は図書室を後にした。

 再び誰もいない廊下を歩いて元来た道を戻っていく。

 教室棟に続く渡り廊下を歩きながら、私は内心言い知れぬ不安に駆られていた。

 ジル様もブライト様も、アリーシャと会うことに何の疑問も感じてはいないようだった。

 アリーシャはここにいるのに。

 ということは、やはりアリーシャは別にいるということなのでしょうか。

 だとしたら、ジル様やブライトさまの言うアリーシャとは一体……?



 ***



 渡り廊下から教室棟へ入ると、徐々にすれ違う人が増えていく。


「ジルベルト様!」


 聞き覚えのある少女の声に呼び止められて、ジル様が振り返る。

 その人物を見た瞬間、私はぎくりとした。

 体の支配権が私にあったら、きっとびくりと体を震わせていただろう。

 できれば、もう二度とお会いしたくはありませんでしたわ。

 私はジル様越しに、少し先の未来で彼の愛を勝ち取って結婚した子爵家のご令嬢コーデリア・パッカー様に目を向ける。

 背中の中ほどまで伸ばした栗色の巻き毛をしたコーデリア様は、ジル様に駆け寄ると制服の紺のワンピースの裾をつまんで淑女の礼をとった。


「おはようございます、ジルベルト様! 今日はお天気に恵まれてよかったですわね!」

「おはようございます、コーデリア嬢。これなら先日雨で中止になった授業ができそうですね」

「ええ! そういえば、来週の授業のペアの方はもうお決まりになりまして?」


 コーデリア様は手を前に、もじもじと指をいじりながら上目遣いで見つめてくる。とても可愛らしい仕草だ。その人懐っこそうなくりくりとした茶色の瞳に見つめられたら、世の殿方たちがときめかないわけがない。

 結果的に、ジル様もコーデリア様に射止められてしまったわけですが。

 私は毒のようにもやもやと広がる黒い気持ちを押さえつけて、ジル様の返答を待った。


「まだですが、アリーシャに声をかけるつもりですよ」


 てっきりコーデリア様からのお誘いを受けるのかと思いきや、ジル様は私とペアを組むと言ってくださった。

 まさか断られるとは思っていなかったのか、コーデリア様の表情が固まる。


「そ、そうでしたの……では、また別の機会にお誘いいたしますわ」


 ややあって上ずった声で言い放つと、コーデリア様は引き攣った笑みを顔に貼りつけて教室へ入っていった。

 そんな彼女の後ろ姿を見送ったジル様は小さくため息をついた。


「はぁ……またも何も、何度来られても僕はアリーシャ以外と組むつもりはないんですが……」


 ため息交じりに呟かれたジル様の言葉に、私は胸が熱くなる。

 私、ジル様にこんなにも想っていただけていたのですね。

 嬉しい……体が自由だったらきっと泣いてしまっていましたわね。

 そんなことを思っていると、不意にまた背後から呼び止められる。


「ジル様!」


 私はその声にぎくりとした。

 聞き覚えのある、いや、聞き覚えのありすぎるその声は確かにアリーシャのもので。

 振り返れば、腰のあたりまで伸ばした銀髪をハーフアップにしたアリーシャが、深い青の瞳を嬉しそうに細めてこちらに歩いてくるところだった。


「おはようございます、ジル様」

「おはよう、アリーシャ」

「昨日はお付き合いいただいてありがとうございました。パンケーキ、ふわふわで美味しかったですわね」


 どうやら昨日アリーシャはジル様とパンケーキを食べに行ったらしい。羨ましい。

 昨日のことを思い出したのか、ジル様も楽しそうに頬をほころばせる。


「いえいえ。僕も貴女が美味しそうに食べる姿を見て楽しませてもらいました」

「むぅ、それって私が食いしん坊って言いたいんですの!?」


 子供っぽく頬を膨らませてみせるアリーシャに、ジル様は笑み深めて頭をなでる。


「僕はそこも貴女の魅力の一つだと思っていますよ」


 頭を撫でられたアリーシャがはにかんだような笑みを浮かべる。

 それを見て、私は思い出した。

 そうだ、私はジル様にこうして頭を撫でてもらうのが好きでしたわね。

 あまりのショックに声すら出なかった。

 姿も、声も、しゃべり方も、仕草も、すべてがアリーシャだった。

 私が私を間違うはずがありません。


 それじゃあ、ここにいる私はなんですの?


 ジル様と話をするアリーシャが本物だというのなら、私は本当に幽霊だとでもいうの……?

 確かに私にはジル様に婚約破棄を言い渡されて、崖から飛び降りた記憶がある。

 死んだかどうかまではわからないけれど、あの高さならまず助からなかったに違いない。

 それなら、ここは死後の世界だとでもいうのでしょうか。

 こんなに近くにいるのに、触れることすらできない。

 まるで狭い檻の中からガラス越しに世界を見ているかのような感覚に、全身から血の気が引いていく。


 目の前にいるのは確かにアリーシャで、私だってアリーシャのはずで。


 今まで信じていた私というものが、がらがらと音を立てて崩れ落ちていく。

 自分がアリーシャだと証明する術を持ち合わせていない私は、ただ黙って見ていることしかできなかった。

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