口紅の魔女

 むかしむかしあるところに『口紅の魔女』がいました。


 口紅の魔女はいつも艶やかなルージュを引いて、男性に限らず女性からの視線も釘付けにしていました。


 笑った顔。

 泣いた顔。

 怒った顔。

 悲しむ顔。


 どんな表情をしても崩れることのない美貌。

 街を歩けば誰もが振り向き、色鮮やかなドレスは空を舞う花弁のようだと人々を虜にしていました。

 ただそこにいるだけで目立つ魔女。

 にも関わらず何処に住んでいるのか何をしているのか知る者はいない。


 秘密の無い女なんてつまらないでしょ?


 酒を片手に詰め寄る男達を魔女はいつもあしらってばかりいました。


 夜の帳が下りる頃。

 いつものようにフラリと酒場に現れた魔女を目で追う女がいました。

 女はこの街一番の美女でした。

 街に住む者の視線を釘付けにして毎晩のように言い寄られる。

 魔女が独占する感情は元々自分に向けられたものだったのにと妬ましさを募らせていた女は、その秘密とらやを全て暴いてやろうと考えていました。

 いつもなら人知れず酒場から消える魔女を見逃さず、通りを歩く背後を執念深く追いかけました。


 足音を消し。

 耳を澄まし。

 目を凝らし。

 物陰に隠れ。


 気づかれぬよう距離を保ち。

 魔女の正体に近づいていきました。


 一歩。

 一歩。


 いくつ目かの角を曲がり裏路地へ入った魔女を見て、はて?

 前にも似た光景を見た気がすると女は首を傾げました。


 これは一体、いつの記憶だ?

 これはただの、思い違いか?


 気のせいだと振り払い見失わないよう歩調を早めました。


 あら、またアナタなの?


 暗がりに。

 踏み込む瞬間。


 心配しなくても決めた通り。

 このまま街を出ていくわよ。


 唇に。

 柔らかく。


 暖かい。

 濡れた。

 何かが。

 触れて。


 ーー……あれ?


 魔女を尾行していたはずの女はいつの間にか。

 朝焼け射し込む自室で目を覚ましていました。


『キスした相手の記憶を消す』


 ルージュの乗った唇を誰かの唇に重ねれば、自分に関する記憶を消すことができる。

 愛憎ほど面倒で厄介で特別な感情は無い。

 そのことをよく知る魔女は同じ人間に三度、強い感情を向けられたら去る決まりを自らに課していました。


 女とのキスはこれで三度目。

 お別れの瞬間が来たのです。



 突然いなくなった魔女に男性だけでなく女性も悲しみを訴えました。

 しかし熱病のような感傷も時が経てば薄れていくもの。

 道行くドレスも酒場のルージュも今は昔。

 夜を彩る誰かの存在は年月と共に消えていきました。


 ただ一人。

 街一番の美女に返り咲いた女だけは。

 一度も見ること叶わなかった魔女がどんな人物だったのか。

 消されてしまった記憶を埋めるかのように。


 口付けを交わしたあの姿を。

 初恋のように求めるのでした。

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