第2話 2
翌朝、夜が明けきらぬうちにハンスは台所にいた。
床下から懐中時計をとりだし、中を確かめていた。天鵞絨をしきつめた箱の中には、いずれも劣らぬ意匠が刻まれた懐中時計があった。銀が一つと金が一つ。これのどちらかが、昨夜の男がさがしているものだろうか。ハンスは木綿の手袋をはめて、時計を手に取った。金の時計の蓋には、四つ葉のクローバーが描かれていた。竜頭を押して開くと、ガラスカバーの下の文字盤は、エメラルドが埋められている。銀の時計は長期間磨かずにいたわりには、銀特有の曇りがない。可憐な小花が線で刻まれていた。青い花だろう。花の部分に細かいサファイアの粒が光る。
――忘れな草よ……
店の掃除をしていたエラが指さして教えてくれた。
――きれいな時計ね。
少女のように青い瞳をきらめかせて、飾られた時計を見つめていた。
懐中時計はハンスが幼いころから祖父の作業机の後ろに飾られてはいたが、エラに教えられるまでじっくりと見たことがなかった。ハンスには前世紀に作られたもののように感じられた。高価な材質はもとより、手の込んだ装飾だ。昨夜の貴族然とした男が持つのに、いずれも相応しいように思える。
きちんと、動くだろうか。ハンスが竜頭を回そうとしたとき、表の扉をノックする音がした。
「いま開けます」
ハンスは時計を手早く箱にしまい、店を通って扉へ向かった。隣のパン屋のアンおばさんが立っているのが見えた。
「おはよう、ハンスさん。これ、いつものね」
パンのようにふっくらとしたアンおばさんは、挨拶もそこそこに紙につつんだ焼き立ての丸いパンをハンスに渡した。隣でパン屋を営むアンは、毎朝パンを届けてくれる。パンは香ばしい香りがした。ライ麦パンは窯から出したばかりらしく、晩秋の朝の寒さにはありがたいほど温かい。
「クルトの様子はどうだい、学校へは行けそう?」
ハンスは眉をしかめて首を横にふった。
「まだ、無理そうです。熱が少しあって、食欲がなくて」
食事をあまり摂らないのは、母親のエラが亡くなって以来だ。すでに四か月近くになる。戦争が終わってようやく親子三人暮らせると思った矢先に妻は亡くなった。
「あんたは偉いよ。男手ひとつで、奥さんの連れ子を……」
いつもの繰り言にハンスが苦笑いする前に、二階から激しい咳が聞こえた。
「クルト!?」
尋常ではない勢いの咳にあわてて、ハンスはパンをショーケースの上に置き二階へと駆け上がった。階段からすぐの部屋の扉を開けると、ベッドの上にうずくまり、咳き込むクルトの金色の頭がみえた。激しい咳が止まり顔をあげたクルトは、自分が吐いた血に濡れたシーツを呆然と見つめた。
見開いた青い瞳が絶望的の色をにじませている。ハンスはやにわにベッド横の机のうえに置いてある薬の紙包みを開き、水差しを手にするとクルトに飲ませた。
「クルト!」
ハンスはクルトの背中をさすった。粉薬にむせながら薬を飲みこんだクルトは、苦し気に夜着の上から胸をかきむしった。
「荷車を借りてくるから!」
階下からアンの声がした。医者はここから離れたところにしかいない。ハンスは咳がなんとか収まり、ぐったりとしたクルトを毛布で包み、抱き上げた。その軽さに眉間にしわが寄り喉の奥が熱くなる。まさか、エラと同じ病に侵されたのだろうか。
――クルトをお願い、あなた。
妻との最後の約束を守らなくては。ハンスはクルトを抱えて慎重に階段を下りた。店さきに、アンが懇意にしている粉屋の荷車が横付けされていた。
毛布にくるまったクルトは荷台で静かに眠っていた。正常な呼吸を取り戻し、失った体力を回復させるかのように深く眠っている。
ハンスは視線を前に戻し、荷車を町へと進ませた。ときおりどこからか落ち葉を焚く匂いがする。風の冷たさにも秋を感じ、ハンスの手はかじかんだ。
医者に診てもらってからの帰り道だ。昼を過ぎたばかりだというのに、すでに夕方の気配がする。雄のロバが引く小さな荷車は、麦畑のなかの一本道を通り過ぎていた。去年は空襲がなんどもあり、付近の畑はろくな収穫がなかった。今年の夏の終わりに播かれた麦は、短いけれども青い新芽を伸ばしている。麦は厳しい冬を耐えて過ごす。そして翌年の初夏に刈り入れされる。
来年になったら、きっと今よりも暮らしはよくなっているはずだ。ハンスは医師から言われた言葉を何度も何度も頭の中で繰り返していた。
……お気の毒だけれど、クルトは結核に感染している。特効薬はあるが、いまは入手が困難だ。手に入るとしても、非常に高価だ。入院できる病院はこの近辺にはないので、もっと大きな町まで行かないと治療はできない。今は、とにかく栄養のあるものを食べさせて安静にさせることくらいしか手立てがない。
戦争が終わったばかりで、病院はいまだ再建の途上だ。医者も薬も足りていないのだ……
すまない、と若白髪の医師はハンスに告げた。
薬の代わりに栄養のあるものをと言われたが、肉や卵、牛乳などいつでも手に入るものではない。それにせっかく食材を手に入れても、ハンスの料理の腕で作れる料理はたかが知れている。
こんなとき、妻が生きていたならと思わずにはいられない。
割れた石畳に車輪がはまらないようにと、慎重に避けて進む。爆撃で壊れた教会の修復が急ピッチで行われている。組まれた足場に、夕陽が差し込む。
どうか、クルトを見守りください。ハンスは胸の中で祈った。
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