第3話 3

 家に戻り、クルトには蜂蜜入りの温めたミルクを飲ませて寝かしつけた。それから荷車を粉屋に返してくると、辺りは闇に沈み始めていた。

 明日は肉屋を訪ねて、鶏の骨でもいい。何か分けてもらって来よう。そう考えてハンスが手を重ねて息を吹きかけると、すぐに白く変わって夕闇にとけた。

 店の扉を押してハンスが入ると、背後に人の気配を感じた。

「こんばんは」

 声におどろき、振り返ると昨日の男がいつのまにかハンスの後ろにいた。

「こ、こんばんは」

 ハンスはつかえながらも、なんとか挨拶を口にした。いきなりの訪問に、ハンスの背中がざわつき腕に鳥肌が立った。

「もしかして、時計を運んできたのですか」

 男はどこか期待するようなまなざしをハンスに向けた。

「夕方、表に荷馬車が止めてあったでしょう。それで、もしかしたら疎開させていた時計を運んできたかと思いまして」

「いいえ、違います。息子を医者に診せに……」

 ハンスは答えながら、台所のテープに置きっぱなしにしたままの箱が男の位置から見えないかと、肝を冷やした。

「それは、失礼しました。息子さん、おかげんが悪いのですか」

 男はハンスに止める隙を与えずに、するりと店内に入ってしまった。くたびれ果てたハンスは、一刻も早く休みたいと思ったけれど、まさか追い返すわけにもいかない。

 男は興味深げに店をぐるりと見渡した。

「何もないですよ。売れるものもないし、修理を頼まれても直せるかどうかは、ある意味運しだい。戦争でわたしが不在だった間も、亡くなった妻が守っていてくれたのに、このざまです」

 ハンスは作業机の椅子に座った。一気に襲いきた体のだるさにうなだれる。店は戦火を逃れたが、無理が祟ったエラは、ハンスが復員して間もなく他界した。

「今はどこもそうですね。わたしが逗留しているホテルも、水が出なくなることが日常茶飯事です」

 男は空のショーケースに、すっと指を滑らせた。

「あなたは、懐中時計を探すためだけに、こちらへ?」

「ええ、気長に探しているのです。家族もいませんしね。ああ、わたしはバラーシュと申します」

 バラーシュは帽子を軽く上げて、ハンスに自己紹介をした。

「バラーシュさん……残念ですが、ここにはあなたが探すものはないと思いますよ。うちの懐中時計は、わたしの祖父の代から店に飾られていました。まだ若いあなたの物だったとはおもえない」

 ハンスが背後の台所にある懐中時計を意識しながら、バラーシュに説明した。けれど、バラーシュはわずかに困ったように眉を寄せただけだった。

「言葉が足りませんでした。探しているのは、我が家伝来の懐中時計なのです。もとは祖父のものでした。祖父が恋人から贈られたものなのですよ」

 ああ、とハンスは小さく声をあげた。それならば、納得がいく。

「結婚の約束をしていた恋人が、職人に特別に作らせた時計でした」

 淡い月の光に照らされるバラーシュの横顔は、彫こそさほど深くはないけれど、均整のとれた美しさが漂う。

「けれど恋人との結婚を祝福する者は、一族にはただの一人いませんでした」

「それは、悲しいことでしたね」

 思わずハンスは同情した。

「ええ、とても辛かったです。それでも二人だけで結婚の誓いを立てたのです。わたしは指輪を贈り、彼女はわたしに懐中時計を……」

「……わたしに?」

 はっとしたように、バラーシュは口にすらりとした指をあてた。大ぶりな宝石が嵌められた指輪が光った。

「祖父がよく語っていた思い出の品です。一族が離散したときに、手元から消えました。銀製で、忘れな草の模様が描かれてあります」

 思わず出そうになった声を、ハンスは止めた。うちにあるものかも知れない。

「この店に飾ってあった懐中時計は、何かの花模様だったとか」

 ハンスは思わずうなずいてしまった。

「取り戻せるなら、金を積みますよ。ドルがいいですか、それともポンド? なんでしたら、こちらの指輪も差し上げます」

 バラーシュは、右の人差し指を飾る見事なカットのルビーをハンスにかざして見せた。

「ピジョンブラッド、ルビーの最高級品です。懐中時計を買い戻せるなら、代金に色を付けても惜しくはない」

 きっぱりとバラーシュは話した。ルビーの大きさに目を奪われ、ハンスは思わずつばを飲み込んだ。

 もし、うちにあるものがバラーシュの目的のものだったなら。ハンスの中では、クルトの治療代やこれからの生活費について目まぐるしく計算が始まる。

「どうしても見つけたいのです。方々に声をかけてくださったら、助かります。わたしは通りでいちばん大きなホテルにいますから。いつでもフロントまでご連絡ください」

 黙りこくったハンスを体調不良かなにかと思ったのか、一声かけるとバラーシュはそのまま店を出て行った。

 大粒のルビーの指輪、それにそれ相応の代金。どれだけ暮らし向きが楽になるか。エラが過労から倒れた時、ハンスは懐中時計を売って金を作ろうとしたがエラに反対された。戦火の中、守り抜いたものをむざむざ手放すことにエラは抗った。

 ハンスにしても、エラのお気に入りだった懐中時計を手放すのは辛い。

 しかし、今はまとまった金が必要だ。金があれば、クルトを大きな町の医者に診せることができる。設備の整った病院に入院させて治療を受けられる。

 その晩、ハンスは疲れているのにも関わらず、なかなか寝付けなかった。

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