薄暮の客人

たびー

第1話 1

 教会の鐘の音が鳴った。その響きは朝霧にけぶる町の、崩れかかった建物にこだまする。空襲の爪痕がいまだ生々しく残る小さな町に、夜明けが訪れるのだ。

 ハンスは床に手をつき、体を起こした。徐々に焦点が合い始めた目の前には、磨かれた革靴がある。ハンスはふるえる指先で首の右側に触れてみた。ぬるりとした感触と、鋭いものがささって抜けた痕の皮膚の引き攣れ。それからわずかな痛み。つばを飲み込むと血の匂いと味がした。

「さあ、どうする? 夜明けを告げる鐘が鳴りましたよ」

 長身の男はジャケットの埃を払い、乱れた黒い前髪をかき上げると、カウンターのうえの懐中時計を取りあげた。

 白い指が竜頭を押してカバーを開く。懐中時計は、静かに時を刻んでいた。それを目にすると、いかにも満足そうにうなずき、もういちどハンスを見やった。

「君はどちらをえらぶのかな」

 にやりと笑った口の端に、するどい歯がのぞいた。


 男が初めてハンスの店に姿を見せたのは半月ほど前だった。

「クルト、夕食だ」

 ハンスは階段の下で二階のクルトに声をかけた。すでに夕刻、ハンスが営む店の外を枯れ葉が音を立てて走っていく。晩秋の短い日が落ちた。店の前の街灯は終戦からすでに半年を経過したが、いまだ復旧していない。空のショーウィンドウとハンスの作業机が暗がりの中、ランプの灯りに照らされていた。

「クルト」

 息子のクルトからの返事はない。階段を上がってクルトの部屋の扉を開く。昼過ぎに食事を持って様子を見に行った時と同じように、毛布を頭からかぶってベッドに潜り込んでした。

「少しは食べないと、熱がさがらないよ」

 ハンスの言葉に、毛布の下から少し見える金の頭が左右にゆれた。

「おかあさんに、あいたいよ」

涙声のクルトの返事を聞くと、ハンスは深い溜め息をついた。無言で上掛けごしに頭をなでた。天に召された母親を恋しがる。とくに夕暮れ時に。

ハンスは戸締りのために階段を下りて店内へ戻っていった。数日前からの微熱と咳が心配だ。それでなくとも、母親が亡くなってから、前いじょうに食が細くなっている。これでは体力を消耗するばかりだ。

 父親の自分では、母親がいなくなった穴は埋められないのだろうか。階段を下りきると、ハンスは台所からランプを取り、台所と店の境から店内へと体を向けた。

 と、薄暗い店の真ん中に人影があった。

 ギョッとして数步後退りしたハンスに、影が帽子をはずして挨拶した。

「遅くにすみませんが」

 ごく普通の人の声だった。ハンスは胸に手をあて、ひとつ息を吐いた。……まったく、その図体にノミの心臓。ほんとうに使えないやつだな……上官の揶揄する声が不意に聞こえたような気がした。ハンスは居ずまいをただして、声の主のほうへとランプをかざした。

「時計をさがしております。こちらには、年代物の懐中時計があったと聞きましたが」

 ランプの灯りの輪の中に現れたのは、コートをまとった長身の男性だった。来年四十になるハンスより若そうだ。白い額に漆黒の髪が一筋。切れ長の目が自分たちとは異なる東欧的な雰囲気を漂わせていた。

「たしかにうちは時計屋ですが」

 ハンスは慎重に言葉を選び、男を観察した。ガラス窓越しに表通りを見る。すでに往来は途絶えたようだ。男は一度脱いだ帽子を再び頭に乗せて、手は体の前に組んである。怪しいそぶりはない。

「貴重な時計は、戦時中に田舎の親戚の所に疎開させて、まだこちらには……」

 ハンスは言葉を濁し、大きな体を小さくして頭をかいた。

 いまだ治安が回復していない。閉店間際の夕刻の客。用心することに越したことはない。ハンスは護身用の拳銃の場所を頭の中で確認した。

「そうですか。では、いつこちらに戻ってきますか」

「いつって」

 ハンスは男の熱心さに言いよどんだ。男の瞳が光ったように感じ、背筋がひやりとした。

「一週間か、二週間後には」

 まばたきもせずに見つめる男の圧力に気おされ、ハンスは思わず適当に返答をした。

「そうですか」

 男がほっとした様子で薄い唇の両端をあげて微笑んだ。

「では、またお邪魔します」

 男はハンスに挨拶をすると、店の扉へと向かった。ハンスは慌てて呼び止めた。

「いや、あなたが探しているものとは限りませんよ。質屋にだって懐中時計ならいくらでもあるでしょう」

「そうですね。ほうぼう探して、この町の質屋も何軒か回りましたが見つかりませんでした。それで質屋の店主から、あなたの店には見事な懐中時計が飾られていたと聞きましてね」

「それは、そうですが」

 金や宝石で装飾された年代物の懐中時計が、非売品として店内に飾られていた。

「もしその中にわたしが探しているものがありましたら、譲っていただけないでしょうか」

「譲る?」

「ええ、もとはわたしの物でしたから。むろん、それ相応のお代はお支払いします」

 では、と帽子のつばをわずかに下げて目礼すると名前も告げず、男は細い月が照らす石畳の道の向こうへと去っていった。

 ハンスは男を見送り戸締りをすると、店から台所へと移動した。小さなテーブルの上には、わずかなパンと質素なカブのスープの入った鍋がある。椅子をひいて腰を下ろすと、ハンスはため息をついた。

 以前ここは、温かい部屋だ。妻との短かった暮らしを思わずにはいられなかった。

 妻のエラが毎日床を掃き、窓を磨いた。窓辺には小さな花とハーブの鉢が並べられ、明るい彩りを添えていた。エラは料理に合わせて皿を換える細やかな心遣いの持ち主で、もちろん料理の腕前も素晴らしかった。クルトの三才の誕生日に作った、アヒルの丸焼きの美味さやビーツで赤く染められたスープなどは忘れられない。

 しかし四年後の今。台所は主を亡くし、ハンスが不慣れな手つきで作った素っ気ない料理が一皿テーブルに乗るばかりだ。

「何か食べさせないと」

 ハンスは天井を見つめた。台所はクルトの寝室の真下だ。小さな音ひとつしない。クルトは、ここ数日間微熱がつづき、学校へも行けずに部屋に閉じこもっている。寝る前に、温めたミルクを部屋に置いてこよう。

 ハンスは冷めたスープを温め直しもせず、皿に盛りつけた。たった一人の夕食が数か月続いていた。

 縁のかけた皿へスプーンを入れて、先ほどの客の言葉を思い返した。

 客が探しているものかどうかは分からないが、ハンスの手元には二個の懐中時計がある。疎開させたというのは口実で、台所の床下にかくしてある。長引いた戦争がやっと終わったが、今はまだ混乱している。うかつに高価なものを、人目に触れるようにしておくのは危険だからだ。

 男が求めている懐中時計は、おそらくこの店にはないだろうとハンスは思った。

 店の懐中時計は、どちらもハンスの祖父が買い付けて来たものと聞いていたからだ。客の男は、どう見積もっても三十前半。ならば、「わたしのもの」というのはあてはまらない。

 ハンスはスープとパンを、ただ口に押し込んで食事を終えた。

 二階からクルトの咳が数回した。

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