第二百九十八話 姉妹大戦(3)

 靴底のマグネットの調子を確認しながら、ディアローズは拳を構えた。奇襲で制圧するプランは、完全に崩壊した。一応タックルはモロに入ったものの、ヴァレンティナは平気そうな表情でファイティングポーズを取っている。

 ディアローズもかなりの長身だが、ヴァレンティナはそれよりもさらに大きい。相応に体重差もある。武器を用いない格闘戦では、致命的な差だ。この窮地をいかに脱するか……その答えは、彼女の明晰な頭脳をもってしても導き出せなかった。しかし、後ろに輝星が居る以上、白旗を上げる選択肢はない。


「どうした、姉上。威勢がいいのは口だけか?」


 自分の優位を確信しているのだろう。ヴァレンティナは艶然と笑いながら、挑発的な口調でディアローズを揶揄する。


「略奪されるのが気持ちが良いのはわかったが、略奪し返すのも悪くはないかもしれないね。早く試してみたいところだ」


 欲情にギラつく目で輝星を一瞥するヴァレンティナ。彼は口を一文字に結びながら、一歩退く。情けない話だが、輝星の身体能力では援護すらままならないのが現実だ。せめてディアローズの足を引っ張らないよう、後ろへ控えていることしかできない。


「見え透いた挑発だな」


 鼻血を垂れ流しつつも、ディアローズは軽蔑の籠った笑みをヴァレンティナに向けた。怒りに任せて突撃すれば、容易にいなされ叩きのめされるだろう。ここは慎重に立ち回るべき場面だ。


「そのような下らぬ策を弄せねば戦えぬほど、姉が怖いのか? 大きいのは図体ばかりで、胆力は子犬並みだな。貴様を皇位継承者の最下位に置いた母上の目は確かだったようだ」


「なに……!」


 ヴァレンティナの表情から一瞬にして余裕の色が吹き飛んだ。武人としても指揮官としても、彼女はそれなりの自身がある。にもかかわらず皇位継承争いの埒外に置かれてしまっていた事実は、彼女のコンプレックスだったのだ。

 今まで興味がなさそうなそぶりをしていたというのに、可能性を感じたとたん皇帝の地位に固執するようになったのが何よりの証拠だ。ディアローズはそう考えていた。


「こうして奇襲めいた方法でご主人様を奪取しようとしているのだから、自覚はあるのだろう? 本当に貴様に王の器があるのならば、ご主人様もわらわも皇国の将たちも、すべて言葉で説得できたはずなのだ」


 にやにやと笑いつつ、ディアローズは笑う。実際は殴られた箇所が痛くてたまらないが、あくまで余裕しゃくしゃくという風を崩さない。


「道理の通る大義名分も用意できず、自身を皇帝にふさわしい人間だと周囲に納得させられるカリスマも持たぬ。それが己でもわかっているから、男も皇位もコソ泥のような手段で手に入れようとしているのだ」


「ふ、ふざけるな……! 愚弄するのも大概にしろ……!」


 ギリギリと歯を食いしばり、浅い息を吐いてから、ヴァレンティナは唸るような声で言った。本気で激怒している様子だ。美しく体格の良い彼女が憤怒の形相を浮かべているのだから、その迫力は尋常なものではない。


「おおっと、すまぬすまぬ。図星のようだったな。事実をあげへつらって人の傷口をえぐるのは淑女的な行為とは言えぬ。どうか姉を許してくれ、妹よ」


「違う、わたしは……!」


「何が違う? 自覚があるから、それを指摘されると腹が立つのだ。わらわが妄言を吐いているだけならば、貴様は鼻で笑っていたと思うが……」


「あ、あ、姉とはいえ、言っていい事と悪いことがある! それ以上愚弄するようならば、タダでは済まさないぞ!」


「見たかご主人様! 論戦では勝てぬとみて実力行使をチラつかせはじめたぞ? 自分はその程度の女ですと自白したようなものであることが理解できておらぬのだろうか? くははは……っ!」


 爆笑するディアローズを見て、ヴァレンティナの顔色は赤を通り越してどす黒くなった。力いっぱい拳を握り、足に力を込める。


「後悔するなよ……!」


 実際問題、頭だけはよく回るこの女に、ヴァレンティナは口で勝てるとはとても思えなかった。やはり、黙らせるためには実力を行使するほかない。床を蹴り、ディアローズに飛び掛かる。


「ふん……」


 弾丸のように突っ込んでくるヴァレンティナを、ディアローズは冷めた目つきで迎え撃った。挑発して冷静さを失わせる作戦は上手くいった。しかし、それだけで安心するべきではない。


「うおおおおっ!」


 猛然と繰り出される拳を、ディアローズはなんとか避けた。それと同時にヴァレンティナの懐にもぐりこむ、パイロットスーツの襟首を掴む。


「そおいっ!」


 無重力空間だから、マグネット靴が床から離れさえすれば少々体重差があっても投げ飛ばすのは簡単だ。まして、今のヴァレンティナは頭に血が上り切っている。まともな抵抗などできない。彼女は妹を、突進の勢いを生かしたまま壁へ叩きつけた。


「うわあああっ!」 


 後頭部をしたたかに壁にぶつけ、ヴァレンティナは一瞬意識が遠くなった。その隙を逃すディアローズではない。床にぐっとマグネット靴を押し付けつつ、渾身の力で拳を付き出した。


「ぐわーッ!」


 ディアローズとて、身長百八十を超える偉丈夫である。その全力のパンチをみぞおちに食らったものだからたまらない。おまけに、壁を背にしているわけだから、その衝撃はどこにも逃げることなく彼女の身体を襲った。さしものヴァレンティナも、これはたまらない。


「トドメだっ!」


 二発目のパンチを見舞おうとするディアローズだったが、ヴァレンティナはなんとか壁をけって彼女に飛び掛かった。拳を引く動作に入っていたディアローズは、これを回避できない。


「うっ……!?」


 そのまま彼女は姉の身体に絡みつき、手首を握りながら腕を首に巻き付けた。柔道じみた寝技でディアローズの関節と首を同時に締め上げる。無重力空間では、立ったまま寝技をかけられるのだ。


「うぐっ!?」


 格闘訓練を受けていないディアローズに、これから脱する手段はなかった。なんとか抵抗していたものの、頚動脈を締め付けられている以上、長くは続かない。あっという間に気絶してしまった。


「……ッ!」


 姉が完全に落ちたのを確認してから、ヴァレンティナは拘束を解いた。しかし、彼女もすぐには動けない。腹と口元を押さえながら、ギリギリと歯を食いしばっている。吐きそうなのだ。ここで嘔吐すれば、吐しゃ物が口や鼻にまとわりついて窒息死しかねない。耐えるほかなかった。


「うっ……!」


 この隙に逃げるべきかと、輝星は思案する。しかし、自分を守ってこのようなことになったディアローズを見捨てるわけには、絶対にいかない。あれだけ激しく挑発したのだから、放置すれば彼女はヴァレンティナに殺されてもおかしくないだろう。


「うっ……く……はあ」


 そうこうしているうちに、浅く息を吐きつつヴァレンティナが口元から手を離した。どうやら吐き気がおさまって来たらしい。凄まじいタフネスだ。彼女は蒼い顔にむりやり笑みを浮かべながら、輝星を睨みつけた。


「……こうまでしたんだ、わたしから逃げられると思うなよ……!」


 その言葉に、輝星は身を固くした。

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