第百八十六話 騎士の目覚め
お前もキスをしろというノラの言葉に。テルシスは困惑の表情を浮かべた。他人事のつもりでノラたちのキスを眺めていたら、突然当事者にされたのだから驚くなという方が無理がある。
「何故拙者が?」
思わず椅子から立ち上がり、テルシスはそういった。そしてはっとした様子で輝星を見る。
「いや、無論我が主と口づけするのが嫌という訳ではありませぬ。むしろ、我が主こそ拙者のような武道一辺倒の女と口づけをするのは嫌なのでは?」
「そんなことは……」
輝星としても、別にテルシスに嫌悪感があるわけではない。首を左右に振ってから、ノラの方を見る。
「とはいえ、本当になんでさ? キスなんて、どっちかがしたいからするもんだろ」
「いや、テルシスサンってば、輝星サンと子作りするつもりなんでしょ?」
「うむ」
恥ずかしがる様子もなく、冷静な顔でテルシスは頷いた。代わりに輝星が顔を真っ赤にして目をそらす。女性を経験したとはいえ、まだまだこの手の話を真正面から受け止められるほどの度量はない。
「キスもうまくできない女が、上手く子作りなんてできると思うデスか?」
「……ん? 確かに、言われてみれば……」
「納得するんだ……」
ひどい理論だと輝星は思ったが、テルシスはぽんと手を叩いて頷いてしまった。思わず輝星は顔を引きつらせる。
「額のキスなんかセックスには関係しないデスけど、唇は重要デスからね。今のうちに練習しておいて損はないデスよ」
「ふむ、一理ある」
「あるか?」
思わず輝星は突っ込んだが、テルシスは気にしていない様子で彼に向き直った。やはりその表情には、照れやら羞恥やらの色は一切ない。かつて彼女は『恋だの愛だのはサッパリわからない』と言っていたが、その言葉は誇張ではないらしい。
「まあ、物は試しです。我が主がよろしいのでしたら、一度試してみたいのですが」
「減るもんじゃなし、一発やっちゃうデスよ」
冷静なテルシスが気に入らないのか、ややむっとした様子でノラが煽った。少し考えて、結局輝星は頷く。なにしろ、テルシスに結婚しようと言い出したのは自分なのだ。ここでキスを拒否するのは、失礼だろう。とはいえ、容易にそう判断してしまえる自分にはやや自己嫌悪を抱かずにはいられないが……。
「それでは、失礼します」
そう言ってテルシスは輝星に歩み寄ると、軽くしゃがみこんだ。彼女はかなりの長身なので、こうでもしないと顔の高さを合わせられないのだ。
「ああ、キスの経験は輝星サンのほうが圧倒的に多いデスからね。今回は輝星サンにリードしてもらうデスよ」
「俺がヤリチンみたいな言い方だな……」
「逆に聞きますが、輝星サンは今まで何人の女とキスしました?」
「……五人」
こういう質問なら人数ではなく回数で聞くべきではないかと思いつつも、輝星は真面目に答えた。
「十分多くないデスか? テルシスサンはゼロデスよね?」
ニタニタと笑うノラの確認に、テルシスは神妙に頷く。
「いままで男性に興味を抱いたことはないからな。父上以外の手をつないだことすらない」
「ほらね?」
「……」
何とも言えない神妙な表情で、輝星は顔を反らした。
「ま、こういうのは経験者にリードしてもらった方がいいデスよ。勢い余って歯でもぶつけたら目も当てられないデス」
「ふむ、相分かった。それでは我が主、よろしくお願いいたします」
「目は閉じるんじゃないデスよー。しっかりとやり方を見とかなきゃ」
「わかっている」
ずいと顔を突き出してくるテルシスに、輝星はもうほとんどヤケクソになって唇を重ねた。もはやすっかり慣れてしまった、柔らかい感触をじんわりと感じる。それを見ていたテルシスの顔が、どんどんど赤くなっていった。突然荒くなった息が、輝星の顔に当たる。
「ひぅっ……」
ひどく慌てた様子で、テルシスは顔を離した。りんごのようになった頬を手で押さえつつ、唾を飲み込む。ごくんという音が、はっきりと聞こえた。ノラがニヤリと笑う。
「おやおや、どうしたんデスかテルシスサン。”天剣”ともあろうものが、自分から退くなど」
「なっ……! いやっ、退いたわけでは……と、突然心臓がドキドキしてっ!?」
「ほーん。じゃあ、もう一回できますよね?」
嗜虐的な口調でそう言いつつ、テルシスをまっすぐ見つめるノラ。「うっ」と一歩引いたテルシスだったが、困惑した様子の輝星を見て動きが止まった。今の自分の態度は、失礼なのではないかと思ったのだ。あわてて、彼の肩に両手を乗せる。
「もっ、申し訳ありませぬ! ただいま致します!」
そのまま、まるで壊れ物を扱うような慎重さで彼女は再び輝星に口づけした。しかし、先ほどとは違いぎゅっと目をつぶっている。激しく跳ねる鼓動の音が、微かだが確かに聞こえてきた。唇を通して、テルシスの体温が急上昇しているのも感じられる。明らかに、冷静な様子ではなかった。
しばらく二人はそのまま唇を重ねていたが、やがてテルシスは突然ぺたんとしりもちをついた。その拍子に、ツツツと唇の端から唾液が垂れる。慌てて彼女はそれをぬぐい、何度も唾を飲み込んだ。
「う、うわあああっ!」
羞恥が極まったのか、テルシスは真っ赤になった顔を両手で押さえつつバネ仕掛けのおもちゃのような勢いで立ち上がった。そのまま、ドタバタと足音を立てつつ部屋から走り去る。ものすごい勢いだった。
「ははははっ! これこれ! これが見たかったんデスよ!」
ノラはもう、大喜びである。彼女が出て行った扉を指さしつつ、声を上げて笑う。
「どうしたの、あれ……」
冷や汗をかきつつ、輝星が聞いた。恥ずかしかったにしろ、尋常な反応ではない。
「テルシスサン、唾を何回も飲み込んでたでしょ?」
「飲んでたね」
「ワタシたちはね、エロい気分になると唾液が多量に分泌されるんデスよ。雄に媚薬を流し込むためにね。つまり、テルシスサンはさっき、びっくりするくらいスケベな気分になってたってことデス」
自慢げに笑いつつ、ノラは手をひらひらと振った。
「あの人、これまで全然男に興味がなかったわけデスよ。いわゆる性の目覚めってヤツじゃないデスか? 今のが」
「キスで性に目覚めるのか、ヴルド人……」
ちょっと引いている様子の輝星に、ノラはケラケラと笑い転げた。そして、もう一度出入り口の方に目をやる。
「さて、さて。邪魔者も消えたデスし、本題に入るとしましょうか」
「さっきのが本題じゃなかったの!?」
「ま、目的の一つではあったデスけどね。実はワタシ、大事な話があってここに来たのデス」
表情を改めてそういうノラに、輝星はげんなりした様子で首を振った。正直に言えば、キスの件ですでに彼の精神は満身創痍だった。これ以上の面倒ごとは避けたい。
「どんな話?」
「もしかしたら、輝星サンの嫁がもう一人増えるかもしれない話デス」
その言葉に、輝星の表情が驚くほど渋いものになった。
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