第百六十三話 上書きマーキング

「いや、安心してほしい。別にわたしは、我が愛に対して怒っているわけじゃあないんだ。むしろ、キミは被害者なのだろう?」


 ノラが逃げ去ったと思わしき方向を睨みつけ、ヴァレンティナは息を吐いた。そして、輝星に向き直るとずいと身体を寄せる。


「失礼」


 短く断り、彼女は輝星の胸元をまじまじと見た。鎖骨やのどに、ノラの歯形がいくつもついている。強く噛まれたわけではないので、すぐに消えるだろうが……ヴァレンティナとしては見過ごせるものではない。


「いや、これは……」


「……」


 輝星の言い訳に耳も貸さず、ヴァレンティナは輝星をぐいと壁に押し付けた。そのまま、彼の顔の横の壁に片腕をやや乱暴に叩きつける。いわゆる壁ドンの姿勢というやつだ。


「あの女はあとでお仕置きするとしてだ。今は可及的速やかに、キミについた雌犬の臭いを上書きしなくてはならない。そうだろ?」


「いや、その理屈はおかしい」


「たしかに少しおかしいのかもしれないね。でも、わたしを狂わせたのはキミなんだよ?」


 目線を合わせるために少ししゃがみこむと、ヴァレンティナは熱っぽい目つきで輝星をまっすぐに見つめた。


「だから、これは我が愛の自業自得だ。わかるね?」


「そ、そんな理不尽な……うっ」


 そう言うなり、彼女はぐっと自らの身体を輝星に押し付けた。二人の身長差は二十センチほどもあり、ほとんど覆いかぶさっているような状態である。ヴァレンティナの肉体は柔らかくも適度にハリがあり、そして興奮からかひどく熱かった。


「まったく、姉上といいノラといい、わたしの前でよくもまあ好き勝手してくれる。おかげで、タチの悪い性癖に目覚めてしまいそうだよ」


 タチの悪い性癖とはいったい何だと、輝星の脳の冷静な部分が疑問に思った。しかし幼い風貌の少女からの誘惑に続き、高身長豊満美女からの誘惑を喰らうというジェットコースターじみた状況に彼の理性は限界を迎えつつあり、余計なことを言う余裕など一切ない。


「おや、ふふ。今日の我が愛は、随分としおらしい。普段のクールな態度はどうしたのかな?」


 身体を離したヴァレンティナは輝星の顎を優しく撫でつつ、艶めかしい声で聞いた。そして返事を待たず、彼の唇に軽く口づけする。驚く輝星に、彼女はスキップでも踏みそうなほど上機嫌な様子で言う。


「聞いたよ。地球人テランにとって、唇へのキスは重要なあいじょうひょうげんらしいじゃないか? 大丈夫、唾液さえ入れなければ問題ないだろう」


 額へのキスはしたことがあるが、唇へは一度もキスをしたことがないのがヴァレンティナだ。しかし、ディアローズはそうではない。姉に対する対抗心が、彼女の唇へのキスに対する心理的なハードルを下げていた。


「ん、ふ……もう一回だ」


 二度三度と、ヴァレンティナは啄むようにキスをする。ディアローズにされた濃厚なディープキスとはまた感覚が違うが、これはこれで気持ちがいいものだ。熱に浮かされたような目で、輝星はヴァレンティナをぽーっと見つめる。


「出来ることならね、わたしはキミの全身にキスをしたいんだ。それくらい、わたしは我が愛のことが大好きなんだよ」


 見つめ合ったまま、ヴァレンティナは輝星についた噛み痕をそっと指でなぞった。想い人の身体に刻まれた、別の女の痕。それが、彼女の情欲に火をつけていた。


「手始めに、ここだ。こんなモノなんか、すぐに上書きしてやる」


 噛み痕の上に唇を当てたヴァレンティナは、そのまま強く吸ってキスマークをつけた。一か所だけではない、すべての歯形の上から、彼女は次々とキスマークを付けていく。ノラと間接キスの状態になっているわけだが、興奮しきった彼女はそんなことには全く気付いていない。


「う、うう……」


「どうしたんだい、我が愛。今日のキミは少し可愛すぎるよ? もう少し抵抗してくれたって、私は構わない――」


「おい」


 ひどく冷たい声が、ヴァレンティナ背後からかけられた。あわてて彼女が振り向いた先には、鬼の形相になったサキがいる。


「……しまった」


 表情を凍らせたヴァレンティナは、一瞬どうするべきか悩んだ。正直、彼女の欲望も限界寸前なのだ。いっそサキを気絶させて第二ラウンドに入ろうかと考えたのだが……。


「何やってんだ? えっ、コラ」


 腰に佩いた刀の柄に手を添えながら凄むサキに、ヴァレンティナの戦意は一気に萎んだ。旅館に刀なんか持ち込むなと内心吐き捨てつつも、彼女はぱっと輝星から体を離す。


「……」


 顔をゆで蛸のように真っ赤にした輝星が、どさりと床に崩れ落ちた。彼もいろいろと限界なのである。サキの注意が輝星の方に向いた瞬間、ヴァレンティナは駆けだす。


「申し訳ない、我が愛! この埋め合わせは必ずする!」


「あっおい! 逃げんじゃねーよ!」


 サキは思わず叫んだが、流石に輝星を無視して追いかけるわけにもいかない。急いで彼を助け起こし、聞く。


「お、おい、大丈夫か?」


「だ、大丈夫。ちょっとクラクラしちゃって」


 よろよろと立ち上がりつつ、輝星は答えた。そんな彼の身体のあちこちに付いた歯形だのキスマークだのを見て、サキが顔をしかめる。


「なんてことを……あいつめ、許さねえ」


 どうやら、歯形のほうもヴァレンティナの仕業と勘違いしたらしい。憎々しげなようすでサキは吐き捨てた。


「本当、大丈夫かよ。顔真っ赤だぞ」


「う、うん……ちょっと寝不足で」


「……ったく」


 頬をポリポリと掻いたサキは、輝星の身体をぎゅっと抱きしめた。彼の不調を、ヴァレンティナへの恐怖から来たものだと勘違いしたようである。子供をあやすようにぽんぽんと叩くサキだったが、輝星の方はもう大変である。帝姫姉妹ほどではないものの、彼女もなかなかに良好なスタイルをしているのである。そんな相手にくっつかれたら、もう輝星はいつ自分の理性がプッツンするかわからなかった。


「部屋で休んでろ、メシはあとからあたしが持っていくからさ」


「あ、ありがと……」


 身体を離してそういうサキに、輝星は頷いた。


「とりあえずあたしは、アイツをとっ捕まえてケジメを付けさせなきゃならん。一人で部屋に戻れるか?」


「大丈夫」


「よし、いい子だ……」


 輝星の頭を撫ででから、サキは全速力で駆けだした。テルシスを呼び、ヴァレンティナを捕獲するつもりなのだ。残された輝星はふらふらと廊下を歩きだす。着替えを脱衣所に忘れているが、今の彼にそれを思い出す余裕はなかった。


「く、くそ……どうなってるんだ、今日は。このままじゃあ、俺……」


 ぶつぶつと文句を言いつつ廊下を進む彼だったが、突如暗がりから伸びてきた手によって絡めとられてしまう。そのまま彼は、人気のない物置に連れ込まれてしまった。


「随分と辛そうだな、ん? 我が愛しのご主人様よ」


 輝星を襲った主、ディアローズはそう言って艶然とほほ笑んだ。

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