第百六十二話 マーキング

 朝風呂といえば聞こえはいいが、ゆっくりと湯船に浸かっている時間的な余裕はない、さっさと汗を流し、何事もなかったかのような顔で朝食に行かなければならないのだ。


「ふう……」


 そういう訳で輝星は、体を洗った後そのまま脱衣所に移った。手早くタオルで体を拭き、浴衣を纏う。その後ろでノラも着替えをしているが、そちらは極力気にしないようにする。普段ならばポーカーフェイスを保てるのだが、ディアローズの策略により現在の彼にはそのような余裕はなかった。


「ふうん?」


 そんな輝星を、ノラが愉快さと不愉快さを同時に感じているような、複雑な表情で見た。余裕がない彼はかわいらしいが、別にそれは彼女の誘惑が成功したからというわけではないからだ。


「もう一押し、しておこうか」


 小さくつぶやくと帯をきゅっと締め、彼女は音もなく輝星の背後に忍び寄った。そして、彼の袖をつかむと柔道めいて床へ転がしてしまった。しっかり手加減してくれたせいか、着地はふわりとしており痛みどころか衝撃すら感じない。見事な手際であり、輝星は何が起こったのか一瞬理解できなかった。


「えっ!?」


 困惑する輝星の腹に、ノラはどしんと腰を下ろした。抵抗する彼の腕を押さえつけつつ、ぐっと顔を寄せてくる。


「やっぱり、気に入らないのよね」


 妖艶な笑みを浮かべつつ、ノラは言った。普段の奇妙な敬語ではなく、素の口調だった。


「な、何が……」


「自分の獲物が、ほかの女の臭いをプンプンさせているのが」


 彼女の荒い吐息が、頬を撫でる。まさに獲物を捕食しようとしている肉食獣そのままの様子だ。子供とは思えないその艶めかしい仕草に、輝星の心臓が早鐘を打ち始める。


「ふふ、いいね……その表情。戦場ではあんなに強いのに、今のあなたは子羊みたい」


「誰が子羊だよ……」


 言い返す声にも覇気がない。なんとか拘束から脱しようともがくのだが、筋力の差は明白だ。とてもではないが、逃げ出せない。これでは子羊呼ばわりされても仕方がないだろう。


「安心して。ワタシは狼だけど、いい狼なのよ。だから、今ここであなたを食べたりしないわ。ただ、誰があなたの所有者なのか、ハッキリさせたいだけなの」


 そういってノラは、べったりと輝星に体を密着させた。そのまま、彼の胸元に頬ずりする。おそらく、自分のにおいを付けているのだろう。薄布二枚を隔ててノラの熱い身体を感じた輝星は、ほとんどフリーズ状態になっていた。理性と煩悩の板挟みになっているのだ。


「ずいぶんと心拍が早いわね。怖いの? それとも、期待してるの? ふふ……」


「い、いや、その……」


「だめよ。今ここで食べたりしないって言ったでしょう?」


 体を起こしたノラはひどく艶めかしい表情のままそう言い、輝星の首元へ噛みついた。強すぎず、弱すぎずの絶妙な力加減。脳髄を走る甘美な痛みに、彼の身体がびくりと震える。


「こういうのが好きなの? いいよ、もっとやってあげる」


 かぷかぷと、ノラは輝星の喉元や鎖骨に甘噛みした。そのたびに新鮮な反応を返す彼に、ノラは笑みを深める。もはや輝星の口から意味のある言葉が出てくることはなかった。完全に余裕がはぎとられてしまっているのだ。


「ふ、ふ……かーわいい」


 ノラとしても、年上の男の男を組み伏せて好き勝手翻弄するというシチュエーションにはたまらないものがあるらしい。彼ののどから口を離し、代わりに額へ唇を寄せる。


「んっ……」


 彼女としては、二度目のキスだ。そして真っ赤になった輝星の顔を見て微笑み、もう一度口づけする。額へのキスはヴルド人にとって最大級の愛情表現だ。恋人か夫婦に相当する相手にしかしない。要するにノラは、もうお前は自分のツガイなんだぞとアピールしているのである。


「……っと、そろそろ時間か」


 しかし、ノラはふと壁に設置された時計を見て顔をしかめた。あまり長い事楽しんでいると、怪しまれてしまう。本当ならいっそここで一戦始めたいくらいには興奮しているのだが、流石にそれを控える程度の理性は彼女にも残されている。深くため息を吐き、名残惜しそうな表情で輝星から体を離した。


「ざーんねん、今回はこれでおしまいデス。あんまりオイタをしたら、二人の鬼にシバき倒されますからね」


 皮肉げな笑みとともに、ノラは肩をすくめた。そして輝星の乱れた浴衣を軽く直し、腕をつかんで引っ張り上げる。


「む、無茶苦茶するね、きみ……」


 恨みがましい目で睨みつける輝星だが、どこか残念そうな様子でもある。ノラとしては、その表情が見られただけで十分すぎる収穫だった。満足そうに頷き、彼の腕をぽんぽんと叩く。


「こっちはガチもガチであなたを狙ってるんデスよ。必要ならなんでもやります。無茶苦茶でもね」


 肉食獣めいた目つきでそんなことを言うノラを見て、輝星の背中に寒気が走った。いくら逃げても逃げきれないような凄味を彼女から感じたからだ。俺はもうだめかもしれない。そんなことを、内心思ってしまう。


「ま、そういうわけで……覚悟しておくデスよ、"凶星"サン」


 手をひらひらと振りつつ、ノラは脱衣所から出て行った。残された輝星は深い深いため息を吐き、額に手を当てる。そこには、まだ唇の感触が残っていた。


「どうしようなあ、本当に」


 もう一度ため息を吐いた、そのときだった。突然、脱衣所の外がドタバタ騒がしくなった。慌てて輝星も出口に向かい、外へ出ると……そこには額に青筋を浮かべたヴァレンティナが待ち構えていた。


「やあおはよう、我が愛。……すまないね、あの不埒なメスガキに逃げられてしまった。その様子だと、随分と好き勝手されたみたいじゃあないか……」


 

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