第百六十一話 混浴
「ふーんふーふふっふっふっふーふー」
鼻歌混じりに、輝星の背中をタオルで擦る。その手付きは、まるで美術品でも磨いているような丁寧さだった。広い男湯の中、居るのは彼と彼女の二人だけ。かなりぜいたくな環境だったが、輝星にそれを楽しむ余裕はなかった。
「上機嫌だね……」
目の前にある湯気で曇った鏡を見ながら、輝星は疲れ果てたような声で言う。部屋の前で遭遇したときの不機嫌ぶりとは打って変わって、今のノラは至極楽しそうだった。
「獲物を綺麗にするのは女の甲斐性デスから。どうデス? 私のモノになれば、毎日だってこうして洗って、おまけに着飾らせてあげますけど」
「最低限清潔ならいいかなって……」
「そんな有様でこれだけキレーなんデスから、卑怯デスよねえ……」
肩をすくめてから、ノラは輝星の頬を後ろからそっと撫でる。彼女の年齢にふさわしくない、ひどく艶めかしい障り方だった。
「く……」
思わず身体が反応しそうになって、輝星はぐっと堪えた。正直に言えば彼女の体形はストライクゾーン外なのだが、昨夜の出来事のせいで彼もかなり溜まっている。万一にもこれを悟られるわけにはいかないと、脳内で素数を数え始めた。
「おっと、ほっぺたに泡がついちゃいましたねえ……流しますよー」
ニィと笑って、ノラはシャワーヘッドを掴んだ。輝星が目を閉じると、シャワーの湯を頭からかけられる。そのまま、彼女は全身の泡を洗い流した。
「うっ」
目をあけた輝星が小さく呻いた。いつの間にか、鏡に湯がかけられて曇りが執れている。おかげで、背後にいるノラの裸身をバッチリ見てしまった。彼女はタオルなどというしゃらくさいものは身体に巻いていないのである。輝星は慌てて目をそらした。
「
「君ねえ、もうちょっと慎みというものを……」
「慎みを投げ捨てていいなら、後ろだけじゃなくて体の前もしっかり丁寧に洗ってさしあげますが?」
「勘弁してください……」
勝ち誇った笑みを浮かべつつ、ノラは自前で持ってきたシャンプーのボトルを手に取る。
「ついでに頭も洗ってあげるデスよ。目は閉じといてください」
「ああ、ありがと」
抵抗しても無駄なことは理解している。輝星はおとなしく目を閉じた。シャンプー液を手に出したノラが、そっと彼の髪を洗い始める。意外と丁寧な手つきで、心地が良かった。
「どうデスか? 痛かったら正直に言いなさい」
「大丈夫、気持ちいいよ」
「ふっ」
彼の言葉にノラが艶めかしい表情で吐息を漏らしたが、目を閉じている輝星はそれに気づけない。しばしの間しっかりと洗髪し、シャワーで洗い流した。顔に付いた湯を払っている輝星に、ノラは言う。
「これでサービスは終わりデス。後は自分で何とかしなさい」
ぺちぺちと彼の背中を叩くと、ノラは彼の真後ろにある洗い場に腰を下ろした。どうやら、自分の身体を洗うつもりらしい。輝星はほっと安堵の息を吐き、手早くノラが手を付けなかった場所を洗った。そして立ち上がってシャワーで泡を流す。
「背中を流してあげたんだから、ワタシの背中も流してくれますよねえ? もちろん」
そそくさとその場を立ち去ろうとした輝星だったが、それを逃すノラではない。有無を言わさぬ口調でそう言い切られてしまえば、断ることなどできなかった。ため息を吐き、彼女の背後にしゃがみ込む。
「はい、どうぞ」
泡まみれのタオルを渡され、輝星はもう一度ため息を吐いた。そして、彼女の背中に目をやる。まだ幼さの残る、華奢な身体だ。しかし、なぜかあちこちに古傷がある。
「これは……」
思わず、輝星は目立つ傷跡を指でなぞった。何針も縫ったであろう、大けがの痕だ。くすぐったかったのか、ノラは「んふっ」と奇妙な声を漏らす。
「あ、ごめん」
「いいデスよ。どこをどれだけ触ったって、怒りませんから」
「それはそれで不味いよ……」
ヴルド人全般からして手を出すのは不味いが、何しろ彼女はまだ十四歳なので地雷級にヤバい。比較的早婚の多いヴルド人だが、それでも結婚年齢の下限は男女ともに十六歳なのだ。いや、たとえ法律で許可されたとしても、
「それは残念。……傷が気になりますか?」
「そりゃ、まあ」
いたいけな少女が古傷まみれというのは、見ていて気持ちのいいものではない。輝星は正直に頷いた。
「ワタシはスラム出身デスからね、小さいころから喧嘩ばっかりしてました。ナイフで刺されたことも、一度や二度ではないのデス」
「……なんというか、凄いな。ごめん」
軽々しく聞くには、少し重すぎる話題だった。輝星は表情を暗くして、自分の頬を掻く。
「ま、昔のことデス。チャンスをモノにして、今では帝国のお偉いさんデスからね。……いや、帝国を裏切ったわけだから、もはやそれも過去の話なわけデスから」
そう言ってノラは、ケラケラと気楽に笑い飛ばした。
「ま、所詮は平民出身の雑種犬デスからね。平気で古巣にだって噛みつきますよ……でも、そんな雑種にだってちょっとくらいの誇りと願いはある。そのために、ワタシは戦っているのデス」
「誇りと願い、ね……」
四天といえば帝国の最高戦力であり、その待遇も決して悪いものではなかったはずだ。退役まで勤め上げれば、一代限りの騎士位だけではなく世襲貴族になれた可能性も十分にある。それを蹴って味方をしてくれたのだから、深く感謝せねばなるまい。
「それはさておき、さっさと背中洗ってくださいよ」
「あ、ごめんごめん」
輝星は慌てて、タオルをノラの背中にこすりつけた。こんなことでも、多少は恩返しになればいいなと考えていた彼だったが……ノラの口元に浮かぶ意味深な笑みには、気付くことが出来なかった。
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