第五十九話 兄さん

"レイディアント"の上甲板に、軍楽隊が奏でる勇壮な曲が響き渡る。輝星は頬にあたる潮風の感触を楽しみつつ、自分のすぐ前に立っているアオ皇子の様子をうかがった。


「……」


 皇子は明らかに緊張している様子だった。それもそのはず、彼らの眼前には数百人以上もの軍人たちがずらっと並んでいる。そしてその眼は例外なく輝星とアオに向けられていた。

 少し考えてから、輝星はアオの柔らかな手をそっと握る。彼の体はびくりと震えたが、すぐに全身から余計な力が抜けて手を握り返してきた。


「ねえ、あれって」


「薔薇じゃん。完全に薔薇でしょ。やば、こっそり写真撮ってもバレないかな?」


 一部のクルーたちが騒ぎ始めたが、二人には関係のない事だ。それから二十分ほどして、皇子を迎える歓迎式典は終了した。

 とはいっても、アオにとってはこれからが本番だ。兵士たちと直接顔を合わせて、愛想を振りまく仕事があるのだ。彼の国内での人気はかなりのモノらしく、"レイディアント"以外の艦のクルーやパイロットなども彼を一目見ようとこの艦に詰め掛けていた。


「アオ様ー!」


「こっち向いてー! 手を振ってー!」


 黄色い歓声が飛び交う。アオはそれに、初々しい反応を見せつつも律義に応えていった。そのたびに群衆のボルテージは上がっていく。


「はーい、握手希望の方はこちらでーす」


「押さないでー、皇子は逃げませーん」


 憲兵たちが押し合いへし合いする群衆たちを輝星たちのもとに誘導してくる。アオはその一人一人に笑顔を振りまき、握手に応じる。まるでアイドルか何かの握手会のような様相だ。


「皇国の防人たるあなた方が居るからこそ、僕はこうして無事に過ごせるのです。深い感謝を」


「はい、はい、ありがとうございます」


 言葉をかけられて、涙すら浮かべる兵士もいるほどだ。後ろで見ていることしかできない輝星には、目を白黒させることしかできない。兵士向けの慰安コンサートなどもまず行かない彼にとっては、こういった場は完全に未知の空間だった。


「あ、あの」


 そんな中、ふとアオが輝星に声をかけた。暇ではあるものの、まさか態度に出すわけにもいかず手持無沙汰にしていた輝星は、慌てて「どうかされました?」と小さな声で返す。


「その……輝星さんも握手してあげていただけませんか?」


「えっ」


 なぜそのようなことをしなければならないのか。輝星は困惑しつつアオを見たが、その後方に控える兵士たちの期待に満ちた目を見て何も言えなくなってしまう。


「お願いします」


「……わかりました」


 不承不承、輝星は頷いた。結果、彼は一時間以上にもわたって興奮した兵士たちの相手をする羽目になってしまう。


「ふー……」


 それから、しばらくの時間が経過した。やっとのことで慰安イベントを終えた二人は、港のはずれにある小さな喫茶店に居た。貸し切りにしているらしく、店内には輝星たちと護衛の憲兵や近衛隊の姿しかない。


「殿下、いつもこんなことをされているんですか?」


 肩に手を当てながら輝星が聞く。慣れないことをしたせいで、下手な戦闘に出るよりも疲労がたまっていた。気疲れもあるだろう。ギラギラと興奮した連中を右から左に捌くのは、なかなか難儀な作業だった。


「まあ……そうですね」


 奥ゆかしく笑い、アオは言葉を続ける。


「皇子の仕事は、こういったものばかりですから」

 

「ひぇ」


 自分であれば一週間も持たないだろうと、輝星は渋い顔になった。


「輝星さんこそ、男性だというのに戦場に出て……凄いですよ。僕なんか、戦うなんて考えただけで怖くて……とても」


「いいんですよ、それで。どいつもこいつも好き好んで戦争するような人種ばかりだったら、この世の終わりってもんですよ」


「そうですか? ……いや、確かにそうかも」


 そう笑ってから、アオは湯気を立てるココアを一口飲んだ。


「……ところで」

 

「はい」


「輝星さんは、姉さんとは仲が良いのですよね?」


「え? はあ、まあ……食事に誘う程度には」


 もっとも、誘った結果があれだ。泣かせるわ、帝国の変態ストーカーに襲われるわ、悪いことをしてしまったという感覚しかない。幸いにもシュレーアはそこまで引きずっていないようなので、そのうち何か埋め合わせをするべきではなかろうかと輝星は考えていた。


「では、僕にとっては兄のようなものですね」


「あ、兄?」


「はい、兄です。兄さんと、お呼びしたいのです。よろしいでしょうか……?」


「なんでそうなるんだ……」


 輝星は困惑した。だが、こちらを見つめるアクアマリン色の澄んだ瞳に思わず何も言えなくなってしまう。


「兄かぁ……」


 が、悪い気分ではない。脳裏に浮かんだのは、姉の夫となった男の顔だった。彼には、姉弟そろって昔から世話になっていた。いわば、血のつながらない兄のようなものだ。


「まあ、そういうことなら。この北斗輝星、謹んで兄にならせていただきます」


 冗談めかした言い方に、思わずアオが噴き出す。


「面白い方ですね、輝星さんは」


「ははは……」


 肩をすくめて、輝星はコーヒーで口を湿らせる。ミルクも砂糖もたっぷり入った甘党仕様だ。


「兄になったのなら、敬語なんてやめてくださいよ? せっかくなんですから」


 にやりと笑って、アオが言う。


「シュレーア殿下は誰にも彼にも敬語じゃないですか」


「姉さんは姉さんですよ。そういう性格なんだから」


「確かに」


 そうとう頭に血が上らない限り誰に対しても敬語を崩さないのが、シュレーアという女だった。それはそれで好ましいといえば好ましいが、真似はできない。


「わかった、そうするよ」


 そのシュレーアにも敬語をやめろと言われて従っているのだから、アオに対しても同じようにして構わないだろう。輝星は頷いた。


「でも、だったら俺に対しても敬語はやめてほしいな。だってさ、きみも姉に対してはそういう口調じゃないだろ?」


「ふふっ」


 わが意を得たりとばかりに、アオが笑った。


「わかったよ、兄さん」


 

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