第3話

 朝井由香の顔色は、まるで信号のように変化していた。ほほえみから青ざめ、それから真っ赤になっている。

「なんのことでしょうか」声は震えていた。

「あなたが、榎本の父親と不倫していることです」わたしははっきりといった。

 彼女が顔をふせる。沈黙がおとずれた。長い静寂がふたりのあいだにあった。まるで時間が止まったかのような錯覚をおぼえた。開け放しの窓からは部活動にいそしむ生徒たちの声が校舎まで届いている。七月の空はきょうも快晴だった。

 やがて、ゆっくりと彼女は顔を上げた。まるで能面のように感情がなくなっていた。

「いつから、気づいていたのですか」

「まあ、教師も長くやると、いろいろな情報網ができてくるのですよ」わたしはこたえた。「ただ、確信を得たのは、このまえの試合のときです。朝井先生、あなた、先日の試合のとき、榎本の父親とデートしていましたね」

 返答は無言だった。正解の沈黙だ。わたしはつづけた。

「あのとき、彼の父親と挨拶をしたとき、違和感をおぼえたのです。あれは息子の練習試合を見学にくる父親の服装ではない。だれかと会うときの格好だ。しかも特別な相手と。さらにいえば、喫煙所で休んでいるとき、見てしまったのですよ。あなたと榎本の父親が仲睦まじく、腕を組んで歩いているのを。野球の試合は長い。ふたりだけの時間を満喫するには充分なほどに」

 いい終えたあと、二度目の静寂がおとずれた。彼女は顔をふせていた。細い肩が震えている。それを目にしたあと、罪悪感が襲ってきた。ここまで糾弾するつもりはなかったのだ。

 蝉の鳴き声がやけに大きく響いたあと、彼女はふたたび顔を上げた。そこにはさきほどと違う感情の色があった。真っ赤に充血した瞳のなかに決意の光があった。そのまなざしをこちらに向け、口をひらいた。

「佐藤先生のおっしゃるとおり、すべて事実です。しかし、ひとつだけ、訂正を。私たちの関係は不倫ではありません。あの人はフリーです」

「離婚調停中と聞いています。つまり、まだ既婚男性だ」

「今月中に話がつきます。そのあとは自由です」

 彼女の言葉には見えないとげがあった。まるで自分以外のすべてを攻撃しているような排他的なとげが。

「信じてもらえないかもしれませんが、私たちの関係は本気です。世間体もあり公にはできませんが、榎本くんが卒業後、正式に籍をいれる予定です」

 わたしはおどろいて、ぽかんと口をあけていた。ふたりの関係がそこまで進んでいるとは。

「そのこと、榎本には?」

「いってません」彼女のまなざしがゆらいだ。視線のさきには哀しみの色がある。「いえるわけ、ないじゃないですか・・・・・・」

 男女のあいだにはさまざまなかたちがある。目のまえのこれもそのひとつだ。ふと、二十年ほどまえに別れた妻のことを思い出した。いまはなにをしているだろうか。離婚して数年は手紙のやりとりをしていたが、いつのまにかなくなっていた。時間というのは無情だ。年老いたなか、楽しかった思い出さえ、風化させてしまう。

「ふたりがそこまで真剣だとは想像していませんでした」わたしはいった。「申し訳ない。知らなかったとはいえ、糾弾したことを許してほしい」

「いえ・・・・・・」彼女は指で目尻をぬぐった。

「しかし、逢瀬の方法は考えたほうがいい。おふたりの関係の発覚は、一番、榎本に影響してくる」

「わかってます。そのことについて、これから話し合っていこうと思います。それで、あの」

「ああ、大丈夫です。このことはだれにもいいません」

「ありがとうございます」彼女は大きく頭を下げた。あでやかな黒髪のなかに茶色がまじっている。「それでは、失礼します」

 朝井由香はこちらをふりかえることなく、堂々と去っていった。だが、その小さい背中が震えている。夏の放課後、開け放しの校舎のなか、長い廊下を歩く彼女の後ろ姿には、一抹の哀愁があった。



 手芸部の教室は蒸し暑かった。すぐに窓をあけると、グラウンドから野球部の声が聞こえてきた。

 先日の試合での大敗がいい刺激になったのか、野球部は過去にないくらい真剣に練習している。若者のひたむきさは、われわれ大人がとうに忘れた情熱を思い出させてくれる。だからこそ人々は甲子園に熱狂し、興奮し、感動するのだ。

 わたしは窓から頭を出し、煙草をくわえた。

 榎本は、ふたりの関係に気づいているだろう。子供は、大人が想像してる以上に賢いのだ。おれ、あの人のこと、あんまり好きじゃないんだよね。いつだったか、彼はこの教室でそういった。いまなら、その言葉の意味が、言葉の裏に隠された真意が理解できる。わたしはいくばくかの逡巡のあと、煙草に火をつけた。どうせ来年には定年退職する身だ。ここでばれても問題ないだろう。

 榎本のことを考える。それから朝井由香。将来、義理の母と子になる予定のふたりが同じ教室内にいる。どんな気持ちだっただろうか。紫煙をくねらせたあと、まだ長い煙草を携帯灰皿に揉み消した。雲ひとつない青空からは、夏の陽射しが強烈にふりそそいでいる。照りつける陽光のなか、グラウンドでは生徒たちが、汗まみれ、泥まみれで練習している。フリーバッティングなのか、ネットのなかに、バットを持った榎本が打席で構えていた。このまえの試合で内野安打の一本だけに終わった彼は、守備だけではなく、打撃でも貢献したいとバッティング練習にも力をいれていた。マシンからボールが飛び出してくる。それを引きつけてフルスイングした。

 甲高い音が響いた。

 空高く舞い上がった白球は、ぐんぐんと勢いよく伸びていった。快晴の空のなか、澄み切った青の向こうに吸い込まれていくボールはまるで、彼のこれからのどんな苦難さえも乗れ超えていく力強さがあった。両親のこと、学校のこと、朝井由香とのこと、すべてのことがらを受け入れ、その過程でくじけることがあっても、それを糧に立ち上がる前向きさがあった。窓をとじた。この晴れの日、無人の教室で時間を潰すよりは、グラウンドのわきの芝生で彼らの青春をながめてみるのもいいかもしれない。快晴の空のした、彼らとおなじ陽射しを浴びてみるのもいいかもしれない。

 わたしは軽い足取りで教室を出た。

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青の時代 ヤタ @yatawa

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