第2話

 その日は、朝から陽射しがきびしかった。七月のはじめ。例年以上の猛暑を予感させる夏の陽光のなか、グラウンドではユニフォームを着た高校生たちが試合前の練習をおこなっている。わたしは芝生に寝転がりそれをながめていた。

 榎本享が野球部に入部してから一ヶ月がすぎた。もともと実力者で、かつ全国経験者の選手の加入は歓迎され、彼自身もその環境が気にいったのか、榎本が手芸部に戻ってくることはなかった。

 声をかけられたのは、七月にはいって最初のころだった。おれ、今度の試合に出るんだ。廊下ですれちがったさい、彼は嬉しそうに報告してきた。練習試合だけど、六番ライトで出ることになったんだ。よかったら見にきてよ。わかった。ひまつぶしにいってみるよ。そうこたえたわたしに、彼ははにかんだような笑顔を見せた。そこにはあの気怠そうな顔は微塵もなくなっていた。

 ベンチで円陣を組んだ選手たちがそれぞれの守備位置に駆けていく。榎本がライトの定位置についたとき、こちらに気がついて小さく会釈した。9番の背番号を背負った背中には緊張があった。

 試合がはじまった。

 相手の高校は強豪というわけではないが、人数が多かった。ベンチにはいれない部員がスタンドから大声で応援している。その迫力にのまれたのか、こちらの先発投手はストライクがはいらなかった。先頭打者フォアボール。つづく二番の左バッターがバントの構えをする。二球目をうまく三塁線に転がした。ワンアウト、二塁。初回、得点のチャンスに応援が盛り上がる。その熱気のなか、日傘をさしている夫婦が多くいることに気づいた。おれももってくればよかったかな。わたしは苦笑した。中年のおっさんが日傘をさしてたら笑われるか。そんな思いが頭をよぎったとき、乾いた音が響いた。

 三番バッターが初球を叩いた。詰まった当たりだったが、運良くショートとセンターのあいだに落ちた。ワンアウト、一、三塁。わるい流れだった。こちらの先発は先頭バッターに四球を与えたことでストライクを欲しがり、相手の打者はそれを見越して初球からフルスイングしてくる。しかも次は左の四番だ。

 バッテリーのあいだでサインの交換が終わり、ピッチャーがセットポジションに構える。ランナーに目配せしたあと、投げた。内角のストレート。バッターがフルスイングする。金属音。高々と舞い上がった打球はライトの方向だ。榎本が捕球の体勢をとる。犠牲フライには微妙な距離だが、足に自信があるのだろう、三塁ランナーは走る気満々で待機している。

 高い放物線を描いた白球がグローブのなかにおさまる。ランナーがスタートした。それと同時に、助走をつけて榎本がバックホームした。

 大きく振りかぶって投げられたボールは低い弾道のまま勢いよく伸び、そのまま失速することなく地をはい、ホームベース手前でキャッチャーミットにおさまった。そのあとで三塁ランナーが頭から飛び込んでくる。タッチアウト。どよめきが起きた。相手ベンチも、目のまえの強肩におどろいて、榎本のほうを指さし、なにかつぶやいている。スリーアウトになり、守備位置からベンチに戻るあいだ、ファインプレーを見せた右翼手に拍手がおくられた。ぎりぎりで失点をまぬがれた投手と榎本が、ベンチまえでグローブをタッチさせている。そのとき、なにかいわれたのか、彼は照れたような笑みをうかべていた。

 わたしは立ち上がった。

 きょうは暑い。さらにあんなプレーを見せられたあとだ。のどの渇きを潤そうと自動販売機に移動しようとしたところで声をかけられた。

「もしかして、佐藤先生ですか」

 うなずいた。「そうですが」

「ああ、やはり」男はひとりでうなずいた。

 四十代のやや小太りの男だった。ラフな格好が多いなか、仕立てのいいジャケットを着て、髪型もきちんとセットされている。銀色の腕時計が朝の陽射しを浴びて、高校野球には場違いな光を見せていた。

「わたし、榎本享の父で、榎本司と申します。佐藤先生には、息子がお世話になっているようで」

「ああ、榎本くんの」わたしはいった。「べつに、たいしたことはしてませんよ。ただ話し相手になっただけで」

「息子は、先生に感謝しておりました。われわれ夫婦のことで息子には苦労させたみたいで、学校を辞めるとまでいいはじめて」

 そうか。彼はそこまで思いつめていたのか。

「そんななか、学校でおもしろい先生と出会ったと。それからは高校の話もするようになって、野球もふたたびやりはじめて。すべて先生のおかげです。本当にありがとうございます」

「いいえ、わたしはなにも」首をふったあと「ところで」とわたしはつづけた。「いろいろ大変だと伺っておりますが、どこまで話が進んでおりますか。あ、もちろん、話せる範囲で構いませんが」

 彼は一瞬、おどろいた顔を見せたあと、真剣なまなざしになった。

「来月には、すべてまとまると思います。こちらとしても、息子のこともあり、できるだけはやく終わらせたい問題なので」

「親権のほうは?」

 彼は苦笑をうかべた。

 わたしは頭を下げた。「失礼。でしゃばりすぎましたね」

「いえ、構いませんよ」彼は首をふった。「親権はわたしのほうにくる予定です。それ以上のくわしい話は守秘義務で話せませんが」

「いや、結構。わたしが知りたいのは、彼の環境が変わるのかどうかですから」

「それは大丈夫です。転校させるようなことにはなりません。夫婦のことでこれ以上、息子には迷惑をかけたくありませんから」

 それならば離婚などしなければいいものを。思ったがその言葉をふさぐように煙草をくわえ、そして禁煙であることに気がついた。喫煙者には肩身がせまい世の中になったものだ。

「そういえば」わたしはいった。「さきほどの榎本くんの送球、あれは見事だった。わたしも野球部の顧問をやったことがありますが、あれほどの強肩は見たことがない」

「息子とはよくキャッチボールをやっていたもので、そのときによく、ボールのスピンを意識して投げるんだ、といっていたのですが、まさかあれほど成長するとは思ってもいませんでした」

「たしか、リトルリーグで全国に出場したとか」

「ええ、そうです」彼は目を細め、本当に嬉しそうにいった。「自慢の息子です」

 それからすこし話したあと、榎本司とわかれたわたしは、喫煙所で一服し、自動販売機でペットボトルの麦茶を買って戻った。芝生に座り、スコアボードに目をやると、試合が大きく動いていた。

 七対一。

 大差負けだ。ちょうど相手高校の攻撃の回で、こちらの二番手のピッチャーが打ち込まれていた。左のサイドスローだが、リリースポイントが安定していない。サイドに転向したてなのか、フォームがばらばらで、一球投げるたびに腕のふりが変わっている。そのせいでストレートがシュート回転し、金属バットに弾き返されているのだ。結局、このあと二点追加され、九対一になった。双方の戦力差からして逆転は不可能だろう。スタンドからの声援も小さくなっている。だが、生徒たちは諦めていなかった。

 ファールで粘り、平凡な内野ゴロでも全力疾走し、ベンチで大声をあげて仲間を鼓舞し、逆転を信じてプレーしている。夏の陽射しが彼らの汗をきらきらと輝かせている。それは勝敗をこえた、いまこのときにしかない時間を生きている若者たちのきらめきだった。そのまぶしさのなか、榎本がヒットを打った。深いショートゴロだったが、ヘッドスライディングのほうが速かった。ユニフォームが泥まみれになっても彼は笑ってガッツポーズをしていた。

 結局、この試合は九対一で負け試合になった。



「あの、榎本くんのことですが・・・・・・」

 声をかけられたのは、放課後、手芸部の教室にいく途中だった。半袖のブラウス姿の朝井由香は書類をまとめたファイルを胸にかかえ、おずおずと声をかけてきた。

「ああ、彼がどうかしましたか」

「最近、クラスのみんなとも打ち解けてきて、部活のほうでも楽しくやってるみたいで、すべて佐藤先生のおかげです。ありがとうございます」

 頭を下げる彼女を見て、なぜか先日の試合のことを思い出した。あのときも榎本の父親に似たようなことをいわれ、礼をされた。蒸し暑い放課後の廊下のなか、この女教師とあの中年男性の姿が重なった。

 わたしは首をふった。「いや、なにもしてませんよ。いままでは、彼の歯車が噛み合っていなかっただけでしょう。わたしはきっかけを与えただけにすぎない」

「それでも、佐藤先生がいなければ彼は変わることはできなかった」彼女はほほえんだ。「本当にありがとうございます。今度、生徒との対話の方法を教えていただけますか?」

「ああ、構いませんよ」わたしはいった。「そのまえにひとつ、年長者からの忠告をよろしいですか」

「なんです?」

 はっきりとした口調でわたしは告げた。

「生徒の父親と不倫をするのはやめたほうがいい」

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