青の時代

ヤタ

第1話

「あの、榎本くんのことですが・・・・・・」

 声をかけられたのは、すれちがう直前、たがいに会釈をかわしたあとだった。放課後の廊下。ほとんどの生徒は下校していて、のこっているのは文化系のクラブに入部している生徒だけだが、彼らの部室は一階に集中しているため、二階の廊下はほぼ無人の状態だった。

「ああ、彼がなにか?」わたしはたずねた。

 視線の斜めしたには女性の顔がある。教師になって三年目の朝井由香だ。黒髪のショートカットに白のブラウス、紺色の上下のスーツ。まだ若いが、熱心で人当たりがよく、生徒たちからも教師陣からも信頼されている彼女は、普段のあかるさをひそめて、遠慮がちに口をひらいた。

「まだ、クラスになじめていないみたいなんです」

 榎本享は、彼女が担当しているクラスのひとりだった。入学してから二ヶ月ほどたつが、いまだに友達がいなく、休み時間などはいつもひとりで孤立しているという。

 だからといって、彼が人見知りや内向的な性格でなじめていないのではなく、あえてそういうふうに振る舞っているふしがある。

「まあ、ほっといても問題ないでしょう」わたしはこたえた。「彼は授業をさぼるようなまねはしないし、成績だってわるくない。問題児というわけでもない。いまは孤立してますが、いずれ友達もできるでしょう」

「そうだといいのですが」

「朝井先生ははじめての担任で不安でしょうが、こういうのは時間がたてば解決するものですよ」

「そうですか・・・・・・、いや、そうですね」彼女はほほえんだ。「ありがとうございます。あせらず見守っていきたいと思います」

「まあ、なにかあれば相談くらいにはのりますが」

 わずかな逡巡のあと、彼女はおずおずと口をひらいた。

「あの、じつは部活動のことなのですか、榎本くん、まだどこにもはいっていないのです」

 文武両道を掲げるこの高校では、生徒はかならずクラブにはいらなければいけない決まりになっている。

「わかりました。わたしのほうからいっておきましょう」

「ありがとうございます。お願いします」

 軽く会釈をしてから、それでは失礼します、といって彼女は去っていった。胸にかかえた書類から、おそらく職員室にいくのだろう。だが職員室は一階にある。

 わたしも歩きだした。朝井由香は年齢のわりに優秀な教師だが、特定の生徒にたいして踏み込みすぎるきらいがある。熱心に話し合えばかならず理解しあえる。若い教員にありがちなそんな理想論が彼女のなかにあった。



 二階にある手芸部の教室には、すでに先客がいた。

「なんだ、きょうもきてたのか」わたしはいった。

 室内の真ん中にある椅子にひとりの男子生徒がすわっていて、机のうえで頬杖をついて外をながめていた彼は、つまらなそうな視線をそのまま向けてきた。

「いつきてもいいっていったの、先生だろ」榎本享は拗ねたような口調でいった。

 がっしりとした体格に、日焼けして浅黒い肌、短く刈り込んだ黒髪。スポーツマンのような彼がこの教室に入り浸るようになったのは、一ヶ月ほどまえのことだ。どこの部活にもはいらず、放課後、校内をただぶらついていた彼がここを見つけたのは偶然だった。ここなに部ですか。ゴールデンウィークが終えて一週間ほどたったころ、気怠そうな声がかけられた。手芸部だ。いまは休部してるがね。わたしはこたえた。ふうん。彼はいった。おれ、ここに入部していいかな。それがふたりの出会いだった。

 数年前に最後の部員が卒業してから休部している手芸部を復活させる気はなかった。それでも彼を受け入れたのは、ただの気まぐれだった。定年退職が近い教師の気まぐれ。それともうひとつ。学校という閉鎖された空間で、自由になれる場所がひとつでも必要だと思ったからだ。

「おまえ、まだ部活を決めてないそうだな」わたしはいった。

「おれ、ここに入部してるよ」

「手芸部は休部中だ。おまえがここにいるのは、おれの気まぐれにすぎない」

「先生って、人によって、わたしとおれを使い分けるよね」

「大人なんてそんなもんさ。それよりおまえ、話をすり替えるなよ。いい加減、部活を決めろ。顔を合わせるたびに、朝井先生から文句をいわれるのはおれなんだぞ」

「おれ、あの人のこと、あんまり好きじゃないんだよね」

 苦笑にたしかな嫌悪を隠して彼はいった。

 わたしは教室のドアを閉めると、窓のほうに移動し、スーツの内ポケットから取り出した煙草をくわえた。ただし、火はつけない。いまは校内すべてで禁煙なのだ。

 榎本はスマートフォンの画面をながめている。彼がクラスで孤立しているのは本人の問題ではなく、両親のせいだ。入学早々、離婚調停のことをからかわれ、同級生と喧嘩になったらしい。そのことを本人は話そうとはしないし、くわしく聞くつもりもない。ただ、いつまでもこのままではいけないとも思う。

 遠くのほうで歓声が聞こえた。窓の外から見えるグラウンドでは野球部がシートバッティングをしている。そのなかのだれかが大きな当たりをしたらしい。わたしは榎本に声をかけた。

「そういやおまえ、体育の遠投ですごい記録を出したってな。野球部の遠藤先生がスカウトしたいといってたぞ」

「え、ああ、たいしたことないよ」スマートフォンから顔を上げて彼はこたえた。「あのくらい普通さ」

「なにかやってたのか」

「子供のころから野球やってんだ。小、中でずっとレギュラーだった。小学のときにはリトルリーグで全国までいったんだぜ。一回戦でぼろ負けしたけど」

「ふうん。でも、たいしたもんじゃないか。ポジションは?」

「外野全般。ライトが多かったかな。肩には自信があったから」

 彼がキャッチボールをするように腕を振る。しなやかな振りの右腕のさき、人差し指と中指もちゃんと伸びていた。ボールの回転を意識してるフォームだ。

「ピッチャーはやらなかったのか」

 彼が苦笑をうかべた。「最初はやってたけど、変化球をコントロールできなくて、外野にまわされたんだ」

「おれとおなじだな。もっとも、おれはストレートもコントロールできなかったが」

「なんだよ、それ」彼はおかしそうに笑った。

 柄本のこんな表情を見るのははじめてだった。いつも、どこか気怠そうにしているのに、野球の話のときはいきいきとしている。

「なあ、おまえ、野球部にはいったらどうだ。遠藤先生にはおれのほうからいっておくから」

「でも・・・・・・」

「野球、嫌いなわけじゃないんだろう」

「そりゃそうだけど」

「ならいいじゃないか。ずっとここにいてもしかたないだろう。いつかは部活にはいらなければいけないんだ。それなら、やりなれた競技のほうがいいだろう」わたしはいった。「それに、うちの野球部は人数がすくなくて弱小だ。やる気もない。いまからでもはいりやすいだろう」

 返事はなかった。うつむく彼の横顔を六月の陽射しが照らしている。そういえば今年は梅雨がくるのが遅いな。そんなことを思っていると、榎本が顔を上げた。そこには、さきほどまであった気怠いつまらなさはなくなっている。少年はほんのすこしのきっかけでその顔を変える。いま彼の表情にはあたらしい光があった。

「先生がそういうなら、野球部にはいってみるよ」

「そうか。よかった。遠藤先生にはわたしからいっておこう」

「いや、いいよ」彼は立ち上がった。背筋がぴんと伸びている。「おれ、いまから野球部にいってくるよ。まだやってるだろうし」

「そのようだな」グラウンドに目をやってわたしはこたえた。

「それじゃあ。先生にはいろいろ迷惑かけたけど」

「安心しろ。教師というのは、生徒に迷惑をかけられるのが仕事なんだ」

 彼はほがらかに笑った。「そっか。でも本当に感謝してるんだ。ありがとう、先生」

 前向きな笑顔をのこし、軽い足取りで榎本は教室を出ていった。廊下に響くその足音が聞こえなくなったあと、わたしは近くの椅子に腰かけた。彼の最後の言葉が耳にのこっている。ありがとう。あれほどまっすぐにお礼をいわれたのはいつ以来だろうか。わるくない。長年、教師をやっているが、生徒に感謝される瞬間は、いつになっても嬉しいものだった。

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