0.6
高村 芳
0.6
朝は、またやってきてしまった。アラーム音が、耳から頭に向かってけたたましく響く。目覚まし時計を止めてまず目に入ったのは、昨日の朝と何ひとつ変わらない白い天井。微かに湿気を帯びた空気が私にまとわりつく。今日の天気予報は雨だっただろうか、よく覚えていない。雨だからといって、今日は何も変わらない。
時計の秒針が刻む音は、まるで私を責め立てるようにせわしなく動いている。ベッドの横に置かれた机の上には、昨日宿題をしたまま無造作に教科書や辞書が積み上がっていて、今にも床に零れ落ちそうになっている。私の世界が、八畳のスペースに集約されている。
いつものことだ。自分にそう言い聞かせて重く感じる布団を押しのけた。
私は制服という名の重たい鎧を身にまとい、髪を結った。それらの行為をスイッチとして、私は「私」から「空気」へと姿を変える。玄関で靴を履くと、毎日かわりばえのない世界へと押し出されていく。静かに雨が降っていた。
毎日、毎時間、毎分、毎秒。刻々と過ぎていくだけ。「世界が変わればいい」、と思っているわけではない。ただ、ここから抜け出せない――。私は抜け出したいのだろうか? いや、抜け出そうとしない自分の怠惰と失意を感じる瞬間が毎朝おとずれるだけなのだ。
学校でも、私が誰からも挨拶される存在だとは言いがたい。ファッション誌を片手に騒ぎたてるでもなく、意味もなくドラマの感想を語り合うこともしない。したくない。「できない」、の方が正しいのだろう。この教室というひとつの箱の中で、私は「空気」なのだ。誰に害をもたらすでもなく、誰かに害をもたらされるわけでもない。ただそこに在る。それだけの存在なのだ。
授業が静かに始まる。
国語はあまり得意でない。日本で生まれ育ったはずなのに、と不思議に思う。先生の話は、なぜかうまく頭に入ってこない。分厚い教科書をぱらぱらとめくっていると、ある文章に目が留まった。 いくつか単語をひろいあげて内容をかいつまむと、ネズミでもヒトでもゾウでも、生まれてから死ぬまでに消費するエネルギーは約15億ジュールである、ということらしい。
――じゃあ人間は、1秒間の間に何ジュールのエネルギーを消費しているのだろう?
気づいたら、板書をちっとも書き留めていないノートの片隅で計算してみた。
1分は60秒、1時間は60分。1日は24時間で、1年は365日。4年に1回、1年は366日になる。80歳まで生きると仮定すれば、生まれてから死ぬまでの時間は、
60秒×60分×24時間×(365日×60年+366日×20年)=25億2460万8000秒
と出た。この秒数で15億という数字を割ってみると……計算はなかなか大変だった。大学ノートのページの半分を使いながら、筆算の最後にたどり着いた。
やっとの思いで出した答えは、
0.594151646……
という数字の羅列だった。
四捨五入して、たったの約0.6ジュール。私は1ジュールがどれほどのエネルギーかを知らない。しかし、人間が1秒間というわずかな時間を生きるために使うエネルギーは、たったの0.6ジュールなのか。驚きよりも、脱力感を感じた。人間が生きることは、そんなにちっぽけな数字で表すことができるものなのか。
同時に、塵も積もれば山となるように、どんどん時を重ねて初めて15億ジュールという膨大なエネルギーになることを初めて知った。
そのとき、何かが私の奥に込み上げた。何かが胸の中で渦巻いている。どんなに小さい数字だって、時が経てばどこまででも大きくなれる。砂が堆積して強固な地層となるように、雨粒が降り注いで大河となるように……。黒板の前で先生が説明していることよりも、ノートに書き連ねられた計算式の方が私にとってよっぽど大切なものなのかもしれないということを、私はこのとき気づいたのだ。
窓の外を見ると、いつの間にか雨は止んでいた。窓から吹き込んでくる風は、濡れたアスファルトの匂いがする。私は、「私」は……。 直後、聞き慣れたチャイムが鳴り響いた。
喧噪の中、私は計算式の最後の解から目をそらせなかった。
了
0.6 高村 芳 @yo4_taka6ra
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