5-03


 時は昼休み。

 レイラは四時間目終了のチャイムが鳴ると同時に隣の席で教科書をまとめていた涼に向き直った。

「話があるんだけど」

 以前ならここで教室がしんと静まり返ったのだろうが、今となっては誰ひとりとしてレイラに注意を払う者はいなくなっていた。

 涼がうっすらと微笑みを浮かべる。

「ええ、構いませんよ」

 決意と共にレイラは涼と一緒に席を立つと、そのまま体育館裏へと向かった。

 心配そうな視線を寄越すかなめに笑ってみせてから。



 *



 体育館裏の空気はいつも湿っている。

 特に今日のように雨が降り出しそうな日はなおさらで、重く冷たい空気が肌にじっとりと纏わりついてきて不快だ。

 レイラは涼を見据え、拳を握りそこに揺るぎのない瞳で立っていた。

 薄ら笑いを浮かべた涼がわざとらしく首を傾げる。

「話とは何でしょうか?」

「この前の、返事を」

 レイラは押し黙る。

 揺るぎはなかった。この決意にもう迷いはない、だが気軽に口にすることができるようなものでもない。

 沈黙が揺れる。

 しばし拳を握り、息を吸い、吐き、それを何回か繰り返した後でようやくレイラは口を開いた。

「私、決めたの」

 涼は何も言うことなく、ただ笑みを湛えた綺麗な顔でレイラを眺めている。


「べリアス、私はあなたを選ぶ」


 うつむいた。体育館の影が落ちる地面が闇のように口を開けている。

「考えてみたの、この間のこと。レイは、私の使い魔は罪を犯してるって」手のひらに爪が食い込む。「嘘だと思った。そんなことないって、あるはずないって」

 でも、とレイラは唇を噛む。

「それは本当だった」呟くように言葉を探す。「彼は苦しんでた。自分の犯した罪の大きさに、背負わされた咎の重さに」

 一旦言葉を切った。

「……私と一緒に、いることに」

 視線を上げ、レイラは涼の漆黒の瞳をまっすぐに見つめた。

「ねえ、本当にレイの咎を消してくれるの?」

 レイラの問いに涼は口元を曲げ、笑みの形をつくりながら答えた。

「ええ。あなたが僕のものになってくださるというのであれば、そのくらいいくらでもして差し上げますよ。約束は守りましょう。必ずね」

 レイラは安堵する。肩の力を抜いたかと思うと、今度はおもむろに視線を上げて涼を睨みつけるように毅然と言い放つ。

「勘違いしないでほしいのは、……私があなたを選んだのは私の使い魔のため」感情をなるべく押し殺した声音で告げる。「あなたのためじゃない」

 涼は笑みをこぼす。

「重々承知の上ですよ。僕も何もあなた自身が欲しかったわけではない。七臣家の、託宣に選ばれたという点に価値を見出した、ただそれだけのこと」

 囁く。

「それだけで十分です」

 不意に湿気を帯びた風が吹き抜け、日陰の冷たい風に晒されたレイラの冷え切った体が震える。

 涼はおやおやと呟き、自分の上着を脱いでレイラの肩にかけた。

「気を付けてください。あなたはもう僕のものなのですから」

 ああそれと、と涼が付け加える。

「分かっているとは思いますが、あなたの使い魔には護衛の任から外れてもらいます。あなたにはイルザードの守りを付けますから」

 撥ね上げた視線に映る涼の冷たくも美しい凄みのある眼差しがレイラを射抜く。

「……、な」

 言葉にならない問いを投げかけるレイラに涼は嗤う。

「あなたの使い魔の魔力は桁が違う。三王家の魔力の調和が崩れる危険性があります」

「……」

「それに、仮にも夫となる男の許へ、悪魔といえども男を連れていくのはいささか非常識でしょう。あなたから解放されなければ、彼の苦しみは続くわけですし」

 何も言い返すべきことはない。

「……どうすればいいの」

「簡単なことですよ。使い魔の任から解放する、とだけ言えばそれでいいのです。言葉に込められた魔力が契約を断ち切ります。ですがその後は一切名前を呼んではなりませんよ。再び名を縛ることで契約が再履行されますから」

 うつむいたまま顔を上げようともしないレイラの顎を涼は細い指で捕らえる。

「心配なさらずとも、あなたのことは僕が大事に扱って差し上げますよ。使い魔のことなど忘れさせてあげましょう」

 ぎゅっと目を閉じたレイラに涼は苦笑する。

「ここでなど無粋な真似は致しません」天を仰ぐ。「じき雨が来そうですね。僕はそろそろ戻らせていただきます」

 歩き出した涼が立ち止まり、肩越しに振り返る。

「心の準備も必要でしょうし、迎えは今夜。……思い残すことのないように」

 それだけ言い残し、涼は姿を消した。


 雨粒が頬に落ちる。


 雨は次第に密度を増し、涙雨はほどなくして土砂降りへと変わる。

 雨宿りする気にもなれないレイラはそのまま雨を浴び、立ち尽くす。

 冷えた体に当たる雨が心地いい。体育館の屋根に雨がぶつかり流れ落ちる音を、レイラは別の世界の出来事のように聞いていた。

 灰色の空に風は吠え、微動だにしないレイラを映す水溜りは雨に揺らぐ。

 落ちる雨に涙を隠し、雨音に嗚咽を隠してレイラは自分に言い聞かせる。


 これでいい。


 悲しいのは空が泣くから。

 悲しいのは私じゃない。


 終わりを告げる鐘をどこか遠くに聞きながら、レイラは雨に濡れ続ける。

 声なき慟哭を胸に。



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