5-02


 早朝、レイが起こしに来る前にレイラは部屋を出た。

 結局あれから眠ることはできなかった。

 情けないことに一晩中泣きあかした瞼が重く、寝不足で頭もはっきりしない。だが、このまま家に留まってレイと顔を合わせるわけにはいかなかった。

 いつもと同じ顔で笑っているレイを見たくなかった。

「……」

 そっと身支度を整えると鞄を抱え階段を下りる。

 無意識に息を詰めていた自分に苦笑し、次いでやってきた目眩になんとか耐える。

 窓の外は気が重くなるように重く雲が立ち込めている。ここ一か月ほどは初夏らしい快晴が続いていたのに。

 もう最後かもしれないのに。

 青い空がもう一度見たかったなと、レイラは瞼を伏せた。

 居間の前に差し掛かり、音を立てないように細心の注意を払って慎重に通る。ここでコウに気がつかれてしまってはいけない。

 おそらく彼が作っているのであろう朝食のいい匂いをまるで他人事のように感じながら、やっとの思いで玄関に辿り着く。

 靴箱からよく磨かれた茶色い革靴を出す。

 そういえば、この靴をいつも磨いてくれていたのは、レイだった。

「行ってきます」

 最後かもしれないこの言葉を聞こえないように口の中でだけ呟き、レイラは玄関の扉を開いた。



 *



 学校に行く道すがら、レイラは見慣れたはずの風景を初めて見るような気分で歩く。

 もう見たくもないと思っていた、幼い頃から育ってきたこの街。

 嫌な思い出しかなかったはずの道。

 今はなぜか寂しい。

「やあレイラちゃん、おはよう。今日もかわいいね」

 聞き覚えがある声。

 増して自分をレイラちゃんと呼ぶような人物はひとりしかいなかった。

 振り返ると予想通りの人物が何が嬉しいのかにこにこと微笑みながら駆け寄ってくるところだった。

「おはよう、千里くん」

 あの屋上での一件以来千里とは顔を合わせていなかった。

 どういう態度を取ればいいのか分からずに、レイラは視線を逸らしつつ挨拶を返す。

 千里はそんなレイラを少しも気にしていない様子で、

「学校まで一緒に行かない?」

 とレイラの手を取る。

 抵抗する気力も起きないレイラは、されるがままに手を引かれて歩き出す。

 がそれも束の間、

「藤原千里ぃぃいぃっっ!! その手を放さんかこのにやけ面の詐欺師めがぁあぁぁぁ!!」

 凄まじく絶叫しつつ突進してくる小鳥遊に千里は立ち止まり、一歩左へ避ける。勢い、レイラは千里の胸に飛び込んでしまう形になる。

 狙いを外しあらぬ方向に向かっていた小鳥遊がぐりんと体の向きを変え、つかつかと二人に詰め寄る。

「お前どさくさに紛れて何やってる!! その手を放せ馬鹿者がぁ!!」

 千里は呆れたような顔で聞えよがしにため息を吐く。

「先生が猪の如く突進してくるからでしょう?」まったく、と口端を吊り上げる。「悪い虫ならぬ悪い猪ですか。どちらにしろ、あまり変わりませんね? 先生?」

「誰が悪い虫だ!!」

「猪、という部分は否定なさらないんですか」

 千里がレイラを庇うように抱き締める。

「お前が俺の花嫁に気安く触れるからだ、ってか猪じゃねぇんだよ!!」

「へぇ、そんなこと誰が決めたんですか? 第一仮にも教師とあろうものが朝から校門の前で何を騒いでいるんですか? 気が知れませんね」

 レイラは抵抗しない。

「俺が教師である以前にレイラは俺の花嫁なんだっ!!」

 それを聞いた千里は微笑みを浮かべ、光を放たんばかりの輝く笑顔でそれを一蹴する。

「堂々巡りじゃないですか。嫌だなぁ、話が通じないならそう言ってくれればいいのに。会話が成り立たないような馬鹿を黙らせる方法はそう多くはありませんよね?」

「なぬ!?」

「でなければ異星人ですか?」

 熱い火花を散らす二人にレイラが辟易していると、

「やー姫君ー。ご機嫌麗しゅうー」

 と謎のカウンセラー、雪が相も変わらず能天気に現れる。

「……おはようございます」

 レイラの挨拶にうんオハヨーとぞんざいに返した雪は小鳥遊に向きなおる。

「朝から教え子とじゃれるってかー、いいねいいね恭也、元気が一番だよーうん」

 小鳥遊は刺々しい空気を隠そうともせずに舌打ちをする。

「何の用だよ」

「お知り合いなんですか?」

 レイラが尋ねる。この二人が話しているところは見たことがなかった。

 雪はにっこりと笑う。

「うん、大親友ー」

「誰がじゃ!!」

 雪は千里からレイラを引き剥がすと、その肩を抱いて歩き出した。

「こんなうるさい奴らに囲まれてちゃ大変だろー? オレが教室まで送るよー」

「え、あの、」

 小鳥遊は雪の肩をとてつもない握力で掴み、引き攣った笑みを浮かべる。

「おいこら鈴瀬?」

「あ、痛い痛い痛い、ちょマジで痛いから、やめてー」

 それでもなおレイラを放そうとしない雪の無防備な足を今度は千里が容赦なく踏みつける。

「え、なに君、あ痛い痛い、痛いってばほんとにぐりぐりやめてぇー」

 一連の騒動を見守るレイラに、踏みつける足の力は緩めないままに千里が笑顔を向けた。

「行きなよ。しばらくここを離れるわけにはいかないみたいだ」

「え、」

「いいから」

 どことなく冷たい言葉に突き動かされるようにレイラが足を踏み出し、数歩足を進めたところで振り返り。

 千里は微笑む。

「……また会おう」

 俊巡した。頷いてもいいのかと。

 だが――

「…うん。またね」

 今度こそ背を向ける。収まることの当分なさそうな騒ぎを聞きながら、レイラは思う。

 いつの間にか日常になってしまっていた非日常。

 随分救われた気がする。

 レイラは彼らに聞こえないように小さく、背を向けたままでありがとう、と呟いた。



 *



「おーっす、おはよーレイラ。元気?」

「かなめ、おはよ」

 ぽんと肩を叩かれて振り返ると、元気な笑みを浮かべたかなめがいた。

「なーんか朝から沈んでんね。どした?」

「ううん、何も。心配してくれてありがとね」

 そう返すと、かなめはいや別にいいんだけどさ、と頬を掻いた。

「教室まで一緒に行こうよ。って言ってもまあ距離がそんなにあるわけじゃないんだけど、苦行を共にする友がいれば心強い」

「苦行って」

 たしかに一年生の教室は四階にある。運動部でもないレイラやかなめには朝からかなりの重労働だった。

「いやー、ほんっと何考えてんだろうねーここの設計者は。学年が上がってくごとに一階ずつ教室が下がってくとかそんな年寄りに優しいシステムにしなくてもねー。歳ほとんど変わんないっての」

 快活に笑う彼女にレイラもぎこちなく笑みを返す。

「わ!! わ、わ」

「え?」

 上から聞こえてきた声に顔を上げると、何枚かのプリントがばらばらと降ってくるところだった。

「す、すみません」

 慌てた様子で駆け下りてきた幼い顔立ちの少年は、確か――

「えーと、山代先輩?」

「え」

 名前を呼ばれたことで驚いたのだろうか、彼はきょとんと眼を見開く。記憶の糸を辿るように数瞬瞬きをし、

「ああ、月城さんですね。こんにちは、じゃないや、おはようございます」

「ん? 知り合い?」

「前に、ちょっと」

 はは、とシンジは情けない顔で笑う。

「月城さんにはぶつかったりプリントばらまいたり、情けないところ見せっぱなしだなぁ」

「いえ、そんなことは」

「今日はあの彼、一緒じゃないんですか?」

「彼?」

 首を傾げる。

「ほら、前に月城さんと歩いてた。あの……、彼氏さん」

「え!? レイラいつの間に!?」

「え、ち、ちが、」必死に記憶を探る。確かあの時一緒にいたのは、「み、水島くんですか? 彼は違いますよあのときは転校したての彼を案内していただけで」

 シンジはプリントを集めながら、

「ああそうなんですか。そういえばあの時もそんなことを言っていましたね。ごめんなさい、よく憶えていなくって」

「いえ、あの、どうぞ」

 集めたプリントをシンジに手渡す。シンジは嬉しそうに、まるで花が開くような笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。あ、じゃあぼくは行くところがあるので」

「あ、はい」

 すれ違った彼を見つめる。

「ああそうだ、それとぼくを呼ぶ時は名前で呼んでくれると嬉しいです。ぼくの苗字山代じゃなくなっちゃったので。それじゃ」

 ぺこりと一礼して去っていくシンジに、レイラはしばし視線を向けていた。

「ちょっとレイラ、いつの間にあんた水島くんと!?」

「いやだからそれは、」

「でも勘違いされるような何かがあったんでしょ!?」

 レイラは言葉に詰まった。確かに、ないと言えば嘘になる。

 沈黙を肯定を受け取ったかなめはため息をつきながら苦行を再開する。

「あ~あ。だめじゃんレイラ、親友のあたしにも教えてくれないなんて」

「えっと、」

 困り果てた様子で後を付いてくるレイラに、かなめは少しの間のあと苦笑する。

「分ーかってるって、冗談冗談。レイラには水島くんは似合わないよ。あたしはレイラには千里くんあたりがいいと思うんだけどなー」

「な」

 軽口を叩いて笑うかなめ。

 他愛のない会話を交わし、ときには笑いながら教室へ向かう。


 ――レイラには水島くんは似合わないよ。


 レイラは浮かんだものを首を振って振り払うと、そっと唇を噛んだ。



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