3-09


 静寂。

 物音ひとつ存在しない部屋で、雪はひとり物思いに耽る。

 先ほどまでの出来事を思い出し、ふ、と小さく笑った。

「いい子だねー、姫様は」

 いい子、確かにそう形容するのに相応しい。愚かではない、それは理解できた。

 口にする言葉は理性的だし、筋も通っている。ただ彼女はあまりにも世間を知らない。

 窓辺に腰かけながら、雪は眼下に広がる人気のない校庭を見下ろした。

 すでに黄昏の色に染まった校庭にはどこまでも続く校舎の長く濃い影が落ちている。

 それほど長い時間話していたわけではないのに、これほどまでに時間が進んでいる理由。

「楽しい時間はなんとやらって言うけどね」

 そうではないことを雪は知っている。

 邪魔者を寄せ付けないよう、誰も空間を侵すことができない代わりに時の流れが外界から切り離されてしまう結界をこの部屋に張っていたためだ。

 レイラといったか、あの姫についさっき話したことを思い出し、雪は口元を歪めた。

「それ相応の代償が必要、ねぇ」

 これもそういうことなのかもしれない。

 堪えきれない笑いが漏れ、肩を揺すりながら雪は人間の姿になっているために茶色くなっている髪を掻き上げた。


 さて、あの娘。

 種は蒔いた。あとはどう動くか。

 その整った顔に鋭利でどこまでも冷たい笑みを浮かべて、雪はさも楽しそうに目を細めた。

「オレ、いい子って好きだなあ」

 くるくるとこの手のひらで踊る、純粋な姫。

 笑い声を部屋中に響き渡らせ、と、そこへ。


「おや」

 部屋の扉が勢いよく乱暴に開かれ、現れたいきなりの侵入者に別段驚くこともなく片手を挙げて挨拶をする。

「よう、久しぶりだなー、恭也“先生”」

 ずかずかといかにも不機嫌そうに押し入った小鳥遊はそれを黙殺し、雪に鋭い一瞥をくれた。

「お前、レイラを呼びつけただろ」

 雪は肩をすくめ、

「まあ座ればー? お茶くらい出すよー」ととぼけたようにのたまいお茶の用意をし始める。

 小鳥遊は一瞬躊躇したが、結局雪の座っていたソファーの向かい側に腰を下ろした。

 湯飲みに温かい緑茶が注がれる微かな音に耳を傾けていた小鳥遊だったが、やがてしびれを切らしたのだろう、苛立たしそうに眉を寄せて雪に詰問した。

「どういうつもりだ? 結界なんぞ張りやがって」

 雪は片づけていなかった山盛りの煎餅のひとつを手に取ると、包装を開けて口に放り込んだ。小鳥遊の向かいに座りながら、雪は簡潔に答える。基本的に面倒事は嫌う性質からだろうか、無意識にそうなってしまう。

「邪魔されたくなかった」

「何をだ」

 鋭い眼光に怒気のこもった静かな声。

 上目づかいに小鳥遊を見上げると、その顔は不機嫌と書いてあるような仏頂面で思わず雪は吹き出してしまう。

「何がおかしい」

 とうとう殺気を発し始めた小鳥遊におどけた素振りで両手を挙げてみせる。

「おっとー。別に、オレは王座に興味はないって言っただけだってー。怒んないでよう」

 へらへら笑う雪に怒る気力をなくしたかのようにため息をついた小鳥遊は、肩にかかる髪を払いのけながら背もたれに体重を預けた。

「まったく」

 小鳥遊にはいつものような鷹揚さはなく、目元に険を宿したまま内心の苛立ちを隠そうともせずに雪を睨みつけている。

 地を這うような低い声で小鳥遊が問いを投げかける。

「何のつもりだ」

「何のことー?」

 小鳥遊はどこまでもとぼけようとする雪に込み上げる苛立ちをどうにか抑え、辛抱強く見据えた。

「…とぼけんのも大概にしとけよ」身を起こしながら、「お前が話したことは大体想像がつく。大方、母親のことを言ったんだろうよ。あとは、先代の王族交代についてか」

 雪は内心意外に思った。あのミリオンがここまで読めるようになるとは。そうか、人は成長するという。この男もいつまでも鈍いままではないのかと感心した。

「お前が何の理由もなくそんな真似をするはずはない。お前が動くときには何か必ず裏がある」一呼吸。「お前一体何を考えてる」

 雪はしばらく沈黙した。

 やがて小さく口の端に笑みを漏らし、次いで真剣な表情をつくった。

「それはオレが訊きたいんだけどなー」怪訝そうに口元を斜めにする小鳥遊を眺めながら、「恭也、お前そんなに王座が欲しいのかー?」

 目を見開いた小鳥遊に、畳みかけるように続ける。

「大魔王の座なんて所詮は飾り物、権力が欲しいなら三王家でいたほうがよっぽど効率がいいだろー? それとも禁術でも使いたいのかー?」

「んな訳ねえだろ」

 だろうな、と雪は思う。恭也のような者が、そんなものに頼るはずはない。

「よく考えてみろー。はじめは確かに王座を狙って近づいたのかもしれない」煎餅をもうひとつ手に取り、「でもお前、はっきり言ってたぞー? いつだっけ……、まあいいけど、王座にはあまり興味ない、取られるならそれはそれで構わないーって、オレに」

 ほんの一瞬の虚を突かれ愕然とした表情を見逃す雪ではなかった。

 必死に平静を装う小鳥遊に、雪は静かに笑う。

「だから、何だってんだ」

「だからー、もっと自分の気持ちに素直になりなよー!! って、友人からのアドバイス~。自分は騙し切れないよ~?」

 しばらくの沈黙。


 沈黙を破ったのは小鳥遊だった。

「お前に言われるまでもないことだ」

 第一、 と言葉を継いで、

「俺が仮に無自覚だったとしても、だ。俺がそれでお前に協力するようになるなんてことはありえねぇよ。そう思い通りになるとは思うな」

 雪は大仰に天を仰ぎ、額に手を当てた。

「オレにはそんなつもりないのにぃ。ただ恭ちゃんに幸せってやつをつかんでほしかっただけさー」

 小鳥遊は明るい色の茶髪を翻して立ち上がった。

「気色悪い、やめろ」睫毛を伏せ、「お前、」

「んー?」

 肩越しに鋭い視線を雪に向けた。

「レイラに手を出してみろ。その場でぶっ殺してやる」

「わー怖い」

 大袈裟におびえたふりをする雪に小鳥遊は鬱陶しげに顔をしかめた。

「冗談でもなんでもねぇ、本気だ。…だからお前には会いたくなかったんだ。余計な心配事が増える」

 できればお前が来る前になんとかしたかったが、と呟き小鳥遊は口を閉ざすと、それきり言葉を交わすことなく部屋を後にした。


 後姿を見送りながら、雪は嘲るように冷笑した。

 思い通りにはならないだと?

 そう言いながら、お前は実に予想通りの行動を取ってくれたよ。ああ、思い通りだ。魔力の限りなく薄いこの世界で結界を張り続けるのにはさすがに少し骨が折れたが、それも全部この為だった。結界を張り、あの娘の気配をも遮断しその気配が途絶えれば、必ずお前は駆けつける。

 なぜならお前はあの娘の気配を辿り続けているからだよ。

 自らの手で守り通すために。

 計算通りだよ、恭也。いやミリオン、お前は悪い奴ではないが単純すぎる。ある意味でお前は素直すぎ、簡単に行動も思考さえも読めてしまう。

 でも、せっかくの“友人”の警告だ。

「肝に銘じておくよ」

 あの姫も、あの魔王も。

 分かりやすく、操りやすい。

 となれば、問題となり得るのはただひとり。

 雪は指を鳴らした。

 瞬間、日が落ち深い藍色の夕闇に支配された部屋の中で、ひとつ波紋のように影が揺らめく。

 滲み出るようにして現れたのはレイラのクラスの数学を担当している教師――否、今のその姿は間違っても人間と呼べるものではなかった。

 胴体の太さは大人の腕で一抱えもあるだろうか、額に第三の目を持った巨大な蛇がそこに恭しく佇んでいる。

「戻ったか」

「は」

 使い魔である蛇は頭を垂れると、今日一日の記憶を魔力を通して主に伝えた。

 それを見終わった雪は息を吐き、魔王の威厳を以って命じる。

「引き続きお前に任せる。判断も任せるが、なるべく目立つな」

「御意に」

 再び影が揺らめくとともに生じた室温が急激に下がるような奇妙な感覚の後にはもうそこに使い魔の姿はなかった。

 後に残ったのは、蒼い闇と差し込む月明かりのみ。

 雪は瞳を閉じた。

 叶えられるだろうか。

 叶えられる、いや叶えなければならないのだと雪は自分に言い聞かせた。


 唇を噛む。

 噛んだ唇からはそっと血がつたい――それを指で拭い、舌で舐めとりながら雪は窓に肩を預けた。

 冷えた感触が心地よかった。


 日の落ちた風景。


「…必ず」


 一陣の風がどこからでもなく室内を吹き抜ける。

 そこにはもう誰も存在しない。

 残ったのはわずかばかりのあたたかさ。


 そして、まるでそこに誰かが確かに存在したのだと主張するような飲みかけの紅茶のカップが、ぬるくなった中身を月影に晒しながら、そこにあった。



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