第4章 交錯と選択

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 魔法の使い方をお教えしましょうか、と。

 レイが持ちかけてきたのは、夕飯を済ませ入浴を終え、いざベッドに入らんとしていたちょうどその時であった。

 時刻はすでに十時半を回っていた。

 レイラには早寝早起きの習慣が備わっているので、明日が土曜日で休みだからといってもいつも通りの時刻に就寝したい。

 そう思ったので、レイの申し出を受けるかどうか正直迷わなかったといえば嘘になる。それにレイラには自分が魔界の貴族の血を引いているなんて自覚はなかったし、魔法なんてものが自分に扱えるとも思わなかった。その必要もないのではないかという疑問を持ったのも当然のことだと思う。


 なぜ自分が、と尋ねると、彼はその麗しい顔に深い悲しみを滲ませて深いため息とともにこう言った。

「レイラ様は私どもに学校には来ないようにと仰る。

 いくら力の限りお守りすると誓ったとはいえ、いつ何時でもすぐさま駆けつけられるとは限らないというのに……。いえ、それが悪いとは言っていません、ご安心を。私はレイラ様の使い魔、あなたに仕え、尽くすために存在する者ですから。あなたの望みには応えましょう。最善を尽くす努力を怠る気は私にはありません。

 ですが本来使い魔とは片時も主のもとを離れず、影のように寄り添いその災いを撥ね退けるものです。ときには剣となり盾となり手足となって主をお守りする、それが使い魔のさだめ」ふう、とここで目を伏せた。「いえ、お傍に置いていただければこのようなことをする必要はないのですが。いついかなるときもあなたをお守りしたくとも、レイラ様自らの離れていろとのご命令。ただの使い魔にすぎない私には、主であるあなたのご命令に背く術はありません。ならばせめて、私が駆けつけるまでの間の時間稼ぎと言いますか、その程度はしていただかないとお守りすることは難しいかと」


 ご理解いただけたでしょうか、と微笑むレイの背後になにやら黒いものが見えたのは自分の心が見せた幻覚だろうか。

「まあ、常に傍に控えさせていただくことを許していただけるというのであれば、その必要はないのですけれど」

 物憂げで艶っぽい表情に一瞬騙されかけたが、その言葉に込められた少しばかり(?)の棘と黒い雰囲気にレイラは辛うじて自我を保つことができた。

 要するに、常に傍にいることを許すか、そうでなければ魔法の講習を半強制的に受けるかのどちらかを選べと言っているのだろうと瞬時に理解し、レイラは逡巡した。

 常に傍にいることを許す勇気はなかった。何しろ今の状態でもレイの言動には心を乱されっぱなしで辟易させられているのだから。


 ならば道はひとつしかない。


 というわけで、レイラは仕方なくレイの申し出を受けた。

 受けたら受けたで、今度はそれでは場所は私の部屋にしましょうか、という提案をほとんど強引に決められてしまったことに対しては、もうなんというかため息しか出てこない。

 というような思索を巡らせている間に、すでに十分強は経過している。

 要因はなんだろうか。というよりもう部屋の前に来てしまっているわけで、入るしかないわけで、後戻りはできないわけで、入るのをためらわせているものは、やっぱり。

 はあ、と深い感情を込めたため息が夜の廊下に消えていく。


 時間が遅くなるほど入りにくくなるだろう。そう思ったレイラは覚悟を固め、諦めてそのドアを叩いた。

 お入りください、という声を聞いて部屋に足を踏み入れたその先には。

「お待ちしていました」

 予想はしていたけど。

「遅かったな」

 部屋の中に二つの影を認め、レイラはへへへと力なく笑った。

 そこにいたのは、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべるレイと、無表情で佇むコウ、二人の使い魔だった。

 体から力が抜けていくのを感じたレイラはぐったりとしながらドアを閉め、壁にもたれかかって額を押さえた。

「どうした?」

「ああ、うん。なんでもない、ごめん」

 微かな心配をその声にのせて問いかけてくるコウに投げやりに答えを返し、レイラは自分の両頬をぱん、と叩いた。

 一体何を考えているのか。

 すっかり投げやりな様子のレイラを見、レイが訝しげに眉をひそめた。

「どうかなさいましたか?」ちら、と視界の端にコウを捉え、ああ、と納得したように微笑みかける。「魔力を扱うにはこの部屋に少し仕掛けをしなければならないもので、邪魔者、もといコウにも手伝ってもらうことにしたのです。とても残念ですが二人きりになるのはまた今度、ということで」

 頬が急激に熱くなった。

「や、べ、別に残念とかそんなのないからっ」


 慌てて手を振って必死に否定の意を示しているとふと突き刺さるような鋭い視線を感じ、レイラはその方向に視線を移す。

「……」

 コウがレイの斜め後方から、それはもう不機嫌という言葉では到底片づけられないような凄まじい表情でレイラを睨んでいる。

 瞬時に思う。視線で誰かを殺すことができるとしたならそれはこんな視線なのだろうと。

 レイラは蛇に睨まれた蛙のように身動きひとつとれない。もともとコウは整い過ぎているほどに端正な容姿の持ち主だ。常に無表情ということもあり、彼の美貌には一種の凄みが備わっている。その美貌に、こんな視線で射抜かれてしまうと。

 冷や汗を流していると、コウがぼそりと呟いた。

「主は、俺が邪魔なのか?」

 微かに弱気そうな色を浮かべ、目を伏せながらそう呟く。

 ようやく体の自由を取り戻した(気がした)レイラは、この状況を打開するなら今しかないとコウに向かって弁解する。

「ううん、そんなことない! コウがいてくれると嬉しいよ、頼りになるし! それにレイと二人きりっていうのはちょっと困るから、コウがいてくれると安心するっていうか、その、」

 何言ってんだ私、と思いつつ、かといって途中で止めることもできず、レイラの言葉は尻すぼみになる。

 恥ずかしさにますます顔を赤くし、レイラはうつむいた。すると、

「そうか」コウもほんの少しだけ頬を赤く染め、「俺は、お前を守る」

 コウがレイをちらりと見ると、レイの頬が心なしか引きつり、笑みが強張った。

「……聞き捨てなりませんね。何です? 私の存在を忘れられては困りますよ。二人で赤くなる前に私の存在を思い出していただけますか?」

 早口でまくしたてる彼の笑顔が怖い。

 最近、なによりも恐ろしいのはこの銀髪の使い魔だという気がする。


 このままでは埒があかないと思ったレイラは気を取り直して咳ばらいをする。使い魔たちもそれにならって居住まいを正した。もっとも、両者の間に流れる険悪な空気は健在だったが。

「えっと、それじゃ、教えてほしいんだけど……。でも私、本当に魔法なんて使えるの?」

 レイが頷く。

「ええ。魔界の血が流れるものには、多かれ少なかれ必ず魔力というものが存在しますから。訓練さえすれば使えるはずです」

「お前の母親は、その中でも甚大な魔力を有していた。お前にもその血は流れているはずだ」

 コウの同意にレイラは複雑な気持ちになる。昼間に聞いた、母が甚大な魔力を有する使い手だということは事実だったのだ。

 そんなレイラに気を遣ったのか、レイが穏やかな微笑みを浮かべた。

「訓練と言いましても今夜は本格的にはできないと思います。魔力の消耗は体力と同じで、かなり辛いですから」

 安心させるように頷きかけられ、レイラはああ、だめだと思う。

 気を遣わせて、守られてばかりで。私は、この人たちに守ってもらって、何かを与えてもらってばかりだ。

 それなら。

「ううん、大丈夫。頑張るよ」

 レイは軽く眼を見開き、

「……ええ。お任せください」


 頷いたレイは手を胸の高さに掲げた。

 その瞳に紅い光が宿り、やがて手のひらに生まれたのは人の頭の大きさくらいの青白い焔だった。

 次の瞬間、世界が“反転”した。

 何が変わったというわけではない。ただ、例えるなら――空気が違う。明るさも、家具の様子も一切変化していないはずなのに、部屋の中が妙に紅い印象を受けた。まるで、夕焼けのなかにいるような感覚。

 そう、以前に結界の中に入り込んでしまったときと同じ感覚だった。

「何をしたの?」

 レイは腕を一閃させ、灯していた焔を部屋の隅にいるコウに投げ渡した。

 彼は動揺することもなく手を伸ばし、焔を手に宿した。レイの動作がいつもよりかなりぞんざいに見えたのは目の錯覚だろうか。

 数瞬の間無表情でコウを見据えていたレイはやがて振り返るとレイラに向き直り、にこやかに解説を始めた。

「現実世界と魔界、このふたつはもとは同じ世界ですが、今は全くと言っていいほど共通点がないのです」レイラは記憶を掘り起こす。そんな話を雪から聞いたような気がした。「空気の質、世界の定義、物理法則、そして人間。今や同じ世界であったとは考えられないほどに、異なってしまっているのです」

「人間も?」少し沈黙。「じゃあ、魔王とかは人間じゃないの?」

 レイは顎に手を添えしばらく考え込むと、長くなりそうだと判断したのか、レイラに椅子を勧めた。

 言われるがままに腰を下ろし、テーブルに頬杖をつきながらレイラはレイを見上げた。

「いえ、まったくとは言い切れませんが基本は同じです。ただ魔界の人間は魔力を持ち、扱う力を持っています。その点では彼らは人間ではないといえるかもしれませんが」

 レイラが促すと、逡巡の末レイもテーブルをはさんで向かい側に腰を下ろす。

「魔力は個人の体に眠る可能性のようなものです。たとえば魔力をうまく循環させることができれば、傷や疲労を瞬時に回復させることも可能ですから」

 レイは黒衣の袖を捲った。指を鳴らすと、その白い陶器のように滑らかな肌に赤い線がはしる。

「え、」

 レイラの動揺をよそに、レイはもう一度指を鳴らした。自身が負った傷を眺める瞳に、かすかに紅い光が宿る。

 と同時に、傷がすうと消えていく。

「消えた?」

「はい、治癒力を高めればこのようなことも可能です。あとはそうですね、レイラ様が今いるこの部屋にも魔力を使った結界を張らせていただきました」

「この部屋に?」

 そうか、と納得する。あの感覚は結界の中に入ったために生じたらしい。

「現実世界では大気に漂う魔力、正確にはその元になるものですが、それが薄いのです。そのため魔力を使うには普段の何倍もの魔力を消費するため、レイラ様の練習には適していないのですよ。

 なので、まあ分かりやすく言い換えると、この空間に限定して空気を魔界のものと置き換えたということになります」


 全然分からない。

 顔中に疑問符を浮かべるレイラを見、手に焔を宿したままのコウが小さく笑った。

「世界を裏返した、ということだな」

「世界を、裏返す」

 オウム返しに呟いてみても理解ができないことには変わりがなかった。

 考えても無駄だと判断したレイラは、とりあえず話を先に進めることにした。

「あれ? でも私の記憶だと、べリアスとかは魔法を使っていたような」

 いつだったか、体育館の裏に呼び出された、というか連行されたとき。涼の髪が深い蒼に変化した後、緑色の燐光を纏っていた。あれを魔法と呼ぶのだろうか。

 レイは即座に答えた。

「それはあの方々が魔王でいらっしゃるからです。操る魔法の威力も常人とは桁違いですから」

「……」

 そもそも常人は魔法なんか使わないぞという思いは胸の内に秘めておくことにした。

 さて、と言いながらレイは心なしか張り切った様子で手招きした。

「それではレイラ様、こちらへ」

「こちら……、って」

 今レイラはレイの向かい側に座っている。

「ここじゃ、駄目なの?」

「はい」

「はい、って」

 そんなにさわやかに言われても。


 困惑して彼を見つめるが、レイはにこにこと穏やかに微笑むばかりだ。

 レイラは仕方なく立ち上がり、レイの隣に立った。

「これでいい?」

 いえ、とレイは椅子をもうひとつ用意し、そこにレイラを座らせる。

 沈黙。

 何をすればいいのかも分からず、ただレイの正面に座らせられている。距離がやたら近い気がして目を逸らした。

 レイの綺麗な顔に見惚れてしまうのに気付かれたくない。

 こほん、という咳払いとともにレイは話し始めた。

「まず、魔力の存在を感じ取れるようになっていただくことから始めましょうか」

「存在を?」

 レイは頷く。

「例えばレイラ様の目の前に金槌があり、その使い方を知らないとしましょう。その状態でいきなり釘を打てと言われても、何の事だか分らないでしょう?」

 なるほど、と思った。とはいえ、レイは金槌のことなど一体どこで知ったのか。

「そうか、そうだね」

 相槌を打つとレイは満足そうに目を細めて続けた。

「そうです。先ほどもお話しました通り、魔力とは可能性。その可能性に意図して方向性と力を与え、制御したものが魔法と呼ばれるのです」では、とレイラの手を取った。「体の力を抜いて、目を閉じてください」


 目を閉じた。

 暗闇に閉ざされた中で、レイの声だけが聞こえてくる。指先にはレイの手のぬくもりを感じて鼓動が速くなる。

「指先に集中していてください」

「……!」

 不意に、レイに触れられている部分から強い力の奔流が流れてくるのを感じた。

 それは言うなれば意思を持った焔のようなもので、燃え盛りながらうねり、勢いを増してレイラの中に流れ込んでくる。

 初めて感じる強い“力”に、レイラは耐えきれず目を開けた。額には汗が浮かぶ。

 奔流がぴたりと勢いを失う。

「これが、魔力?」

 レイが首肯した。

「私の魔力を送り込みました。レイラ様の体内の魔力を補う形で」

 レイラは指先をじっと見つめた。確かにまだ体の中で焔がくすぶっている感覚がある。

 動作に揺れる髪が触れるような距離でレイに見つめられているのに気付き我に返ったレイラは、手を掴まれたままなのに思い当り赤面する。

「ま、まだ放しちゃ駄目かな」

 しっかりと手を握り直したレイが艶っぽく囁いた。

「ええ、放さないでくださいね」

 再び頬に熱が上ってくる。何意識してるんだと思いながらもレイに見られていると思うとやはり頬の熱さは増すばかりで。

 レイの顔から視線を外すと、視界の端に手に焔を灯したまま無表情にこちらを見ているコウが映った。

 レイラの視線を辿ったレイはにやりとほくそ笑む。

「ふふふ」

 レイの小さな笑い声にコウは過剰に反応した。

「……何だ」

「いえ、別にいい気味だなんて思っていませんよ?」そんなこと言ってない、というコウの反論は黙殺し、「お役目ご苦労様です、とだけ言っておきましょうか」

 二人の中にまたも険悪な空気が流れはじめ、レイラは深々とため息を吐いた。こうなると当分の間はこれが続くだろう。

 ああもう、最近ため息ばかり吐いている気がする。ため息をつくと幸せに逃げられるというが、それはひょっとしたら真実なのかもしれない。

 ふと思う。

 それならば、私にとっての幸せとは一体何なのだろう。

 一人で、誰にも関わらずに以前のように生きていくことなのか。

 何人もの人間(?)に囲まれ、騒がしく生きていくことなのか。


 それとも、――


 レイラが思索に耽っている間も不毛な舌戦は続いた。

「ああ、おかわいそうなレイラ様。無愛想で何を考えているか分からない者を相手にするたびに、さぞその繊細なお心を痛めておられることでしょう」

「その点についてはお前に言われたくない」

「私がいつ無愛想な態度をとったと?」

「そういう意味じゃない」

 コウは焔を宿したまま、レイはレイラの手を握ったままレイラの頭上で火花を散らし続ける。

「お前には使い魔としての自覚があるのか?」

「ありますとも誰よりも。少なくとも黒髪に仏頂面のでかい鳥さんよりはね」

「俺は使い魔として守ると誓ったんだ」

「ほう使い魔として。あなたは炊事をするのが使い魔の仕事だと、そう言いたいと解釈してもよろしいのでしょうか」

 顔をしかめ、すかさずコウも反撃した。

「それを言うならお前もだ。毎朝起こすだけで、よく仕事をしていると言えるな」

「何を言うのです?」

 両者一歩も譲らない攻防は一向に終わる気配を見せなかった。


 ぼんやりと聞いていたレイラはすでに傍観を決め込んでいた。この時にどうにかしようと介入しても火に油を注ぐだけなのは明らかだったので、レイラは二人の使い魔と目を合わせないようにうつむいた。

 それに、と考えると自然と口元がほころんだ。ここには楽しいと感じられる自分がいる。それならもう少しここにいたいと思うのは、わがままだろうか。

 だんだんと熱を帯びてくる言い争いを尻目に。


 月は青白く輝き、夜はどこまでも更けていった。



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