3-08
「おやー、かわいい女の子だねー。ようこそー、悩める子羊よー」
気の抜けたセリフと共に現れたのは緩く波打つ色素の薄い茶髪が似合う、陽気そうな笑顔を浮かべる青年だった。
年の頃は小鳥遊と同じくらいだろうか。
レイラはもう慣れ過ぎて何も感じられなくなっていたが、明るい笑顔が印象的な、誤魔化しようのない美青年だった。
青年はにっこりと笑いながらレイラに椅子を示した。それは学校の相談室ごときにはおよそ不釣り合いな、立派な革張りの一人用のソファーだった。
「はじめましてー。カウンセラーの鈴瀬雪でーす。よろしくー」
手際よくお茶の用意をしつつ自己紹介され、レイラも慌てて頭を下げた。
「月城レイラです」
雪はお茶とお茶菓子を載せたお盆を持って、机をはさんでレイラの向かいに座った。未だ立ったままだったレイラに座るよう促し、ムフフと悪戯っぽく笑う。
「知ってるよー」
「え?」意味が分からず困惑する。
太陽のような笑顔を浮かべた雪はテーブルの上に組んだ指に顎を乗せ、癖なのだろうか、やけに間延びした口調で告げる。
「今回の託宣で選ばれた七臣家ロゼリウス家の姫様、でしょー」
「な……」
絶句した。
なぜ、そのことを?
「めんどいのは嫌だから、先に言っておくよー」紅茶をカップに注ぎつつ、「改めてはじめましてー。姫様にとっては三人目になるのかな? ルクレティス家の魔王、クインと申しまーす。お目にかかるのが遅れちゃったけどー、よろしくねー」
レイラは思わず腰を浮かせた。
「三人目!? あなたが?」
雪は立ち上がったレイラに笑顔のまま手を挙げ、
「まあまあ落ち着いてよー。座ってー、ねー」
レイラははやる気持ちを抑え、再び腰を下ろした。
目の前で陽気な笑顔を浮かべるこの男が、三人目の魔王。
ということは、やはり涼の言った通り千里は普通の人間ということになるのだろうか。
魔界も何も関係ないただの人間。
安堵とも落胆ともとれない不思議な感情が溢れたが、それよりも。
レイラは目の前に座る青年を見据えた。
よみがえってくるのは、以前に二人の魔王と出会った時のことだ。あの二人はレイラが七臣家の娘だと知った瞬間に狙ってきた。身の危険を感じ、無意識に身構えてしまう。
レイとコウ、守ってくれる使い魔はここにはいない。
レイラの前に紅茶の入ったカップを置きながら、雪は慌てたように両手をぶんぶん振りながらため息をついた。
「わーストップストップ!! 使い魔呼ぶのはナシだよー」オレあいつら苦手だからーとぼやきながら、「あー、そんなに警戒しなくていいよー。オレ、王座とかそんな飾りだけの地位に正直全然興味ないしさー」
怪訝な思いでレイラは紅茶に手を伸ばす。
それにー、と雪は口端を吊り上げた。
「ミリオン、あーこっちだと恭也だっけ? あいつは知らないけど、オレは子供には興味ないからさー」
「……」
喜べばいいのか悲しめばいいのか分からないレイラは無言のまま三人目の魔王と名乗った男を睨む。
雪はレイラの射抜くような視線を気にも留めず、呑気な仕草で頭をがしがしと掻いた。
「んー、いきなり言っても信じてもらえないかー」あ、お茶菓子どうぞと勧める。
テーブルの上には皿に山盛りの個包装された煎餅。
……紅茶に煎餅?
伸びをしつつ、雪はにんまりする。
「実はねー、姫様をここに呼んだのはオレなんだー。姫様のクラスの数学担当の教師、オレの使い魔だからさー」
何か失礼な真似しなかったー? と訊く雪に、レイラは曖昧に微笑んでみせるしかなかった。あのテンションの使い魔にこの主か、と笑うしかない。
「あのー、それで一体何の御用でしょうか?」
雪は山盛りの皿の上からとりわけ大きな煎餅を手に取った。
「あーそういえばー。君の使い魔の狼の方は元気にやってるー?」
「はぁ、まぁ。元気……?」
元気じゃないときを見たことがないのではっきりとは言えないが、とりあえず頷く。
「そっかー。よかったー気にしてたんだよねー結構」
言いながら煎餅をかじる雪を見て、レイラは話を逸らされたことに気づいた。
「じゃなくて! 私を呼んだということは、なにかそれなりの用事があるんでしょう?
使い魔の様子を聞くためじゃないですよね?」
苛立たしげに睨んでくるレイラの視線を何食わぬ顔で受け流し、雪はソファーの背もたれに体を預けた。
「――まあ、そうだね」
今までの陽気な様子を一変させ、雪は得体の知れない冷徹な微笑みを浮かべた。
口調もどこか威厳と冷静さを漂わせている。
急激な変化にたじろいだレイラを尻目に、雪は食べかけの煎餅を一気に口の中に頬張りながら机に頬杖をつき、
「どうやら、ただ状況に流されているだけの頭空っぽの姫様ってわけじゃなさそうだ。なるほどあの人の血を引いていることだけはある」
値踏みするように眺められながらも何も言えない。
額に冷たい汗を感じながら、レイラは膝の上で拳に力を入れた。
「オレが君をここに呼んだ用件はふたつある。まずひとつめ。確認するためだ」
レイラは辛うじて震える声を絞り出した。
「何を、ですか」
「君の気持ちをね」紅茶をすする。「君は魔界の掟である託宣によって、次の魔王族の長である大魔王を選ばなければならなくなってしまったわけだけど……。
――君は、誰を選ぶの?」
言葉に詰まる。咄嗟に答えることはできななかった。
気にする風もなく雪は指折り数えながら、
「三王家の中からだと、ミリオン、べリアス、あとはオレ。この中から選ぶ気はある? そこのところを聞いておきたくて」
うつむいて、レイラは少しだけ考えた。考えて出た結論はレイラにとっては当たり前のことだった。そして、同時に疑問を感じた。
なぜ?
「……ありません」
雪の目を見つめ、レイラははっきりと告げた。
彼の瞳からは何の感情の変化も窺えない。
「それはどういう意味なのかな。まだ決まっていないってこと? それとも他に心に決めた人がいるからとか。ただ単に、そんな掟に縛られたくないってだけなのかな」
どうやら雪はその答えをあらかじめ予測していたらしく、面白いとでも言いたげに腕を組んでレイラを眺めた。
「君が選ばない限り、王族交代は行われない。何年経っても、だ。ずっと狙われ続けることになるんだ」
真っ向からその視線を受け止め、今度は迷わずに答えた。
「私の使い魔が守ると、私が望むように動くと言ってくれました。私には大魔王がどうのとか、そんなことに関わるつもりはないんです。だから、私は彼らを信じます」
レイラのきっぱりとした物言いに、雪はやれやれと肩をすくめた。
まるで仕方がないとでも言うように。
煎餅をもうひとつ手に取り、
「はぁ。君ってさ、本当によく似てるよね。君のお母さんと」
思わぬところに出てきた母の名に戸惑ったレイラは、煎餅にかじりつく雪を見つめた。
口の端を持ち上げた雪は気だるげに髪をかきあげ、猫のような仕草で伸びをひとつ。
「お母さんと?」
うん、と頷く。
「その頑固なところとか、意志の強いところ。リゼラさん……、君のお母さんもそうだったよ」
「お母さんを、知っているんですか」
吹き荒れる胸の内を悟られないようにしつつ、レイラは尋ねる。
雪は事も無げに、なんでもないことのように――いや、実際彼にとってはそうなのかもしれない――煎餅を頬張りながら答えた。
「うん、よく知ってるよ。よく遊ばれたし、それに」遊ばれた? とレイラは表情をくもらせた。「ちょっと困ったところもあった人だけど、オレは彼女に憧れてた」
知らずレイラは息を吐いた。
この建物の中に数百人の人間がいるとは思えないほどに静かな空間。
ここは本当に、私の知っている学校だろうか?
「オレはさっき、用件はふたつあるって言ったね。
これがふたつめ。君に可能性を示唆するためだ」
間を置いた雪は空になった口でひとつため息、不安そうに表情を曇らせる少女をまっすぐに見つめ、やがて語り始めた。
「先代の託宣で選ばれた少女は、君のお母さんだったんだ」
信じられない事実に絶句する。出かけた言葉を飲み込みながら、途切れ途切れにレイラは雪に問いかける。
「でも、私は」あのときベリアスの使い魔だという黒猫が言っていた。「混血、だって……」
雪はそれを肯定した。
「うん。君のお母さんは、三王家の中のだれも選ばなかった。彼女はもう、こっちの世界でかけがえのない人を見つけてしまっていたから」
レイラはうつむいた。母の顔などろくに記憶していないが、自分と似た立場に置かれていたとは。ただひとつ違うのは、
そこまで考え、レイラはひとつの事実に気がついた。
「でも王族交代って、五百年に一度なんじゃ」
んー、と雪はしばし考える。片手を顎に添え、もう片方の手をわきわきと開閉させながら自信なさげに言う。
「こっちの世界とあっちの世界じゃ時間の流れ方が違うんだ。時間軸が違うっていうか、もとは同じ世界でも今は違う。五百年っていっても、こっちの世界じゃそんなに経ってなかったりする。もっとも逆の場合もありえるし、人間ももとは同じだから……、まあいいやこのことは。くわしく知りたかったら君の使い魔にでも聞いて」
適当に話を誤魔化すと、雪はソファーにもたれかかりながら天井を見上げた。
「そんなわけで君のお母さんは、一度きりの“誓約”の力をこちらの世界の人間の男に使ってしまったんだ。それで当時の魔界は大混乱。新たな託宣ももう五百年待たなきゃ降りてこないし、かといって魔王族は五百年経ってその“誓約”の力を失ってる。これじゃ王族交代はできないってもー大騒ぎ。でもね、今の魔王族は当時の魔王族とは違う。結局、王族交代は為されたんだよ」
雪の言っていることが理解できなかった。いや、できなかったのではない。したくなかったのかもしれない。
期待して、それが否定されてしまうのが怖かった。
黙って次の答えを待つレイラに雪は少しばかり苦笑したが、ひと刹那後には表情を引き締め、静かに告げた。
「つまり、だ。三王家の誰かを選ばなくても、王族交代はできる。というかなるようになると言った方が正しいかな。
とにかくオレが言いたいのは、君は自分の好きなようにしてもいいと、そういうことだ」
驚愕に言葉を失うレイラを眺めながら、ああやっぱりなと雪は思った。彼女はその可能性に気がついていなかった。いや、気付きようがなかったのだ。母親のことなど一切知らないのと同じことなのだから。
呑気な仕草で足を組みながら、雪はいまだ沈黙し続けるレイラに語りかける。
「そう、君のお母さんは三王家の魔王を選ぶことはなかった。だけど、現に今魔王族として君臨しているのは当時三王家のひとつだったレイデン家だ」ちなみに、と付け加える。「その時の魔王族はオレの家、ルクレティス家だった」
うつむいた顔を髪に隠しながら、絞り出すようにレイラは問いかけた。
「何が言いたいんですか」
組んだ足をぶらぶらと揺らし、言い聞かせるように雪は目を細めた。
「だから、君がどうにかしなくても何とかなる、なるようになる、ってこと。まあ、好きなようにするためにはそれなりの代償が必要だけど」
ふー、と息を吐き出し、間を置いた。
「君のお母さんはね、託宣に選ばれた時に言ったんだ。『私は確かに選ばれて、その義務があるかもしれない。でもそんなの他人が決めたことで私が従わなければならない理由なんてどこにもない。世界の掟なんて知ったことじゃない、私にはゆずれないものがあるから。それを曲げてしまったら、もう私は私じゃない。私は私であるために、そんな馬鹿げたこと断固拒否するわ』って、魔界のお偉いさんの前でね」そう語る雪の瞳には、どこか懐かしむような光があった。「選ばれた娘が拒否することなんてそのときまで一度もなかったんだ。魔界の三王家っていうのは美形が多いし、託宣に選ばれたということはその娘はすでに魔王族になれるということが約束されるんだから。でも当時の三王家は、そのことについてはそんなに深刻に考えていなかった。君のお母さん――リゼラさんの意地っ張りは有名だったし、ただ単に他人の言うことを受け入れるのが癪に障るだけで、そのうち宿命として受け入れるだろうって、ね」
でも彼女は曲げなかった。
呟く雪は苦笑していた。
「曲げなかったんだ。何があったか詳しいことは何も知らないけど、でも彼女がゆずれないものを守り通したということだけは、あのとき分かった。そうして誓約の力は失われ、七臣家の任から逃れたリゼラさんは、その代わりに……、最も大切なものを失った」
レイラは唇を噛んだ。喉の奥はからからに乾いていて、頭の奥はひどく痛む。
体がこの先を聞くことを拒んでいるように。
ゆずれないもの。
貫かなければ、自分ではいられなくなってしまうもの。
それは時に覚悟という名の力を与えてくれる翼なのかもしれない。
だがそれは同時に鎖でもある。
縛られてしまったら、囚われてしまったら――抜け出すことなどできはしない。
私にも、ゆずれないものはあるのだろうか。
そしてそれを守った時に、一番大切なものを失ってしまったら? それは矛盾だと、理不尽だと思った。いちばん大切なものを守って、最後にはそれを失うなんて。
どうする、まだ聞きたい? と、雪が目線で問いかけてくる。
聞くのが辛かった。
聞きたくなんてない。でも、とレイラは微かな期待を胸に心の中で呟いた。もしかしたら、それを知ることができたなら。
私の一番知りたいことを知ることができたなら、もう――
頭を振った。考えてはいけないことだとレイラは自らを律し、浮かんだものを振り払う。求めてはいけない。
決意を固めて頷いたレイラに雪は頷き返し、目を閉じる。
「ゆずれないなにかを守って、彼女は大切な人と一緒にいることを選んだ。魔王族としての栄華よりも、かけがえのないものを。なのに彼女はその自由の代償として、何よりも大切な人を奪われた。君が生まれた後、ちょうど幸せの絶頂だった頃にね……」
ぎし、とソファーが軋る。
「ロゼリウス家は七臣家の中で最も強い魔力と権力を有する家だった。中でもリゼラさんは歴代の中でも最強と謳われていたし、手は出しにくかったんだろうね。君のお父さんは、魔界の裁きによって失われた。それ以来、君のお母さんは行方が知れない」
レイラは目を見開いた。
雪の話が真実だったとするならば、そこには矛盾が存在する。彼の話によれば父と母が姿を消したのはほぼ同時期になる。しかし、レイラの記憶では父は自分が幼いころに命を落とし、母は自分がある程度育ってから失踪したことになっている。
おぼろげだが微かに記憶の淵にあるのは、モデルをしていた母の華やかな笑顔。
明るくて強い笑顔が、霞みがかってはいたが確かに記憶に残っていた。
「私の記憶では、母が行方不明になる以前に父は既に命を落としたことになっています。
母は行方不明だと……、それが私の記憶しているすべてです」
「たぶんそれは真実じゃないな」
首を振り、雪は目を開いた。
「誰かが君に植え付けた偽りの記憶だよ。七臣家の誰か、三王家の誰かかもしれないけど、魔界の人間が君の記憶を操ったんだ。ここからは推測だけど、王家のものに混血の半端者はいらないとでも思ったのかもしれない。ただの人間としておこうと、記憶を自分たちの都合のいいように改ざんしたんだな。ま・そのときはまさか託宣に選ばれるのがその子だなんて、誰も思っていなかったんだろうね」
世の中うまくいかないものだね、という呟きは誰に向けたものだったのか。
「そう、ですか……」
拳を握りしめ、レイラは唇を噛んだ。
私が私であった理由。
母が失踪してから、周りの人間たちに利用され、蔑まれ罵倒されて。
私は独りで生きていくしかないのだと、他人に頼ってはいけないのだと、思い知らされたからだった。
だから私は、“私”になった。
それは私にとってゆずれないものだったから。
でも今は優しさを知ってしまった。誰かがそばにいてくれる温かさを、その時間が与える寂しさも、私は知ってしまった。
だからかもしれない。希望を持ってしまったのは。
優しさも暖かさも打ち砕かれた期待も希望も、その痛みさえ“私”は知らなかった。
「オレはさっき、君の好きなようにできるって言った。でもね、それにはそれ相応の代償が伴う。自分のしたいこと、するべきことを、よく考えてほしい」
雪はそう言うと、もとのように明るい笑顔を浮かべてレイラを見つめた。
「さ、オレの話はこれで終わりー。ごめんねー長々と付き合ってもらっちゃってー」
「……いえ」
レイラがやっとそれだけを言葉にすると、雪は困ったように頬を掻いた。
「うーん、姫様いじめちゃったかなー。やばいなー、ミリオンに殺されてしまうぞー」
冗談めかした物言いに微かに笑ったレイラに、雪は満足そうに頬を緩めた。
「やーっと笑ってくれたねー。やっぱりー、女の子は笑ってる方がかわいいよー」
「そうですか」
憮然としながらも心持ち顔を赤くしながら相槌を打つ。
からかうように雪は指を伸ばし、
「ほーらまたそんな顔するー。笑顔笑顔」ぐにぐに。
レイラは雪を振り切って無理矢理立ち上がった。「ありがとうございました。私、そろそろ行きますから」
背を向けられ、雪は寂しそうにその背中を見つめた。
「もう行くの? 寂しーなー」
立ち止まる。
肩越しに振り返り、
「ありがとうございました」
「聞きたいことがあったら、またいつでもおいでー」
呑気な声を聞きながら、レイラは相談室の扉を閉めた。
聞きたいことなんて、たくさんあるに決まってる。
扉に背を預けてレイラは想う。
どうしようもないこと――それは、自分に問いかけなければならないこと。
いまだ答えにたどりつけないでいるもの。
いや、本当は分かっているのかもしれない。
でも私は、それを認めたくないでいる。
今は、まだ。
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