珈琲は月の下で No.5

久浩香

第1話 薫香

【泰平の眠りを覚ます上喜撰蒸気船たつた四杯四隻で夜も眠れず】


江戸幕府の鎖国という眠りを妨げたのは黒船の来航であったが、新平の目を覚まさせたのは、彼の鼻に微かに届いた薫香だった。


月光が反射する湿った石畳を辿って行けば、その行き着く先に薫香を発するものがある事を予感させる。


すんすん。


肩を小刻みに動かしながら、肺と鼻を使って、その芳醇な香りの源泉を探す。


すんすん。


彼の大好きな珈琲の香りが、鼻孔に満ちて来る。

香りが放たれる源に近づくにつれ、モノトーンな世界に仄かな彩があるように見える。


すっ。

……………

フーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ。


濃い香りを吸い上げ、息を止める。

充分にそれを堪能した後、閉じていた唇を僅かに割り、ゆっくりと細く長い息を吐く。

肺が取り込んだ珈琲の薫香の体積分膨らんだ身体が、無味無臭の息を吐き出して萎んで、新平の肉体の中に取り込まれ、留まったままの珈琲の香りが五体を廻る。


すっ。

……………

フーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ。


何度も何度も繰り返す内、肺から送り出される珈琲香の閉じ込められた酸素が、肉体の隅々まで運ばれて、体内を廻る珈琲の香りの密度が増している気がした。


薄墨色のカップの中には、珈琲がなみなみと注がれており、その水面に新平の穏やかな顔が映る。

新平が求める薫香は、そこから立ち上っていた。


恐る恐る新平は、カップに手を伸ばす。

カップの中には、ほんの少し傾けただけで零れてしまいそうな量の珈琲で満ちている。

新平は、一滴も無駄にしたくなかった。


ハンドル取手をつまみ、そろりともち上げる。

珈琲という黒い液体や、カップの口縁の分厚さがもたらす錯覚を差し引いても、それは羽根よりも軽く、新平はソーサーに液垂れをおこす事なく、それを口元まで運ぶ事ができた。


すんっ。

……………


目と鼻の距離で嗅ぐ珈琲の鮮烈な香りは、それまでと比べ物にならないほど刺激が強く、新平は、思わず眉根を寄せた。

脳に直接訴えかける極上の香りだ。

ふわりと身体が浮き上がりそうな恍惚であった。


フーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ。


あまりの充足に、気が遠くなりそうな気がした。

だが、その香りを逃す事を恐れ、それまでと同様ゆっくりと吐き出す。


カップをここまで寄せているのだから、あとはもう飲むしかない。

何より、新平自身がその誘惑に打ち勝てそうもない。

唇を震わせながら、少しずつ口が開く。

開いた唇の間からは、舌先がチロチロと出入りをする。


(あっ…あっ…)


指先がカタカタと震えている気がする。

しかし、カップの中の珈琲は零れない。

珈琲も新平に飲まれたがっているのだ。


ついに下唇にカップの口縁が触れ、舌の上を通って喉に流し込まれる。


薫香によって新平が得ていたものは、この上ない“安らぎ”であった。

だが、その“安らぎ”そのものを身の内に取り込んでしまうのは、あまりに刺激が強すぎた。


嗅覚でもたらされる刺激が“そよ風”であるとするならば、味覚が訴えてくる刺激は“針”だ。

珈琲の味わいは激流となり、血管を通って爪の先までいき渡り、そこここで楔を打つ。

それまで、寝惚けていたような身体は、一気に脳を焼いて覚醒した。

その珈琲を淹れてくれたのは、彼が、何よりも、誰よりも大切な人達が、新平を想って淹れてくれたものであった。


(アアーーーーーーーーーッ!!!)


新平は、飲み込んだ珈琲の液体とは比べ物にならない程の涙を溢れさせた。


厭わしいのではない。

有難いのだ。

有難すぎて、歓喜するのだ。

のしかかる歓喜があまりに重すぎて、苦しいのだ。


永遠の夜の彼岸に身を置く新平に、時の流れを問う事は不可能だが、彼が思い、彼を思う人達にとって、その日は、新平の新盆であった。

お線香の香りの記憶によって象られた彼の身体が、次に同じ香りを嗅いだとしても、もう、珈琲が飲み物である。と、いう事を思い出す事は無いだろう。



嗅覚が彼に与える刺激は、

「お父さん。安らかにお眠り下さい」

という、表層のふんわりとした羽毛布団に包むような祈りであった。


しかし、味覚が彼に与えた刺激は、

「お父さん。辛かったね。痛かったね。よく頑張ったね。大丈夫だよ。お父さんは、空から見守っていてね」

といった、より直接的な、家族の愛そのもので彼を覆いながら

「でも、もうちょっと、頑張ってほしかったよ。せめて、私のウエディングドレスは見てほしかったなーっ」

と、彼の悔恨を刺激する、小さな怨み言も混じっていた。




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