時間は夜の八時。実はガキの頃よくヤマと行った思い出のカラオケボックス・モカモカの裏のマンションに到着すると、すぐさまにポストを見て「大沢」という名字を表札を捜した。幸い、そんなにでかいマンションじゃない。目的の部屋はすぐに見つかる。

「二○三か――」

 確認の為、エリナの家の号室を口に出した。他にオオサワと読めそうな家の表札はない。西野と軽くアイコンタクトをしてから、そっと階段で二○三号室へと向かう。

 家に居てくれとマジで願った。そして、大沢エリナで確定だということを強く願った。普段なら何かに願うことなどないこの時鷹様が、マジで何かに強く願った。なんでもいい、もうこの際この前馬鹿にした神様にだっていい、とにかく、家に居てくれ、大沢エリナで確定してくれとマジで願う。そしてその思いが、意思とは別に口から漏れる。

「――…む」

「え?」

「あ、いや、なんでもない――」

 なんでかって?なんでかわからねーけど、ここにきてすげぇ嫌な予感がしてるからだ。

 花ちゃんが言っていたのはこういうことなのかもしれないと思う、言いようのない不安。

 緊張や恐怖?そんなんじゃない。こんなことおれの人生で一度もなかった。ただただ、不安になる。嫌な予感がする。

 だけど皮肉にも、そんな嫌な予感がおれの背中を強く押すと同時に、支えてくれていた。早く解決しろ、早くしろとせっついてきている。

 居なけりゃ居ないでもいい。そしたら速攻で働いているスナックに向かうだけだ。そんなことはわかっている。

 だけど、もうまだるっこしいことはしたくない。ここで決めたい。ここで確定したい。そしてここで捕まえて、これからすぐにエリナの所へ連れて行きたい。

「頼む――」

 すげぇなんだこの感じ。マジで嫌な予感がする。もう一度願いが口から零れる。そう、今度ははっきりと。

 二○三号室の前について、おれは一呼吸だけ整えると、いわゆるピンポンに指を伸ばした。微かに震えている。頼む、居てくれ――ッ。

 だけど押すか押さないかのところで、ドアががちゃりと開く。

「うぉッ」

「あ、えッ?」

 びっくりしたのはおれだけじゃない。ドアから顔を出した女も驚いた顔をしていた。

 茶色い髪、緩いパーマ、ばっちり化粧。服装も少し派手だ。間違いなく夜の商売をしている女――という感じ。すぐにおれは冷静さを取り戻して口を開く。

「こんばんは、大沢エリナさんのお母さんですか」

「え、そうだけどあなた達は?」

「いや、友人でして。今、エリナちゃん居ます?」

 おれはそう言いながら、この茶色パーマの女をじっと見つめた。ばっちりと化粧もしてるし、絶対そうだ!とは言い切れないけど――似ている。あん時に見た夢の中で、逆光だったけど――立ったまま見下ろしていた女に――。

 それに、こんな偶然はあり得ねぇ。同じ中学で、同じ名前の女の子が居なくなった。

 いくしかねぇよな、どのみち、ここが一番可能性が高いんだ。リスクを取るべきだよな。

「え――いやちょっと、エリナ実はねぇ、少し前から――」

「はは、あんたが殺したんだろ、エリナの頭、何で叩いたんだ?すげぇ血が出てたもんな」

「――ッ」

 エリナの母ちゃんの顔がぎょっとなって目が泳いだ。少なくとも、はぁ?って感じじゃなくて、やべぇばれたッて感じだった。やはり確定――だと思いたい。どのみち、こいつがエリナの母ちゃんである可能性が一番高い。もうこんな押し問答は無意味だ。丁寧に聞いたって答えるわけがない。

 エリナの母ちゃんが何かを言う前に、咄嗟におれはその首を押さえて押し込み、家の中に無理矢理入った。西野が後についてきて、すぐに玄関のドアを締めて鍵を閉める。その手際と対応の良さに少し驚いたけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。玄関を進んでリビングの手前まで進むと、おれはそのリビングを見渡す。そして――。

「ビンゴだな――」

 おれは思わずそう口にしてしまった。こいつが捜しているエリナの母ちゃんだと確定した。

 このリビングを――おれは見た。エリナが見せた夢の中で、確かに見た。床のフローリング、壁紙の色、そしてテーブル、椅子の脚――全部同じだ。名探偵が謎を解いた時、こんな感じになるのかもしれない。おれは一瞬固まってしまったけど、すぐにその硬直は解けた。

「声を出すなよ」

 おれは低い声で脅かすようにそう言う。確定した、もう遠慮をする必要はないけど、過度な暴力は控えたい。エリナの母ちゃんはおれのことを恐怖の視線で眺めながら、小さく小刻みにうんうんと頷く。

「危害を加えたいわけじゃない。いいか、大声を出したらお前が後悔をすることになる。お前が殺したエリナのことでな」

 おれのその言葉に、エリナの母ちゃんは露骨に顔を強ばらせ、身体全体が小刻みに震えだした。

「わかったな?手を離すぞ」

 そう言いながら手を離すと、エリナの母ちゃんはぺたんとその場に座り込む。おれのしゃがみこんで、下を向く女の髪を掴んでぐぃと上を向かせた。言葉にするとかなりやばいけど、実際はかなり優しく、だ。

「信じる信じない、そしてお前がどうしてエリナを殺したなんてことも実はどうでもいい、ただ、おれの言うことに従ってもらう」

「な、なんなのッほんと、あんた達――」

「そんなこともどうでもいい。簡単に説明するぞ。おれ達はお前の娘であるエリナに呪われて、お前をラバーベイサイドの四○九号室まで連れていかないと死ぬ。これから、そこに付き合ってもらう。何度も言うけど、信じる信じないなんてどうでもいい。いいから付き合えッ」

「え?マジで言ってんの?あはッふふ、ふふふッ」

 おれがそう言いながら腕を掴んで引っ張ると、エリナの母ちゃんはそんな風に不気味に笑った。おれはそんなエリナの母ちゃんを、不思議そうに見つめてしまう。

「何よ、警察は?あんた達だけ?」

「当たり前だろ、おれ達はお前が殺した殺してないなんてどうでもいいんだよ、早くいくぞッ」

「ばっかじゃないの?あんた達、誰に何してるか、わかってんだよね?」

 エリナの母ちゃんの目がぎらりと輝く、あ、これ元ヤンだなって思った。もうしょうがない、過度な暴力は控えたいけど、殴るしかない。殴ってわからせるしかない。多分もう、あんまり時間がないような気がする。後もう少しだってことは、エリナだってわかっているはずなのによ。ちょっと待てってんだよな。多分この嫌な予感は――どっかでエリナが見つめているからだ、そんな気がする。つうか、もし本当に見てるならもういいじゃねぇかって感じだよ。ああいや、この前西野が言ってたな、母親をあの場所で呪わせないといけないのか。

「頭大丈夫?少年、シンナーでも吸ってるの?」

「こいつッ――」

 がつんと強めに顔面を殴ったけど、エリナの母ちゃんは鼻血が少し出た程度で、痛そうではあったけど笑っていた。なるほど、暴力の体制もそれなりにあるみたいだ。

「はい、これ明確な傷害ね。あんたのお家、お金持ち?」

 エリナの母ちゃんはそう言ってふふっと笑う。もういいかと思い切り腕を引っ張ったけど、エリナの母ちゃんはその場に腰をぎゅうと下ろして抵抗した。

「なぁ――抵抗したって無駄だって。おれは絶対にお前を――」

 そう言って、失敗したとここで気付いた。後ろのドアノブががちゃがちゃと回されている。そうか、こいつは――時間稼ぎをしていたんだ――。

「マサちゃんッ助けてッ」

 エリナの母ちゃんが急にそう大声で叫ぶ。マジで失敗した。おれはエリナの母ちゃんに具体的な話をしてしまった。ラバーベイサイドという場所、自分達が呪われて死ぬということ。そして警察は呼んでいないということ――。

 きっとエリナの母ちゃんはおれ達の話を疑っていない。そこまで具体的なことを話せば、信じるしかないだろう。それなのにこの強気と時間稼ぎは――。それらを、どうにかできる術を持っているに違いない。そして、それがマサちゃんと呼んだ人物にどうにかしてもらおうとしているに――違いない。

「ちッ――…」

 おれがそう舌打ちをすると同時に、がちゃりと鍵が外され、ドアが開く。

「なんだぁ――お前ら?」

「――…ッ」

 声の主は、こんな状況を見ても冷静にそう言った。ただ、それだけでおれはこの声の主が手強い相手だと確信する。そしてその姿を見て、面倒な相手だと理解する。

「マサちゃん助けてッこいつらおかしいんだよッいきなり入ってきて殴られた、ほらッ見てよッ」

 エリナの母ちゃんはそう言うと鼻血を手で拭って掲げるようにアピールした。マジか、このクソ女――…ッ。

「おい、なんだってんだよ?」

 マサちゃんと呼ばれた恰幅のいい中年。髪は坊主。だけど、二の腕から手首までびっしりと和彫が完成していた。いわゆる、マジな不良。つうか、刺青隠さないなんておかしいだろ。ただの半グレさんや元ヤンキーかとも思ったけど、この貫禄、この落ち着きから漂ってくる危険な香りは、いわゆるヤクザだろうと判断した。腹は出てるけど、ガタイはかなりいい。

「おい、ガキてめぇ」

 マジか――。捕まっていると思って油断したと思ったけど、こいつはエリナを酷い目に合わせていた男じゃない――。

 ダブルでマジかよ。このクソ女、娘殺して彼氏だがなんだかが捕まってもう男捕まえたのかよ。新彼氏は明らかに酔っ払っているみたいだけど、かなり強そうだ。何回見てもでかいし。マジでガタイは悪くない。腕だって太い。単純におれの倍は体重がありそうだ。

「なんとか言えこるぁッ」

 頭の中がぐるぐると回る。時間はない。手加減はできない。ある程度のダメージを与えないと追ってくる。顔を明確に見られた。今後の問題。こいつの素性。

「ああっ?このガキッてめぇ誰の女の家に――」

 この体重差。勝てるのか。いや、選択肢はない。

 通称マサちゃんに髪を掴まれて引っ張られたその瞬間、股ぐらを思い切り蹴り上げた。つま先なんかじゃない、脛で思い切り蹴り上げた。脛に強烈な感触が残る。潰れてはいなくても、しばらくは動けないだろうと確信できる程の感触。

「かッ――かかッ」

 新彼氏は悲鳴すら上げない。おれの髪から手を離し、股間を押さえて震えながら膝をついた。押さえている手からはすぐに薄い血が溢れ出てくる。しょんべんと血が混ざった奴だ。両方か片方かわからないけど、多分タマタマさん潰れた。そして、膝をついて下がったその顔面――こめかみを思い切りつま先で蹴り込んだ。手加減のない下段の蹴り込み――。踏み抜きほどではない威力にしろ、通称マサちゃんは蹴られた場所から爆ぜるように頭から床に叩きつけられ、ぶるっと痙攣した。

「マサちゃんッ」

 エリナの母ちゃんがすぐに通称マサちゃんに近づく。だけど、おれはそれを髪を掴んで止め、肩を掴んで廊下に転がした。廊下で転んだエリナの母ちゃんは、廊下に手を付きながら恐怖と怒りが混じった表情と瞳でおれを睨みつける。

「ガキ、お前ッわかってんのか、この人はなぁ海広組の――ぎゃッ」

 何かを言おうとしたエリナの母ちゃんの手を、おれは思い切り踏みつけた。

「うるせぇ、もう時間がねーんだよ。黙ってついてこい、逃げたらマジで殺す。てめぇだってわかってんだろッおれ達は遊びじゃねぇんだよッ」

「いぎッいぎぎ――」

 エリナの母ちゃんが返事をするまでおれは踵に力を入れ続ける。骨が折れたって関係ない。もうそんな余裕はない。

「もういいぜ、なんだったらオマワリ呼ぶか?あ?どのみちてめーが来てくれねーならおれ達死ぬからよ、てめーの両目潰してと鼻削いで、オマワリ呼んでから死ぬからよ」

「あんた達ッホントに、本当に――」

 エリナの母ちゃんがそう言うと、西野が前に出てくる。

「謝ってくれるだけでいいんです。ラバーベイサイドの四○九号室で。それだけをして、彼がやったことを不問にしてくれるなら、私達は警察には絶対いいませんから」

 おい西野お前それマジな嘘じゃねぇか――。と思ったけど口にはしない。ただ、少し驚いた、西野はこんな穏やかな声で――表情で嘘をつくことができるのだと。

「すぐに終わりますし、何もありません。それでも協力できないっていうのなら――彼の言う通りにしてもらいます」

 そして、さりげなく脅す。エリナの母ちゃんはおれと西野の顔を交互に見てから、ぐっと息を飲み込んだ後、小さく頷き、呟くように――そしてめんどくさそうな…諦めたような口調で「わかった」と言った。

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