昔、中学の時の担任が喧嘩をして興奮気味のおれに、「これを飲めば落ち着くから」とココアを作ってくれた。実際に、おれはそれを飲んでかなり落ち着いた。ココアを飲みながらおれは、担任の如何に暴力というものがよくないかを力説されたことをよく覚えている。今思えば、すごくいい話だったし、すごくいい担任だった。

 まぁそんないい話は、まったく今でもおれの心の中に繁栄されていないけど。

 あのラブホから逃げるように飛び出した後、おれはとりあえず西野を自宅へと連れてきた。家にはやっぱり誰も居なかったので、西野をリビングに通してソファーに座らせ、ココアを飲ましている。今言った通り、ココアって奴は心を落ち着かせるのに最適な飲み物なんだからな。

「どう、落ち着いたか」

「ええ、はい、少しだけ――」

 おれはそう言った西野の対面に座り、テーブルの上に置いてあったリモコンで、テレビを付けた。まだ時間は二十二時と少し。テレビではお笑い芸人が無茶をする番組が流れていた。

「んで、どうした。かなりやばそうな感じだったけど」

「――…」

 当然、さっきのことを西野に聞く。ただごとではない様子だったし、実際にただごとではなかった。こんないたいけな女子高生が、あんなそこらのホラー顔負けの表情で失神するんだから、余程のことがあったに違いない。残念ながら、おれにはさっぱりなーんにも見えなかったけど。

「言いにくいのですが――私も――」

「私、も?」

 ドキドキしながら次の言葉を待つ。西野はきゅっと口元を締めて、拳を軽く握り、俯き加減になった。

「私も、お兄さんやお兄さんの彼女さんと同じく、呪われました、ね。厳密に言えば、呪いというよりも、あの子はまだ呪いという明確なものではなく、誰彼構わず無理にお願いをしている――といった様子ですが。それでも――この感じはかなり強い呪いです」

「――え?」

「もう、この先――市井くんは関わらない方がいいです。ですので、事後報告だけさせて頂きたいと思います」

 なんていうか、悲しいようなそれでも強く決意したような表情で西野はそう言った。おいおい、なんだよそりゃ、そりゃないぜ西野ちゃん。

「おいおい、元はと言えばおれが連れていったからだろ?そりゃないぜ、確かにおれは西野みたいに霊感とかないけど、なんかの役に立つだろ」

「いえ、大丈夫です。もう、関わらない方がいいです。これは、市井くんの為にも言っています」

 西野がそう言って立ち上がったので、おれは咄嗟にその手を掴んで座らせてしまった。少し強く掴んでしまったのか、西野はびくっと反応したので少し申し訳ない気持ちになる。

「いやいや、さすがにそんなこと言われてもここではいそうですかってわけにもいかないだろ?マジか、マジであそこにやばい幽霊いるのか」

「はい。かなり強い霊です。まだ幼いですが、生前、かなり霊感が強かったのでしょう。十分に人を呪い殺す力があると思います」

「じゃあ、やっぱ――」

 おれがそう言うと、西野の表情がきゅっと引き締まり、真剣というか、厳しい表情になる。

「ええ、間違いなくお兄さんはこの霊に殺された。お兄さんの日記とも、ほぼすべて一致します」

(――マジかよ)

 その言葉を聞いた時、おれは咄嗟にそう思ったのはいいものの、その言葉の意味がふわついているというかなんというか、自分自身でもよくわからなかった。兄貴がマジで幽霊に殺されたのか、という意味なのか、そもそも――幽霊なんかマジでいやがるのかよ、という意味なのか。

 実際に兄貴がおかしくなって死んだ。ここまで来て、幽霊なんか嘘だろうとも胸を張って言えないし、今はまったく信じていないわけでもない。でも、幽霊がどうやって人を殺すのかと思った時に、映画宜しく、相手だけが触れる超絶人間不利な物理法則を使われるのだろうか。

 そう、確かにさっきの西野の気絶は演技とは思えない。おれには見えない何かを見ていた時も、演技とは思えないし、ごめんねと一言だけ書かれたページを見た瞬間のおぞましさというか、悪寒も事実だ。

 だけど――おれはやっぱ心の奥底では幽霊なんてものを疑わしく見ているのか――。

「市井くん、信じていませんね?幽霊なんてもの半信半疑でしょうね、私のことも、頭のおかしい子だと思っているでしょう?」

「あ、いや。そんなことは――」

 むむ、疑いというか、心模様がもろ表情に出てしまったか。西野はまるでおれの心を読み取ったようにそう冷たく言った。やべぇ、ちょっと怒ってる。

「いや、なんつーかさ。やっぱさ、幽霊が人殺すとかさ、そこがちょっといまいちっていうかなんていうか――。まぁ実際に兄貴は死んだわけなんだけど、あそこに幼い霊がいました。それが殺すくらいの力あるよって言われても、どうやって殺されるの?例えば、夜中に出てきて首を絞められるとか、そういう物理的なものならおれ力になれるのかなって少し思っただけ。それに、いきなり関わらないでって言われてもさ」

 なんか、しどろもどろになってしまったが言いたいことは言えたような気がする。ちらりと西野を見ると、西野は変わらずきゅっと締まった少し厳しいような表情でおれを見つめていた。

「お兄さんは、どうやって亡くなりましまか?」

 だけど、西野は厳しい表情をしながらも――その声に怒りの色はなく、冷静だった。

「え、いや、事故だよ。交通事故」

「幽霊――霊に呪われるということは、わかりやすく言えば運を削られている状態だと思ってください。私達が毎日を生きている、それは運が良いから。悪意を持つ、いわゆる悪霊や生き霊などは、人間の運を削り取ります」

「ってことは――」

「そうです。運が無くなれば、人は死ぬ。病気、怪我、お兄さんのように交通事故、はたまた、工事現場から鉄骨が落ちてきたりするのかもしれません。運が完全に削り取られた時、例外なく人は死ぬか、それ相応の運命を辿ります。実際に霊を見ないと信用できないとは思いますが」

 西野はそう言うと、軽くため息をついて苦笑いを浮かべた。

「それはわかったよ、じゃあなんでおれは関わったら駄目なんだ?元はといえば、おれのせいじゃんかよ」

 本当はよくわかっていない。運が削り取られるという概念がよく理解できていないし、いまいちぴんとこないけど、また突っ込まれそうだから素朴な疑問を口にする。

「市井くんが、呪われていないからです。霊感がまったくなければ、こちらから会いたいと願ったりとか、鏡越しに見えてしまった――とか、そういうこともありますが、基本的に本当に信用しない限り、霊の姿は見えません」

「え?そうなの?」

「はい、霊の姿が見えないということは、あちらもこちらが見えていない。だけど、それは今後はわかりません。今は私の言葉だけでは――あくまでもお兄さんは交通事故で亡くなったのだから、呪いで殺されるかもしれないと言われても信用できないでしょう、それは無理もありません。できれば、そのまま本当に信用しないで欲しい。呪われれば、絶対に後悔することになりますから。関わって欲しくないのは、そういう理由です」

「ふむ――」

 おれはそう言って唸った。色々と思うことはあるけど、答えはひとつ。おれが関わらないわけにはいかないだろうということ。

「でも――私が呪いを解けずに死んでしまったら、多分信用してしまうと思います。もしそうなったら、二度とあのラブホテルには近づかないでください。呪い――霊を信用して入った時、今度は今回のようにいかないかもしれません」

「いいよ、別に呪われても。おかしいだろやっぱ。おれもなんか手伝うよ。どうやって呪い解くんだよ」

 おれがそう言うと、西野は再び苦笑いを浮かべる。

「駄目です。呪われていないなら、それが絶対に一番いいです。慣れていない人間がこれを経験すれば、正気じゃなくなってしまうかも」

「いいって。元々おれ頭おかしいし。じゃあ、呪いたって、どうやって解くんだよ。なんか集めたりとか、探したりとか、そっち手伝おうよ」

 おれがそう言うと、西野は苦笑いを崩さないまま、首を軽く振った。

「それが、正直、わからないんです。手伝ってもらうにしても、何をすれば呪いを解いてくれるのかわかりません。幼いということもそうでしょうが、まだ霊になって日が浅いのでしょう、混乱している印象でした」

「じゃあ、何か手伝うことがあればすぐ言ってよ。それでも関わるなっていうなら、マジで西野が死んだら、おれはまたあそこ行って今度は一人で解決するから。もしそれで失敗したら、あの世で西野に謝るわ、許してもらえるようなことじゃねぇけどさ」

「そ、そんなことしたって無意味です。自殺するようなものです。本当に、もう関わらないほうが――」

 西野がまたそんなことを言おうとしたので、その言葉を遮るようにおれは続ける。

「だって、仮にだぜ?なんでおれのことで西野が死んで、おれが逃げるのよ。突っ込むしかないだろ普通。西野が死んだら、おれぜってー呪われにいくからな」

 ここで西野の肩をぎゅっと掴む。西野は、今度は少し驚いた顔でおれを見つめた。

「ほ、本気でそんなことを言っているのですか?」

「当たり前だろ、わけわかんねぇよ。関わらないとかそんな選択肢存在しないだろ。おれが原因だぞ」

「そんな、市井くん――」

 西野はそんなおれの言葉に、驚いたような。呆れたような――そんな表情を浮かべた。

「そんなことを、本気の本気で思っているのですか?命は大切にしてください。でも――嘘でも嬉しいです、ありがとう御座います」

「嘘じゃねぇって。命は大切だけど、なんでおれが変なことに巻き込んで、おれが部外者なのよ。マジでなんかあるなら言ってよ、役に立つかどうかは別としてさ」

 おれがそう強めに言うと、西野は少し悲しそうな笑顔を浮かべてから、ゆっくりとうんうんと頷いた。その頷きの意味はさっぱりわからないけど、何か――自分の中の何かを消化しているような感じだった。

「では、何かお手伝いして欲しいことがあれば――お願いするかもです」

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