やれ調書だうんだらと警察での処理が終わったのは、すでに夜の八時過ぎだった。今回、過剰防衛にはならないと踏んでいたけど、警察はとりあえず今日は帰すだけで、また次の呼び出しまでには決めるそうだ。呼び出しに応じなかったら、即拘束すると軽く脅されもした。

 五人の内、阿久津を含む三人は入院するらしい。どんな理由があれど、それほどの暴力を見過ごすことはできないらしく、処遇にすぐには決められないと言われた。

 そんな馬鹿な話あるかってんだよ、武器をもって学校の敷地に侵入してきて、脅して恐喝して、しかもブルプラのメンバーなのに。マジでまっとうな正当防衛だ。あのままあいつらのいいなりになってたら、どんなことになっていたかわかってねぇよマジで。

 迎えに来たのは親父だったけど、親父はおれを警察から出すだけ出すと、ほとんど話しもしないで、理由も聞かないまま――呆れた表情で「いい加減にしろ」とだけ言ってまたどっかに車で消えて行った。

 おれもそれについては何も言えないし、言わない。

 おれは――兄貴と違って出来の悪い息子だ。親父のその気持ちはわかる。心の奥底では、死んだのがおれならよかったのにと思っているかもしれない。

 そして親父は酷く疲れ、やつれていた。無理もないよな、優秀な兄貴が狂ったように峠で車の速度を出しすぎて彼女ごと死に、生き残ったおれはこうして警察のごやっかいだ――。

 それに、彼女の親からもかなり攻められているらしい。おれには詳しく教えてくれないけど、慰謝料を請求されたり、責任をどうするかとずっと話し合っているとママンがぼやいていた。飲酒や自殺の疑いがある以上、車の保険もおりるのか、おりないのかもまだ揉めていると言っていた。、

 そう――兄貴は死んだんだ。それだけは間違いなく事実なのに、涙は出ない。

 警察署まではバイクで来ることを許してくれたので、亮介がどうなったのか、メールでもしようとケータイを取りだした瞬間、ケータイが鳴ってびっくりした。こういうのなんていうんだっけ。

 着信画面は「西野」と出ている。すぐに通話ボタンを押して耳に当てる。

「おうどうした、なんかあったか」

「――…」

 電話の向こうでは微かな物音だけ。なんだろう――この音は――。

「西野――?」

「――…」

「おい、西野、お前――」

「――…」

 西野は応答しない――。もう喋るのを止めて、物音に耳を澄ます。ケータイを当てていない左耳を塞ぎ、雑踏の音を遮断する。

 ぴちょん――。水が滴る音。

 そして、微かに何か――が移動しているような音。

 なん――。おれがそう思った瞬間、いきなりがさがさがさと雑音のような音が大きく聞こえて、電話は切れた。

「マジかよッ」

 くっそ。再び西野にリダイアルをするけど、今度は電話に出ない。これぜってーなんかあった奴だ。マジかよ。んだよ、マジかよ。あいつ何やってんだよ。

 亮介がどうなったのか警察は教えてくれなかったけど、とりあえず亮介に「どうなった?悪いけど先におれは今帰る」とメールをする。

「あの眼鏡の電話番号聞いときゃよかったなッ」

 おれはそうぼやくようにかなり強めに呟くと、とりあえずここから近い西野の家に向かうことにした。家に居なければ――ラバーベイサイドだ。

 覚悟を決めるしかない。おれの結論は簡単。西野が、家に居れば一番良い。そして、ラバーサイドに居ないのであれば――なんでもいい。その二択を、これから潰せばいい、それだけの話だ。


 西野の家に到着すると、すぐにピンポンを連打した。家の電気はついていない。多分、外れだろう。西野は間違いなく家にはいないとは思うけど、一応何度も確認はする。

 ベランダ側に回ったりもしたけど、カーテンが閉まっていて中を覗うことはできなかった。

「西野ッ」

 ピンポンは止めてドアをごんごんと叩く。当然、何の反応もない。脳裏に西野の言葉がよぎる。

『危なくないと言えば嘘になります。この前みたいに気絶することはあるとは思います。でもとりあえずは死にはしないと思います』

 死には「しないと思います」。思いますってなんだ。それ死ぬかもしれねぇってことなのか。

 ラバーベイサイドには――絶対に来てはいけないと言われている。だけど、西野に今この瞬間、何かが起こっているのなら、おれは呪いでもなんでも受ける覚悟で、ラバーベイサイドに行かなきゃならない。

 あの子は巻き込まれただけだ。ここで行かないなんていう選択肢は、最初っから存在しない。

「ちょっと、何。うるさいんだけど」

 がちゃりと、西野の部屋の隣のドアが開いた。ドアチェーン越しに、眠そうなOLっぽいお姉さんが明らかに迷惑そうな顔でおれを見ている。

「あ、あの。ここに住んでる女の子――見てないっすか」

「はぁ?」

「いえ、ここに自分と同い年くらいの若い子が住んでるんですけど、今日とか見てないっすか?」

 おれがそう言うと、お姉さんは少し考える表情を浮かべた。それから、うーんと唸って、ぼそりと口を開いた。

「私、そこに住んでる子みたことないんだよね。女の子なんだ。時間帯合わないのかな、あんまり生活感もないし。今日っていうか、見たことないよ。物音も全然しないし」

「そ、そうっすか」

 西野は普段静かに生活をしているのか、家からあんまり出ないのか――認識されていなかった。

「とりあえず、うるさいから勘弁してくんない?そんなどんどんして出ないなら、居ないってことでしょ?何、彼女?喧嘩でもしたの?」

「いえ、そういうんじゃないっす、失礼します」

 おれはそう言って西野の家から離れ、再び西野に電話をしてみるけど、電話は鳴るだけで出ない。亮介から「先に帰った、明日学校で。花ちゃんの話は必ず聞くこと」とメールが入っていた。

 花ちゃんか、悪ぃ、今そんなこと考えられない。素早く愛車に跨がると、キック一発でエンジンをかける。

「ふ――」

 それから、深く深呼吸をした。喧嘩する時以上に心臓がばっくんばっくんと内側から強く叩く。握るアクセルグリップは汗でぬるぬるだ。認めざるを得ない、柄にもなく――緊張をしている。

 死ぬのが怖いのか時鷹――。いや、そういうことじゃない、あの場所に戻ることを、身体が拒否しているような感覚だった。気持ちではない、身体が。身体が全力でおれをこの場所に留めようとしてる。行くなと訴えかけている。

 この悪寒――というよりも、背筋がざわつくような――ただただ感じる嫌な予感。そうだ、兄貴が死んだ日もこんな嫌な予感があったような気がする。

 こりゃあ、どうやらマジでやべぇ。マジで腹括ってかねぇとやべぇ奴だ。呪いなんてマジであんの?とか思っていたけど、こりゃあマジであるな。マジで生き死にかかってるかもしれねぇな。

 でもさ、だからって――マジやべぇからって、死ぬかもしれないってからってさ。行かねぇってわけにはいかねぇってのが――男のつらいとこだよな。


 ラバーベイサイドに到着すると、有無も言わずにフロントをくぐり抜けた。ばばぁが立ち上がって何かを言ったけど、すぐに出てきますからと笑顔で対応すると、ばばぁはふごふご、あるいはむにゅむにゅとと口を動かしながら再び座った。さすがばばぁだ、そうだよな、面倒ごとはごめんだよな。なぁに、おれだって四○九号室に西野が居なかったら即退散する。無駄に呪われるわけにもいかねぇしな。

 エレベーターを四階で降りると同時に、西野のケータイを慣らす。しんとした廊下に、無機質な着信音が遠くで響いた。

 ――ビンゴだ。再び深く深呼吸をする。最悪、西野だけ速攻で回収できれば呪わない方がいい。エリナがおれを呪うのにどれくらいの時間が必要なんだろう。部屋に入る、西野を回収する――。場所にもよるけど、マジでやれば三十秒で済む。

 エリカよ、そんな短時間でおれを呪うことができるか?この霊感ナシ男くんを。これは小さな勝負、いや――結構でかい勝負か。まぁいい、最悪、呪われたっていい。

 鳴り続ける着信音。その出所である四○九号室に到着すると、ゆっくりとドアノブに手をかけた。ここがオンボロホテルでよかったなぁって思うのは、オートロックじゃないところだ。鍵を掛けてさえいなければ、このまま入れる。

 まぁ最悪鍵が掛かっていても、あのばばぁにお願いするだけだ。ここに西野が一人で入ったことはさすがにあのばばぁでも覚えているだろう。待ち合わせだって言うしかない。彼女が寝ちゃったっていうしかない。まぁ――一人ならな。うん、一人だと信じたい。変な協力者とか――居ないよな?

 ドアノブを回す。鍵は掛かっていない。ゆっくりとドアを開くと、廊下が続いている。ぞわりと、背筋に何かが走った。駄目だ、ここは駄目だと身体が告げている。

「西野ッ」

 そのまま勢いで突入する。部屋まで行くと、西野がソファーでぐったりと気絶していた。軽く痙攣し、口元からは泡のような涎が垂れている。

「くっそ、マジかよ。大丈夫かよ――」

 西野の赤いバッグにケータイを放り込み、バッグを腕にかけ、そのままお姫様だっこで持ち上げる。行ける、このまま逃げ切る。

 そのまま廊下へと向かい、部屋を出ようと足を進めた時、おれはやってしまった。

 廊下の先、玄関には――身支度を確認する為の鏡が設置されていた。

 それを――意識せず、ふと見てしまった――。

 そして、西野を抱えるおれの少し後ろ、浴室のドアの前に体育座りをする――。

 ぼろぼろの服とも呼べないようなものを着る――髪の長い少女を――見て――しまった――。

「うぐッ!」

 その瞬間、強烈な腐敗臭に思わず顔をしかめる。今まで嗅いだことのないようなとてもつもない肉の腐った臭い。真夏に小動物が車に轢かれて死んで、放置した死体を、内臓ごと鼻の奥にぶち込まれたような腐敗臭。

「くそッ――」

 そして、身体が動かなくなった。振り返ることもできない。目を閉じることさえもできない。びしりと身体が固定されたように、なんにも動かない。

「くそぉぉぉぉッ!動けッ!くそッ!」

 自分の声が出ているのかどうかすらもわからない、ただ、この場所に磔にされているだけ。

「くそぉぉぉやべぇ、マジやべぇぞこれッ」

 おれの後ろで体育座りをする髪の長い少女は、ゆっくりと、立ち上がる。

 髪が垂れてその表情は見えないけど、腕は茶色く変色し、首、肩や足、肘に至るまで、雑に縫合されたような――。とにかく――ばらばらの腐った死体を無理矢理に繋げたような――。

 髪は濡れてはいるけど、綺麗じゃない。ただ濡らして何日間も放置したような。艶は一切無い。

「てめぇエリナかッ!呪うならおれを呪え馬鹿ッ!西野はもうやめてやってくれッ!あとてめぇッおれの兄貴殺しやがっただろッ!おれのがこの子より因縁深いんだぞッ!」

 おれの叫びが届いているのか届いていないのか、エリナらしき女の子はゆっくりと近づいてくるだけ。そして、遂にはおれの真後ろに立ち、鏡ではその姿が確認できなくなる。

「くっそ、マジで勘弁しろッ!この子は関係ないんだッ!この子だけは勘弁してやってくれねぇかッ!」

 おれがそう願いにも似た言葉を口にすると、西野を抱える頭側の二の腕付近をぎゅうと掴まれた。咄嗟にその場所を見る。動いた――そう思った瞬間だった。

『だめ』

 聞いた事のない、くぐもっているけど、女の子の声――。

 その声を聞くと同時に、おれの二の腕を掴むエリナと目が合った。

『――…をさがしてぇぇぇ』

 エリナは、笑っていた。

 鼻は半分とれているように削れていた。

 口は片方だけ大きく裂けていた。

 額には大きな傷があり、乾いた血の奧、黄色い脂肪と――頭蓋骨らしきものが少しだけ見えていた。

 だけど――おれが産まれて初めて純粋な恐怖で固まってしまったのは、そんな死体じみたスプラッター的な要素じゃない。

 今でも、何度でも。思い出すだけで恐怖を感じる。

 大きく見開いたエリナの目は、黒目しかなかった。

 そう、それはこの世のものではなかった。

 その黒目しかない瞳には、怒りや憎悪、後悔、嘆き、すべての負の感情が混ざっているようだった。

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