■04: 記憶の方舟(3)
――式典当日。
緊張した面持ちのアネット。宿から出ていまに至るまでに頻繁にハンカチで手を拭いている。薄っすらと額にも汗が滲み、目も潤んでいる。
普段の仕事に比べれば命の危険はないものの、衆目のある場所での任務。その内容がほとんど立っているだけだとしても、経験の浅い彼女にとっては想像以上の不安や責任感、重圧を感じさせるものだった。前日の巡回で予行演習と下見を行ってはいるが、それが却って任務の現実感をアネットに飲み込ませていた。
さしものウルリカも明らかに緊張しているアネットの様子を見かねて、彼女の肩を叩いた。
アネットは跳び上がり震えた声をあげる。
「ひゃいっ、な、なにっ、どうかしましたか」
「もうすぐ本番の時間です。今日はよろしく頼みますね」
「は、はい、こちらこそお願いします。何事もなければいいんですが」
「ええ、何も起こらないのが普通です。とはいえ何事にも備えは必要。そのためのわたしたち。もっとも、わたしたちが必要になった段階ではもう手遅れに近い状況ですけれど」
「はい……」
「心配しなくても大丈夫です。わたしたちはわたしたちの仕事をすればいいだけですので。なに、昨日と同じです。さすがに買い食いはしちゃいけませんが。……いまならまだ何か飲み食いできますよ。お水がいいでしょうか」
ポーチから金属製の平たい小型水筒を取り出し、キャップを外してからアネットに差し出す。
「えっと、ソレ、お酒入れるやつですよね?」
「安心してください。入っているのは、ただの水ですから」
恐る恐る口をつける。すぐにごくごくと、音を立てて飲み干した。
「落ち着きましたか。これもどうぞ」
飴玉も手渡す。
「ありがとう、ございます。あ、でも、コレ全部飲んじゃって」
「構いませんよ。あなたの様子が朝からおかしかったので、あなたのために用意したものですから」
「そんな」
「本当はお酒を入れておく予定でしたが」小声で付け足す。
はは、と疲れたような、力が抜けたように口元を緩めるアネット。
「気を張りすぎるなとか、休まず真面目に真剣にやりなさいとかは言いません。でも、何も言わずに倒れるとかはやめてください。倒れたあなたを甲斐甲斐しく介抱するほどわたしは優しくありませんので」
アネットの襟を整えてあげるウルリカ。
「調子がよくないのなら休むのもいい選択です。選択肢というよりは休むべきですかね。休むべき時に休まないのは仕事をサボること以上に怠慢なことだと思います」
「すみません」
「仕事なんて、極端なことを言えば外から見て、やっているように見えればいいんですよ。今日なんてお行儀よくニコニコしてればいいんです。そういった意味ではあなたは何もしなくても構わないのですが――」
その言葉にアネットは目を伏せる。それを見て弁解するようにウルリカの声が少し高くなる。
「あ、邪魔だから何もするなってことではないですよ。あなたはそのままで可愛いですし、『聖女』っぽいってことです、はい」
「そんな……」
「無責任な物言いになってしまいますが、あなたは十分『聖女』ですよ。わたしよりもずっと」
可憐で健気な少女という大衆の求める「聖女」像の一つをアネットは満たしている。このような少女が異形の怪物と戦う使命を背負わされている、というのはわかりやすい物語になる。そしてその結末は悲劇が約束されている。
アネットはその役割に苦労もなく殉じることができる人物だと、ウルリカはここ数日で評価した。ある意味では才能があると言い換えできる。そうした〝才能〟のある人物が躓くのはウルリカにとっても気分のよいことではない。たとえ、それが憐憫の情を含んだものであったとしても。
小さく呼吸を整え、自分にも言い聞かせるように言う。
「でも、まあ少し気を引き締めていきましょう、ほどほどに」
「やっぱり、お姉さまだ……」アネットは周囲に聞こえないほど小さく噛みしめるように呟いた。
――――。
式典は不備なく進み、その間ウルリカとアネットは決められた巡回エリアを見回った。街の様子も目立った異常はないように見受けられる。
終戦記念式典が行われている間はつかの間の静けさがあったが、式典終盤あたりから街の賑わいが戻りつつある。今晩からが祭りのある意味での本番。市民や観光客の多くにとって、百年前の戦争は遠い歴史の物語にすぎない。自分がその時代には生きていない以上、百年前も千年前も見知らぬ過去の出来事という点で大差ない。こうした記念日に正体不明の感傷や郷愁に浸り、自分自身や世界について考えを巡らせる一つの都合の合う機会程度の認識。
もう一、二時間もすれば任務は終わる。ウルリカも内心では今夜のことに意識を泳がせている。
さすがに任務中は、先輩の「聖女」であろうといつも以上に気を張っていた。
ウルリカは人前で〝いいひと〟でいるのには慣れていた。生まれるよりも前からそうだった気さえする。それでも、慣れているだけで、疲れるものは疲れる。街を歩き回り、市民たちは自分たちのことを大して気にもかけていないのだとしても、自分が「聖女」としてここにいる以上はそのように振る舞わなければならない。自分の隣にイメージ通りの可愛い「聖女」がいるとなればなおのこと。
もっとも前日までの行いは理想の聖女とは言い難いが、多少の奔放さやお転婆さも少女らしさの演出の一つ。
小広場の向かいに建つ仕掛け時計を見る。もうすぐ二時。この時計は実際の時刻よりも何分か遅れた時刻を指していた。毎日朝には調整されるが、昼過ぎには誰もが遅れているとわかるほどズレが大きくなる、このブロックのちょっとした名物時計。
広場にいる人々の多くが時計の仕掛けが動くのをジィと待っている。そのとき。
全身を揺さぶる音と地響き。
それとほぼ同時に雷鳴にも似た音が耳を貫く。
反射的に両手で耳を塞ぐアネット。
ウルリカは即座に音の方角を確かめた。土煙が上がっている。構造物の崩落によるもの、それも爆発物によるものだと判断。異常事態。
思わず舌打ち。
「モニターへ。何があっ――」
指令部へ呼びかけようとすると、通信機に強制連絡が入った。
『緊急事態発生。緊急事態発生。緊急事態発生。こちらモニター。南西部隔離壁が破壊され、対象Tが侵入。即応待機班が現場に急行中。現刻を以て制限を解除。各員は再武装し対象の排除行動に移れ。なお、爆破犯および工作員の存在が確認されているが、対象の対処に専念せよ。協定により対人戦闘は許可されない。繰り返す……』
「ど、どうしよう……」
「あなたは早くキャンプに向かいなさい。街にケモノが浸透する前に神器を」
「ウルリカさんは?」
そこへ地面を突き破ってケモノが跳び出してきた。足のないワーム型のケモノ。大きな口と鋭い牙。
「な――」
アネットが声をあげるよりも先に、ウルリカはケモノへ一瞬のうちに詰め、貫手を打ち込んだ。
叫びをあげるようにのたうつケモノ。
「先輩!」
「いいから早くなさい!」
アネットが走っていくのを見届け、ケモノから腕を引き抜く。手には心臓と思しき臓器。ザラメ糖のような細かな結晶が疎らに表面に張りついている。
大量の血が降りかかるが、それにもかかわらずウルリカの手も服も一切汚れていない。まるで彼女を避けたかのように。
「こちらエクリプセ1。ポイントRN5‐1にて対象の地中からの侵入を確認」無線で連絡を入れる。
周囲に残っていた人間たちは、素手でケモノの心臓を抉り出したウルリカを恐怖の籠った目で見ていた。その異様さと残酷さ、凄惨さから目を逸らすこともできずに。
彼らの想像よりもウルリカという「聖女」はずっと人間離れしていた。
神器という超常の遺物が「聖女」の本質で、武器がなければ暴力装置として機能しないと彼らは考えていたのだろう。ましてや見た目一〇代後半の少女がバケモノを素手で殺せるなど思いもしないことだ。武器を取り上げてしまえば、自分たちと大差ない存在だと思っていた。
神器がなければ、神器兵は身体能力の高い人間でしかないのは事実だ。しかし、何事にも特別は存在する。「聖女」は本人の固有異能と神器から成る複合兵器で、異能によってはそれだけで〝兵器〟として成立する者もいる。上級の「聖女」はそういったハズレ値を多く含んでいる。
「いまのところは一体だけですか……、でも時間の問題でしょうね」手元の心臓に目を移す。「にしても妙ですね、これ」
結晶の形成と質に違和感。
ウルリカは首を捻ったがすぐにケモノの心臓を無造作に放り捨て、辺りを見回すとツカツカと屋台の方へ歩いていった。
串つきワッフルを提供する屋台。呆然と立ち尽くす店員に声をかける。
「お姉さん、早く逃げたほうがいいですよ。避難場所はわかりますよね。でも、まだお店をやってくれるというのでしたら、これをくださいな」
店員の女性は、怯えながらもウルリカに商品を手渡し、代金はいらないと言い残し、避難していった。
「これでは巻き上げたみたいでイヤね」
そう言いながらもワッフルを口に運び、紙幣を屋台のテーブルの上に飛ばないように石で押さえて置き残した。
もぐもぐと咀嚼しながらも、周囲の様子を探るように耳を澄ます。
ふいに銃声。警備隊の装備とは異なる銃によるもの。この場には本来であれば存在しない奇妙な銃声。
その音の方向へウルリカは視線を動かした。彼女から見て左側、額の上に親指ほどの大きさの弾丸が浮かんでいた。ゆっくりと、浮かぶ弾丸に顔の正面を向ける。その間にもそれは旋転を続けている。
弾丸を指で弾く。
瞬間、弾頭は爆ぜ、破片が散弾のようにばら撒かれた。
硬質侵徹体と貫通能力を持つ破片、焼夷破片がウルリカを襲う。炸裂焼夷弾、あるいは徹甲焼夷榴弾による狙撃。基本的に対人用途では使われない弾薬。「学校」でも類似の火器が運用されており、軽装甲目標や〝資材の処理〟に使われている。
爆ぜる弾による銃撃を受けたウルリカは少し驚いたような様子を見せるだけで、傷はおろか煤で汚れることもなくその場に立っていた。
弾丸の飛んできた方向へ目を凝らし、素早く狙撃に適した場所を確認していく。開け放たれた窓と暗い室内に目が留まる。ウルリカの目は狙撃犯を捉えた。
「エクリプセ1、狙撃された。大口径の炸裂焼夷。WJのホテル最上階。やりましょうか?」
『それは許可できない』
『こちらドミノ3。何者かに狙撃を受けました。損害一。応援を要請します。敵の狙いは――。ほら、いい加減離れて。泣くのをやめなさい。……すみません、敵の狙いは我々のようです』
いくつかの班から被害が報告されていく。
『モニターより各員。所属部隊が敵性部隊と接触。ポイントを放棄、集結せよ。なお、協定により対人戦闘は許可できない』
「了解。神は我らと共に。――はぁ」溜息。「壁は壊され、ケモノが突然湧いてきたり、おまけに狙撃ですか。まったくどうしたことでしょうか」
ブツブツとぼやきながら、さきのケモノが跳び出してきた穴に近づき、覗き込んだ。
「それにしても、下からか。いくら地面を潜ってきたからといっても警戒網の目も掻い潜れるとは思えませんが。壁の基礎部分もあるでしょうし――。空間がある……。地下道、いや下水か」
降りる気にはならない。ケモノの出処は気になるが、調査は自分の仕事ではない。
周囲に妙な気配を感じる。気付けば無線も沈黙している。
「まあ、そうなりますよね」
両手を上げ、ゆっくりと振り返る。
拘束され涙目のアネット、四人の武装した人間が視界に入る。四人以外にも広場を取り囲むように何人かの襲撃者たち。
フルフェイスのヘルメットと腕や脚までカバーされた全身耐弾装備、自動小銃や散弾銃。市内の警備員よりも攻撃的な装備。
大人しく投降し指示に従えと言わんばかりに、筒先がウルリカへと向いている。
ウルリカは両手を上げたまま両膝を突き、受け入れる姿勢を見せた。
襲撃者たちの二人が彼女に近寄る。片方が手を後ろ手に縛り、それが済むと彼女を立たせた。もう一人は腕を伸ばしても手の届かない距離でウルリカへ意識を割いた待機姿勢。あっさり投降の意を見せたウルリカを警戒してか、慎重かつ念入りな動き。
男たちがウルリカに進むように促すと、
「あまり乱暴にはしないようにお願いしますね」掴みどころのない調子で、ウルリカは言った。
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