■03: おおかみさんとかためのかりびとさん(1)

――一〇五三年四月。


 朝の四時過ぎ。

 ウルリカは目を覚ました。

 眠りにつく前に見た時計の時刻は一時四〇分を回った頃だと覚えている。

 隣で涎を垂らしながら寝ているリルを起こさないように、ベッドから抜け出る。


 上級神器兵用の寮室は一人部屋でそれなりに広いが、ウルリカはリルと一緒に住んでいた。

 ベッドルームとリビングダイニングは分かれており、バスルームにはバスタブもある。一人で住むには広すぎるし、二人で住むには微妙に手狭といったサイズ感。

 ウルリカの私物、特に画材や服が多いために狭く感じるとリルは訴えるが、ウルリカにしてみればリルの本やカメラ、空き瓶のコレクションもなかなかに部屋を圧迫している。もっともカメラは二人の共通財産でもあるし、空き瓶のほとんどはウルリカが消費したものだ。服に関してもウルリカが管理しているだけで、三割ほどは勝手にウルリカが買ったリル用のものだった。

 どっちもどっち。一緒に住むと相手の粗や意外な一面を探して茶化しがちだ。


 左胸の古い傷と真新しい皮下出血痕とを指でなぞりながら、リビングへ。

 デスクチェアの背に引っかけられた黒いキャミソールを着、紺色のフーディーを羽織り、「禁煙」とラベルの貼られたブリキの角缶から煙草のパッケージを取り出す。二人の取り決めで寮室内では煙草は吸わないことになっている。パックとマッチをポケットに突っ込み、外用サンダルを履き、寮室を後にした。


 気持ちのよい朝というには少し早い時間。「学校」の宿舎や講義棟エリアはまだ眠っている。この時間帯に散歩をするのがウルリカの日課。

 宿舎エリアの端。木々に囲まれた場所にある小祠の周りを軽く掃除し、自生している花を摘んで供える。ウルリカに篤い信仰心はないが、自分でもよくわからない義務感に駆られほとんど毎日行っていることだった。

 似たような光景と行動は〝夢〟の中で見たことがある。「学校」のように周囲を木で囲まれた場所。石造りの門のような構造物や大きな鈴、大きな縄、犬や狐の像のある場所で、同じように祠や建物の清掃やお祈り、儀式のようなことをしている夢。

 正直、あまり気分のよい夢ではない、とウルリカは思っている。けれど、おそらく自分にとって、ある意味ではとても大事なものなのだろうとも。



 掃除と質素なお供えを終えると、一服し、寮室に戻る。

 部屋に戻ったあとは、再びベッドに入り眠ることにしている。

 大抵はリルはまだ眠っていてウルリカがベッドに出入りしても、薄っすらと残る噛み痕を触っても起きることは少ない。

 予定がない限り、リルは昼前まで寝ていることが多かった。ウルリカにしてみれば、彼女がここまでだらしない人物だとは考えておらず、多少の苛立ちすら覚えることもある。しかし彼女の無防備な姿を独り占めできると思えば、優越感で紛れるというものだった。

 ウルリカはリルがまだ眠っていることを確認すると一度リビングに戻り、カメラを持ってきた。フィルム式、左配置の巻き上げレバー、ウエストレベルファインダー。

 リルの寝姿を撮る。

 カメラをリビングに置いてから、何食わぬ顔でベッドへ。

 横になるや否や、微睡み始めるウルリカ。

 さすがの彼女も昨日の疲れが残っている様子。




   ◆


 同日十一時。

 リルはバスタオルを引き摺りながら、リビングへ入ってきた。シャワーを浴びるために。まだ少し眠そうで気怠げな様子。

 リビングではウルリカが目玉焼きをつついている。

 テーブルの上には、目玉焼き、ハム、パンの乗った皿と紅茶入りのマグカップ。カメラ、何日か前の新聞。


「おはよう、お嬢サマ」一瞬ウルリカを見るがすぐに彼女の背後の窓に視線を向け、言った。

 その様子を見て、ウルリカは後ろを見る。何事もないことを確認し、向き直る。


「うん、おはよう。寝ぼすけさん」


 リルがバスルームへ向かおうと、顔を背けた次の瞬間。

 カシリと小さくシャッター音。


「ちょっと、裸は撮らないでよ」


「写真屋さんのおじさまに、綺麗に撮れるコツを教えてもらいましたので。それにもう少しでフィルムが終わりそうですし」


「だからってわたしをさ」


「わたしが何を撮ろうと勝手でしょう?」


「それはそうだけど、わたしを撮って楽しいの?」


「リルだってわたしを撮るじゃないですか。楽しいんですか?」


「それは、あんたはムカつくけど、顔とか身体はいいし……」


「同じですよ」


「それさ、本気で言ってるの? 揶揄ってるの?」


「両方」


「ホントにさぁ」溜息。


「シャワー終わったら、外出申請とお昼食べに行きましょう」カメラを置きながら。


「え、いま食べてるよね」


「これは今日一食目なので、朝ご飯です」


「いつも思うけど、その理屈は変」


「変じゃないですよ」


「ま、よくわからないよ」


 バスルームへ消えるリル。


「そう、わからないんですよ」


 ハムを丸め、フォークで刺し、口に運ぶ。


「お休みの日なんだから、少しは見てくれてもいいのに……。さて、ちょっと急ぎますか」


 手早く残りの卵とパンを食べ、紅茶も飲み干す。目玉焼きも紅茶も冷めきってしまっていた。




   ◆


 二日後。

 朝、九時一〇分。

 ウルリカとリルは、「学校」を囲む森の道を進んでいた。

 「学校」と外部との行き来するには、六つの道がある。南、西の二ヶ所のメイン路、東のサブ。北東、南東、西南に位置する小門。

 北東側のゲートは宿舎や教育部門から離れており、道幅も狭く普通車両がすれ違えないため、あまり使われていない。また「聖女」に限っていえば、商業区から遠い道であるため積極的に選ぶ理由もない。ともすれば鬱蒼と表現できる林道は街灯もなく、怪談の舞台にされ、年に何回か夜に肝試しと称してここを訪れる聖女がいるほどだ。



 二人、街への外出用の装い。


 ウルリカの服装――黒い厚手のプルオーバーシャツ、灰緑色の細身のカーゴパンツ、起毛革のブーツ。髪を一つにまとめ、軍用品メーカーの一般アパレル部門のロゴ入りキャップ、薄い色のサングラス。小さめのスリングバッグを胸の前に回し、首からカメラを提げている。高めの背と服装の傾向はどちらかというと男性的な印象だが、それが却って女性的なシルエットを強調。


 リルの服装――緑色ベースのチェック柄のワンピース、炭色のニットジャケット、マスタードカラーのタイツ、ローヒール。クロノグラフ付き機械式腕時計。小柄なロールトップのリュックサック。革製の眼帯。時計とリュックサック以外はウルリカのチョイス。リルはファッションにさほどこだわりがない、自分が着飾るとなるとなおのこと。



 余所行きの服装の二人は外見上の年齢一〇代後半から二〇代頭の女性と変わりなく見えるだろう。


 木々の隙間から差し込む陽が、二人の背を温める。

 葉音と二つの足音。会話もなく、急ぐわけでも、お手軽森林浴を楽しむでもなく。

 一〇分ほどで、木々で囲まれた道を抜け、ゲートに到着。

 鋳鉄の門扉に、二メートル以上ある石造りの門柱と金属柵。門の内外に監視カメラ。

 守衛室には壮年の男性と青年の男性の二人。


「おはようございます」


「おはようございます。外出ですか」


 壮年の守衛が応対。


「ええ」


「では許可証とID、携帯端末を」


 書類とIDカード、端末を窓口に渡す。


「はい、確かに」


 外出申請の照会。

 端末は緊急時の連絡用で、「学校」とのやりとりにしか使えないもの。外出時に携帯が義務づけられており、おおまかな位置情報を定期的に送信するある種の首輪でもある。


「A49021‐A……リルさんが今日と明日の外出。A49004‐W……ウルリカさんが今日と明日の外出で外泊予定と。間違いないですかな」


「はい」二人は頷く。


「IDと端末をお返しします。お次は持ち物を確かめさせてもらいたいところですが、お二人なら必要ありませんね」


「あら、このフィルムとかカメラとか、結構怪しいと思いませんか? 外部の人に見せたらいけないものとか映ってるかもしれませんよ」


 何度も顔を合わせたことのある守衛からの検査省略という形の特別扱いを嫌うように鞄の中身を広げて見せるウルリカ。


「それに持ち物検査だけでいいの――むぐ」


 リルがウルリカの口を手で塞いだ。


「こら、やめろやめろ」


「で、本当に映っているのですか?」守衛、苦笑いしながら。


「いえ、でもこの子の裸は映ってるかもしれませんねぇ。差し上げましょうか」


「ははは、御冗談を。あなたはすぐ人を揶揄いますからな。では、よい一日を」


 ブザーが鳴り、ゲートのロックが外れた。


「ええ、よい一日を」


 二人は守衛に一言返し、門扉を開いた。

 扉は閉じると、自動で再び施錠される。



「さっきの子たちも『聖女』なんですか? 何度見てもただの女の子にしか見えないですよ。全然強そうには思えない」ゲートを潜った二人の背を見ながら、若い守衛が言った。


「あの子らが普通の女の子だと? バカ言え。あの子らはこの街で最も優れた神器兵のうちの二人だよ。――お前さんは戦っているところを見たことないんだったな。今度暇があったら訓練か戦闘記録を見てみるといい。見る目が変わるぞ」


「はあ、そういうもんですか」実感も想像もつかないといった様子。



 北東ゲートの先は、もうしばらく林の道が続く。

 森を抜けると、新旧の建物が混在する街並み。この近辺は古い工房や工場、倉庫が多い地区。

 リルとウルリカは、古び、蔦の這う商店へ。朝早くから開いている個人経営の店。

 ドアを開けると、ドアベルがカラカラと鳴った。店主はそれには目もくれず、なにやらラジオと思われる機械の修理をしている様子。

 ウルリカは入店するなり、スタスタとカウンターまで歩き、店主に言った。


「おはようございます。いつものを二つとお電話を貸してくださいな」


 老いた髭面の店主は、彼女を一瞥し煙草とマッチ箱を帳場の机に置いた。

 クリーム色の背景に鳥のイラストのパッケージの煙草。「学校」の近くでは、この寂しい個人商店でしか取り扱っていない。商業区でも手に入るが、店主の孫娘が「学校」のカフェで働いているため、頼めば〝配達〟してもらえるのは大きな利点でもあった。それに、店主が寡黙であれこれ詮索しないし、店主からの呼びかけも「お客さん」や「お嬢さん」という言葉のため、ウルリカ目線ではポイントが高かった。ここでは、ただの一人の客にすぎない。それが心地よく思えた。


 煙草と電話、チップ分のお金を出し、ダイヤルを回しながらパックを鞄に収める。

 煙草を二箱買い、電話を借りる。それが予定が決まっているときのウルリカの外出時の行動。


「ごきげんよう、わたしです。今晩どうでしょうか」


 通話中、リルは手持ち無沙汰。

 何か買いたいものがあるわけでもない。初めから店に入らなければよかったな、といつもドアを潜ってから思うばかり。ついウルリカの後をついていってしまうから、こうなる。しかし、店に入らずウルリカの用事が済むのを待つのも、その時間を持て余すことに変わりはない。

 こうしたことが何回もあり、半ばリルのお決まりのような時間の潰し方ができていた。店先の鳥籠の鳥を見ることだ。掌に乗せるには少し大きいくらいの青緑色の鳥。最近ではリルに懐いているのか警戒しているのか、彼女が現れるとジィっと見つめるようになった。

 籠に顔を寄せ、鳥の前で指を泳がせる。鳥は指を追ってトコトコと止り木を左右に行ったり来たり。


「……ええ、……ええ、それはいいですね、ふふ、……ええ、では」


 受話器を置く。


「おじいさま、明日も来ますので、取り置きをお願いします」


「ああ」店主は頷いた。


「ふふ、今日もいいお声ですね」



「終わった?」


「ええ」


 ドアを開け、外へ出るウルリカ。ついていくリル。


「予定どおり?」


「そうですね。五時に待ち合わせ。それまでは二人でお出掛けですよ、リル」


「ウルリカの行きたいところは?」


「リルは?」買ったばかりの煙草のパッケージを開封しながら。


「聞き返さないでよ。えっと写真屋さんには寄るとして……。それ以外は特にないかな。買い置きは明日でいいし。というか今日食料とか生活必需品を買っても一人で持って帰ることになるから」


「わたしもそれくらいですね。いつものようにぶらぶらしましょうか」


「いつもどおりってレストラン巡りにならない?」


「ならないように、したいです。あ、映画とかどうですか。リルの読んでた本の作者さんが脚本を担当したっていう新作があるとか、聞いたような」


「映画かぁ。わたしの読んでた本ってどのことだ」


「青い表紙の」


「ああ、あれね。よく知ってたな。小説と脚本で名前変えてる人だぞ」


「まぁ、わたしくらいになると頭のほうもカンペキなので」


「そうだね、あんたはカンペキだよ。じゃ、そのカンペキちゃんにプランは任せちゃいますか」


 取り出しかけていた煙草を戻し、手早くバッグに仕舞った。


「任せてください。ということで、一一時〇五分に上映開始なので少し急ぎましょう。映画が終わったら少し遅めのランチして、写真屋さんね」


「え? ちょ、初めから予定組んでたな」


「あなた、そうでもしないと何もしないでしょ。せいぜいわたしと別れたあと、本屋さんか楽器屋さん、カメラ屋さんに行くか。それに、わたしがいないとご飯だって食べてないんでしょう?」


 ウルリカはリルへ手を差し出した。

 それをやれやれと言った様子で取るリル。


「では、行きましょう」


 ウルリカがリルを引っ張って歩く。


「やっぱりちょっと慣れないな」


「そうですか?」


「そっちもでしょ。手汗すごいし、震えてるよ」


「今日は少し暖かくて寒いですから」


「夏でも大して汗かかないくせに」


「ふー、わかりましたよ。緊張してます。これでいいですか。意地悪ですね」


 握る手に力が入る。


「いいよいいよ。ありがとうね」


「お礼には早いですよ、まだ始まったばかりですから。それともいっぱい感謝してくれるんですか。いいです、もっと言ってください、いや言わせてみせます」

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