■01: どうか、わたしの腕の中で(3)
クラウディアは、大鋏を指揮杖のように振り回しながら、講堂の廊下を跳ねるように、踊るように進んでいく。
彼女が、進み、腕を振るたび、ケモノの命が刈り取られていった。
後には、もはや原型も留めていない赤黒い染みと白い断片が残るだけ。
「たのしい――」
楽しい、ケモノを切り刻みながら、それ以外の感情が浮かんでこなかった。
「たのしいっ!」
笑いながら、踊るように。
刺して、開いて、切り裂いて。
浴びて、喰らって、飲み干して。
たくさんの人の人生が、経験が、知識が、感情が、全部自分に染み込んでいく。
ごめんね、ルイーゼ。
わたしはやっぱり壊れてるんだ。
ルイーゼが自分に身体を許してくれるのは、自分の異能を知ったうえでのことだった。神器兵としての活動が制限されている自分に、彼女の経験を受け渡してくれているのだ。
ルイーゼが、暑くても寒くても、ハイネックのシャツをきっちり一番上のボタンまで留め、長袖のアンダーシャツまで着こんでいるのは、自分のつけた傷を隠すためだ。
自分より早く起きて身支度を済ませているのは、冷静になった自分に身体の傷を見せないためだ。
毎朝コーヒーを淹れるのは、血の匂いを消すためだ。
医務員にだって事情を説明して、ルイーゼの戦闘外の負傷の件で、自分に追及が来ないように根回ししていることも知っている。
彼女は、自分のことを優しい人だと思っていて、好意にぶら下がっていると心を痛めているようだけれど、自分に言わせれば、ルイーゼこそ優しい人なのだ。
だからこそ、そんな彼女を裏切ってしまったみたいな気がしてしまう。
その後ろめたさを振り払うように、神器を振る。
ごめん、ルイーゼ。
でも、とてもいい気分なんだ。
いまくらいは、いいよね?
楽しい。
「もっと頂戴、もっと――」
命を奪って、自分の命になっていくのが。
楽しい、楽しい、楽しい。
楽しい。
楽しい――。
――。
「あら、フリッツ君」
クラウディアの手が止まった。たったいま倒し、自分が食べたケモノの正体に、いくらかの戸惑いが湧いてくる。
フリッツ、彼は整備部門の新人スタッフで、一〇代半ばくらいの見習い技師だった。くすんだ金髪の丸眼鏡をかけた冴えない少年。クラウディアの狭い人脈の中で、親しいという部類に入る男性は数少ない。フリッツと、彼を除けば担当医務官くらいだろう。
クラウディアの〝世界〟は彼女自身が思うよりもずっと小さかった。
「あはっ」笑いが漏れた。
たぶん、自分はこの少年のことが好きだったのだろう。少なくとも、彼は自分のことを好きだった。それなら自分もそうだったのだろう。
殺戮と血に酔ったクラウディアには、もうどうだったのかもわからない。
でも、美味しかった。
見知った相手であった異形を食べたことは、クラウディアにとって大きな発見だった。
自分のことを好きな人は、美味しい?
好きな人だったから、美味しい?
愛しいから、美味しい?
いや、美味しいから、愛しい?
そういえば血も美味しいのだから、ルイーゼの肉はきっとものすごく美味しいんだろうな、と恐ろしい考えが頭を過る。
それは、いままでずっと理性で押さえつけてきた、クラウディアにとって絶対に、何があってもしてはいけないことだった。
頭を振って、心の奥底の邪悪な考えを振り払う。
いまの自分がすべきことは、構内のケモノを排除しつつ、非戦闘員の避難、護衛をすることだ。それを忘れてはいけない。何度も頭の中で反芻する。
しかし、それを嘲笑うかのように、いくつかのイメージがクラウディアの頭に浮かんだ。
たくさんの乳幼児や小さな子供たちのイメージ。
眠る子供たち、歌う子供たち、遊具で遊ぶ子供たち。
笑顔の子供たち。
炎。
この光景は夢で見たことがある。
わたしの――
「へぇ、あなた、面白いね」
背後からかけられた声に、振り返る。
黒のパーティードレスの少女が立っていた。場違いな装い。
〝学校〟は避難場所にも指定されており、民間人が構内にいることはありうる。
しかし、この少女はあまりにも不自然だった。あまりにも小綺麗すぎるうえ、この寒空にしては軽装だ。
それに、血肉の海と、そのただ中に血塗れで佇むクラウディアを見て、「面白い」などと平然と言い放てる人間が果たして存在するだろうか。
「あなた、何? 変な気配」
正体こそ掴めないが、目の前の少女の形をした存在が〝よくないもの〟であることは、冷静さを欠きつつあるクラウディアにもすぐに察知できた。
「そんなこと訊かれたら、こう答えるしかないわ」淡々とした口調と、満面の笑み。「わたしたちはたくさんい――」
言い終わる前に、クラウディアは地面を蹴った。
胸を狙った一突き。
しかし、それが肉を裂くことはなかった。
眼前から忽然と消えた黒い少女を探して辺りを見回す。
「ふふ、あなたに、あなたがしたいことをさせてあげる」
瞬きの間で、クラウディアの前に姿を現した少女が、クラウディアの胸をトンと指で突いた。
「っ」
ガランと音を立てて、大鋏が地面に落ちる。クラウディアは膝を突くと、声にならない呻きをあげ始めた。
「おいキミ、大丈夫か」
武装した警備員二人が、うずくまるクラウディアを見つけ、声をかけた。
周囲の惨状から、戦闘による消耗で行動不能に陥ったと判断したのだろう。
「聖女か、手助けが必要なら、いま――」
瞬間、クラウディアに近寄った一人が胸を貫かれ、壁に打ちつけられた。
防護ベストに収納された予備弾倉ごと身体を貫通している。
突き上げられた大鋏が、ゆっくりと開かれる。パキパキと音を立てて、警備員はその腹の中身を晒していく。
降りかかる大量の血を浴び、クラウディアは満足げに喉を鳴らした。
「何が起きて……、クソ!」
もう一人は、凶行に恐怖するも、提げた自動小銃をクラウディアへ向け、引き金を引いた。放たれた六・七ミリ弾が、クラウディアの身体を噛みちぎっていく。
「コード77発生!」
全弾を撃ち切った警備員。何発か胸部に命中したのは彼にも確認できたが、目標がまだ立っている以上、迂闊に近づいて生死確認などできはしない。目の前の「聖女」から目を離すのは危険だ、と視線を外さずに自動小銃の弾倉を交換しようとするも、思いのほか手こずり、却って時間がかかってしまっている。
彼が弾倉交換を終え再び引き金を引くのと、彼の身体が縦に両断されるのは、同じ瞬間だった。
後には、射手も獲物もいない、間延びした銃声が二秒ほど続いた。
◆
ネリーは、教室の隅で息を潜めていた。隣には同室のアンゼリカや、同級生たちもいる。
教室の外からは、人間のものではない足音が聞こえている。
つい数分前までは散発的に聞こえてきていた銃声も、いまは止んでいた。何十分か前に、助けを呼んでくる、と外へ出て行った警備部の予備神器兵のバレリアもいまだ戻ってきていない。
すでに多くの同級生たちは泣くこともやめ、ただ残りの生を怠慢に消費しているだけに思えた。
ネリー自身も現状をどうにかできる力を持たず、扉の前を何かが通りかかるたび、アンゼリカがバレリアが残していった散弾銃をギュッと握るのを、横目で見ることしかできずにいた。
しばらくすると、廊下のケモノたちが俄かに騒がしくなり、ドタドタと壁に何かが叩きつけられるような音がし、そのあとにカツカツと人間の足音が聞こえてきた。
足音はこの教室の扉の前で止まり、ギィと重いドアが開かれる。
現れた人物は、全身血塗れの銀髪の人物で巨大な鋏を手にしていた。
クラウディアだ。
彼女を見るなり、アンゼリカが安心した表情を見せ、散弾銃を放り出して、クラウディアへ駆け寄った。
クラウディアが大きく顔を歪ませるが見えた。
次の瞬間、アンゼリカの胸に大鋏が突き入れられた。
ネリーや同級生たちは、その恐ろしい光景を見ているしかできなかった。
恐怖のあまり動けなかったのもあるが、そもそも助けが来ることを諦めかけてもいた。そしてなにより、この教室から逃げ出すには、クラウディアの横を抜けるか、フィックス窓を破り三階相当の高さから飛び降りるしかなかったのだ。
ネリーは震えながらも、散弾銃を拾い、クラウディアに銃口を向ける。
手が震え、歯もカタカタと鳴って、きちんと狙うことができない。肩から銃床を離し脇腹に押さえつけるようにして構え直す。
アンゼリカの虚ろな目と視線が合った。それがネリーの最後に見たものだった。
◆
講義棟エリアに入った途端、周囲の状況はより悲惨なものになった。
そこら中に血が飛び散り、床には人間やケモノの死体、その一部が転がっている。加えて、薬莢の山や無数の弾痕が激戦を物語り、祝祭週の飾りつけが凄惨さを安っぽく際立たせていた。
しかし、まだすべてが終わったわけでもなく、少なくとも構内に残ったケモノを掃討し、生存者を探す必要があった。それに、外部へ作戦に出ている先輩たちもまだ戻ってきてはいない。彼女たちが帰還するまでに問題を片付ける必要があった。
警備部によって三つある離着陸場、西部棟と医療・技術部は確保済み。南ゲートの警部棟と講義棟エリアと聖女宿舎方面の状況が不明。「聖女」によるフレンドリーが発生しているという未確認の情報が何件か入っていた。
ルイーゼは講義棟エリアに向かうよう指示され、すでにいくつもの味方の遺体を見つけたり、ケモノと交戦したりしていた。
惨たらしい死にざまは見慣れている。
しかし、それは戦場での話で、都市内、ましてや〝学校〟の施設内でともなると別の話だ。戦う者が戦いの場で命を落とすのは、ある意味当たり前のことだが、そうでない者にとっては趣味の悪い悲劇でしかない。事故に遭うのとは、また別の不自然な死の形だ。
人にはふさわしい死にざまがある、そうルイーゼは信じたかったし、自分の死も自分で決めたいと考えてきた。それすら揺らいでしまいそうになる。
少なくとも、構内に出店しているカフェの店員が、ケモノに無為に殺されるのは、あってはならない結末なのだ。
でも現実はそうなってしまっている。
その事実から目を背けてはいけないが、直視すればするほど、それは悪い酒や幻覚剤のように判断を狂わせる原因にもなるだろう。
進むにつれ濃くなっていく強烈な生と死の臭いにむせて、息が詰まりそうになる。
加えて無線もノイズがひどくなっていき、まともに交信ができない状態になってしまった。
不安にもなる。
本来であれば引き返すべき状態だった。
ルイーゼの足元に、脚を失ったのか、血で地面を汚しながらケモノが這い寄ってきた。
それを槍で一突きに処理。虫を潰すかのように。
まだどこかでケモノのものと思われる音がしている。咀嚼音に、肉がぶつかり合うような音。
位置はすぐにわかった。
デッキの柱の影でケモノが誰かの死体に群がっている。
すでに見慣れつつある光景だが、それでも嫌悪感が湧いてくる。
槍を構えながら慎重に近づく。
ふと、足元に転がる物体に目が行った。
人の頭のようだ。切れ味の悪い刃物で切断されたかのような傷。ケモノの仕業ではない可能性が高い。そのことに言い知れぬ気味悪さを感じる。
しかし、それ以上にルイーゼは嫌な予感に思考の多くを奪われてしまっていた。この栗色の髪に見覚えがあったからだ。
静かに、その頭部の顔を確認する。
カレンだった。
「――ぃ」
首から下は、群がったケモノたちに踏み躙られている。
「頭に血が上る」というのはこういうことだったのか。そう思ったときには、すでにカレンの躰を弄ぶ異形たちは、肉塊とさえ呼べない血肉となっていた。
戦闘用の感情調整を瞬間的に上回る、沸騰ともいえる怒り。
「はぁ、はぁ、はぁ」
胸が苦しい。手が焼けるように痛い。手袋から溢れた体液が、床にポタポタと落ち、染みを作っている。
身体も熱い。
ルイーゼは、まずい、と思った。まだどれほどの数のケモノが構内にいるのかさえも見当がつかない。出し惜しみはよくないが、全力を出しすぎるのも決してよいことではない。特に彼女の場合は。
マフラーはそのままに、防寒着を脱ぎ捨て、柱に寄りかかる。シャツのボタンを外し、胸を押さえ、深呼吸を繰り返す。
「……よし」
自分に言い聞かせるように、小声で呟き、その場を後にした。
◆
美味しい。
愛しい。
全部、食べたい。
全部、愛してあげる。
全部、離れていってしまわないように。
美味しいあの子を食べてあげなくちゃ。
どこかへ行ってしまわないように。
わたしの愛しいお月さま。
どうか、どうか、消えてしまわないで。
照らして。
照らして、愛しいあの子。
わたしを導いてくれる。
わたしだけの光。
あの子の愛を手に入れられるのならば。
あの子へ愛を伝えられるのならば。
わたしは喜んで、わたしのすべてを差し出します。
どうか、わたしを、水底から掬い上げて。
あなたの腕の中で。
わたしの腕の中で。
たとえ、夢だとしても。
わたしのお月さま。
ああ、行かないで、消えないで。
消えないで。
消えないで。
わたしの――
◆
ルイーゼは薄暗い廊下を進んでいる。
カレンは死に、依然としてクラウディアとも連絡はつかず出会えぬまま。
この建物に入ってからは、生存者はおろか、死体すらほとんど見当たらない。ケモノもだ。戦いや死の痕跡は残っているが、それも壁に飛び散った血痕や弾痕ばかりで、床のものは、雑にモップをかけたように、引き摺った跡が残るのみだった。
ルイーゼはいま、この床の跡を追っている。
それにしても辺りが暗いな、とルイーゼはふと思った。
電源が喪失したらしく、中枢以外は電力の供給が失われているという報告は受けていた。とはいえ、室内で電灯が切れているだけにしては暗すぎるように思える。
窓を見ると、夜のように暗い空に月が輝いていた。まだ昼の二時過ぎだというのに。いくら日が傾くのが早い時期だといっても異常な状況だった。
「まさか……」
ルイーゼには思い当たる現象があった。
上位のケモノが持つとされる現実改変領域。
もし空の異常が、現実を書き換える力によるものだとしたら、状況は想定を上回っている。一帯はケモノのテリトリーになってしまっているということだからだ。
ルイーゼは確かに強いが、現実を侵食するほどの力を持つ相手と相対したことはなかった。
無線も通じず、助けも呼べず、また助けを聞けない、という状況下で、単独で倒せるような相手ではない。そんな存在が近くにいるかもしれないという事実に、手が震え、鼓動が早くなる。
小さく深呼吸し、呼吸を落ち着かせる。依然として不安は大きいうえ、先ほどの激昂で壊れかけの、それでもまだ機能している聖女の戦闘適応調整によって、パニックにならずに済んでいる。
辺りの静けさに溶け込むように、足音を抑えながら慎重に歩を進める。
それでもまだ自分の足音や衣擦れの音でさえ、うるさく感じてしまうほどの静寂さ。
ふと、奇妙な音が聞こえ、足を止める。
ズッズッと何か大きな物体が引き摺られるような音と、呻き声のような音。
廊下の曲がり角の奥からだ。
ルイーゼは、身構える。槍を握る手に力が入り、無意識に息を止める。
そして、それは姿を現した。
白い毛並みのケモノ。
犬や狼に似た頭部に大きな腕、腹は大きく膨らみ、下半身には脚の代わりに無数の腕が生え、虫の脚のように蠢いている。その頭や腕などには、どことなく人間の造形が浮かぶ。口先と手先、足元は血で赤黒く染まり、多くの人間がこのケモノの餌食となったことが察せられる。
「……ぅ」
ルイーゼは息を飲んだ。
まだそこそこ離れた距離にいるものの、いままで体験したことのない重圧を感じたためと、そしてもう一つ。
眼前に姿を現したケモノの正体に心当たりがあったからだ。
「嘘……。ディ、ア?」
白いケモノが吼えた。ルイーゼには肯定の返事のようにも聞こえた。
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