絶対に買って!

沢田和早

通学路、振り返るとそこにいる

 その自動販売機に太郎が気づいたのは高校に入学して間もなくのことだった。

 家から駅へ向かう通学路の途中。店先でも公園でもなく県道から外れた脇道にそれは立っていた。


「こんな場所にあっても売れないだろうに。何を考えて設置したんだろう」


 最初は気にも留めなかった。街中でよく見かける何の変哲もない自動販売機。売られている飲料水もよく見かける銘柄ばかりだ。

 しかし登下校の途中で何度もその前を通るうちに奇妙な違和感を抱くようになった。


「言葉みたいに聞こえるんだよなあ」


 原因は異音だった。冷蔵庫と同じように冷却機のモーター音が聞こえるのはまだわかる。しかしそれ以外にもジュッという、まるで肉を焼くような音も聞こえるのだ。モーター音に比べればノイズのような微音ではあるが気になりだすと耳障りなことこの上ない。


「ねえ、父さん。駅へ行く途中に自動販売機があるよね」


 ある日太郎は父に疑問をぶつけてみた。父も太郎同様通勤に電車を使っているので毎朝同じ道を駅まで歩いていた。


「自販機? そりゃたくさんあるだろう」

「家から百mくらいの所にある自販機から変な音がするんだ」

「冷蔵庫だって音ぐらいするだろう。何が変なんだ」

「あんな音じゃなくて何かが焼かれているような音なんだよ」


 父は奇妙な目付きで太郎を眺めた。からかわれているのかと思ったのだ。だが真面目な表情の太郎を見てしばらく考えたのち言った。


「それは蒸発装置の音じゃないか。内部で結露した水分を蒸発させるために自販機には電熱線が組み込まれている。そこに水滴が当たって音をたてているんだろう」

「そうなんだ」


 父は家電メーカーに勤務している。自販機の内部構造に関する知識もある程度は持っているようだ。


「そんなくだらないことに頭を使わないでしっかり勉強しろよ」


 どうやら父は気にも留めていないらしい。太郎も納得できる回答をもらえたのでその話はそこまでになった。


「なるほど。確かに蒸発音だ」


 次の日の朝、登校途中の太郎は例の自動販売機の前に立った。耳を澄ますとやはりジュッという音が時々聞こえる。だが昨日まで言葉のように思えていたその音は、父の話を聞かされた今聞いてみると水滴の蒸発音にしか聞こえない。太郎は安堵するとともに下らないことで悩んでいた自分を馬鹿らしく感じた。


「これ、初めて見るな」


 陳列棚中央列の真ん中に置かれている飲料水のキャッチコピーが太郎の目を引いた。『渇いた細胞に愛のムチ、クールビューティー』缶全体を覆う過剰とも言えるほどのデザインを見ていると、飲んでもいないのに鞭でぶたれているような気分になってくる。


「きっとトンデモナイ味なんだろうな。お金をもらっても飲みたくないや」


 太郎がそうつぶやき終わる前にその声は聞こえてきた。


『お願い買って!』

「えっ」


 太郎は周囲を見回した。誰もいない。脇道なので人通りはほとんどないのだ。


「空耳かな」


 風もないのに背筋が寒くなった。太郎は急いで駅へ向かった。


 空耳でないことはその日の夕方にわかった。下校途中、足早に自動販売機の前を通り過ぎた太郎の背後からまたあの声が聞こえてきたからだ。


『クールビューティー買って。お願い!』


 太郎は後ろを振り返った。やはり誰もいない。そしてあの自動販売機だけが立っている。


「まさかこいつが喋っているのか」


 太郎は気味が悪くなった。だからと言って買ってやる気にはなれない。無駄遣いは大嫌いなのだ。


「おまえの言うことなんか聞いてやるものか」


 精一杯の罵声を浴びせて太郎はその場を立ち去った。


 太郎にとっての地獄の日々はその時から始まった。自動販売機の前を通り過ぎると必ず背後から声が聞こえてくるのだ。もちろん太郎は無視した。だが日を追うごとにその声の言葉は激しさを増してくる。『買って!』は『買え!』に変わり『お願い!』は『早くしろ!』に変わった。さらに『買わないとどうなるかわかっているわね』とか『あんた死にたいの?』とか『永遠に呪ってやる』などの脅迫めいた言葉まで追加されるようになった。


「仕方ない。通学路を変えるか。明日からは県道を通って駅まで行こう」


 一番の近道は脇道なのだが心の平穏を取り戻すためには仕方ない。両親には相談できなかった。こんなことを話しても信じてもらえないに決まっている。


「やれやれ、これで今日から一安心だ」


 県道を歩いて駅に着いた太郎は額の汗をぬぐった。これで自動販売機の声に悩まされることはない、はずだった。が、


『どうして避けるのよ!』


 聞こえてはいけないはずの声が聞こえてきた。恐怖に震えながら太郎は振り返った。駅前通りの一角に自動販売機が置かれている。ずっとそこにあったのか今日設置されたばかりなのか太郎には記憶がなかった。

 怖気おじけづく心を奮い立たせて太郎は自動販売機に近づいた。中央列の真ん中に置かれているのは派手なデザインの飲料水。そして『渇いた細胞に愛のムチ、クールビューティー』のキャッチコピー。


「うわあー!」

『逃げるな! 買え!』


 追いすがる声を振り払うように太郎は駅へ駆け込んだ。この駅前の自動販売機にもクールビューティーは売られていたのだ。脇道で声をかけられなかったのでこの駅で声をかけた、そういうことなのだろう。


「くそ、どうすればいいんだ」


 その日は授業もそっちのけで太郎は解決策を模索した。そしてひとつの案を思い付いた。放課後、帰路についた太郎はいつも利用している駅のひとつ前で電車を降りた。改札を出て周囲を確認する。


「ここにはないな」


 普通電車しか停車しない小さな駅なので駅前通りに自動販売機はひとつも置かれていない。太郎は決心した。明日からはこの駅を利用することにしよう。自転車を使えばさほど時間もかからないはずだ。これであの声の呪縛から逃れられる、はずだった。が、


『あたしから逃げられると思っているの』


 翌朝、改札へ向かう太郎の耳に聞こえてきたのはあの声だった。振り向くと自動販売機が立っている。


「ば、ばかな!」


 信じられなかった。間違いなく昨日はなかった。いや、たった今、自転車を降りて改札へ向かう途中でさえ存在していなかったのだ。


「まさか、ボクを追いかけてきたとでも言うのか」


 あり得ない妄想だ。自動追尾式の自動販売機など聞いたことがない。しかしそれ以外に考えられない。太郎はカバンから油性ペンを取り出した。そして自動販売機の前にしゃがみ込むと前面右下隅に小さくバツ印を書いた。見分けるための目印だ。


「これでわかるはずだ」


 単なる妄想であってほしい、そう願いながら太郎は電車に乗った。だがその願いは数十分で打ち破られた。改札を出て高校へ向かう太郎の背後からあの声が聞こえてきた。


『落書きなんかしてどういうつもり』


 振り返れば自動販売機が立っている。右下隅には書いたばかりのバツ印。もはや疑う余地はなかった。


「来るな!」


 太郎は駆け出した。登校途中の生徒たちを追い越して必死に走る。校門まであと少しの場所で走るのを止めるとまた背後からあの声が聞こえてきた。


『どこまでもつきまとってやる』


 振り返るまでもなく自動販売機だ。太郎は諦めた。これ以上意地を張っても仕方がない。硬貨を投入してクールビューティーのボタンを押した。これで解放されるなら安いものだ。

 取り出し口に落ちてきた派手なデザインの缶を拾い上げた太郎は安堵のため息をついた。しかしそれはすぐ絶望のため息に変わった。


『一本ってなによ。もっと買え!』


 太郎はタブを開けた。とても飲む気にはなれなかった。中身をぶちまけて空き缶をゴミ箱に放り込むと一目散に校門へ向かった。


 翌日、太郎は学校へ行かなかった。ゴールデンウィークが始まったのだ。

 運のいいことに今年は五連休。五日間、太郎は外出せず家で過ごすことにした。外へ出ればどこであの自動販売機に出くわすかしれたものではない。一本で満足できないのだから、きっと売り切れるまで買え買えと叫び続けるだろう。いや、たとえ全て買い切ったとしても売れ行きに気を良くした販売元が販売量を二倍、三倍に増やすかもしれない。そうなったら小遣いがいくらあっても足りない。太郎は暗澹あんたんたる気分になった。


「とにかく連休中だけはのんびり過ごそう」


 外に出なければ自動販売機にも会わずあの声を聞くこともない。せめてこの五日間だけは心安らかに過ごしたい、そんな太郎の願いは早くも三日目の夜に打ち破られた。


『三日間も会いに来ないなんてどういうこと』


 二階の自室で読書していた太郎は突然聞こえてきた声に耳を疑った。椅子から立ち上がって窓を開けると道端に自動販売機が立ってこちらを見上げている。背筋が凍るような気がした。ついに家まで追いかけてきたのだ。


「母さん、母さん」


 太郎は階段を駆け下りた。リビングで母がテレビを見ている。


「母さん、外へ出て、早く」

「何よ、いきなり」


 母の手を取って玄関を開ける。自動販売機はまだ立っている。


「こ、こんな所に自販機がある」

「あらホントね」

「昨日まではなかったよね」

「う~ん、どうかしら。あまり気にしないから」

「こんな所にあるなんて変だよね」

「何が変なの。自販機なんてどこにでもあるじゃない。小学生じゃないんだから自販機ぐらいで大騒ぎしないで」


 母は呆れ顔で家に戻ってしまった。太郎は恐怖に満ちた目で自動販売機を見つめた。右下隅には自分が書いたバツ印がまだ残っていた。


 連休明けからさらなる地獄が始まった。家の前で声を聞き、駅へ行く途中で声を聞き、駅前通りでも声を聞かされる。下車した駅でも校門前でも罵声と恨み節と叱責が太郎を襲う。日ごとに憔悴していく精神はとうとう太郎にある決心をさせた。


「破壊するしかない」


 日曜日の早朝、太郎は工具箱を持って家を出た。


『いつになったら買うのよ、このケチンボ』


 家を出てすぐ聞かされた罵声は無視して駅への道を急ぐ。家の前は人目につく。初めて存在に気づいた脇道の自動販売機なら誰かに見られる可能性は少ないはずだ。


「やるならあそこしかない。とにかくダメージを与えよう。完全に壊さなくてもいい。少し痛い目に遭わせてやれば大人しくなるだろう」


 太郎の決意は固かった。しかしいざ自動販売機を前にすると善良な市民としての道徳心が湧き上がってきた。他人の所有物に損害を与えるのは犯罪である。しかも今まで気づかなかったが自動販売機の上には監視カメラらしきものが設置されている。素顔で犯行に及べば捕まる可能性は大だ。太郎は監視カメラの範囲外と思われる場所まで一旦引き下がることにした。


「どうしよう。暴力はやめて話し合いの解決を目指したほうがいいかな。でもこちらの言い分を聞いてくれるとは思えないし」


 太郎の煩悶は長かった。なかなか結論が出なかった。取り敢えず今日は何もせずに帰ろうかと思い始めた時、一台の車が自動販売機の前にとまった。男が降りてきて飲料を購入する。買ったのはクールビューティーだ。太郎は驚きを隠せなかった。


「嘘だろ。あんなの買うやつがいるんだ。いやもしかしたらあの人もボクみたいに買え買えって脅されている被害者かも」


 急に親近感が湧いてきた。もしそうなら自分の仲間だ。


「ちっ、思った通りクソ不味いな」


 飲み干した男は顔をしかめながら自動販売機の前面パネルを開けた。どうやら補充員のようだ。作業を始めた男に太郎はそれとなく声をかけた。


「えっとさっき買ったドリンク、美味しかったですか」

「いや、この仕事を始めて十年になるがこんなにマズイのは初めてだ。これまで一本しか売れないわけだ」

「あの、ひょっとして買え買えって言われて仕方なく買ったんじゃありませんか」

「そりゃ言われるさ。自販機が金を稼いでくれるおかげで俺たちも食っていけるんだから。人気がない商品はなるべく買うようにしているんだ」


 どうやら買え買えと言われているのは自動販売機からではなく会社の上司かららしい。声が聞こえる仲間を見つけたと思っていた太郎はちょっとガッカリした。


「こいつだけは最後まで買いたくなかったが今日が最後だからな。記念に買ってやったんだ」

「最後? どういう意味ですか」

「このクールビューティー、生産中止になったんだよ。当たり前だよな。これまで一本しか売れてないんだから。今日からは別の商品が入る。もしかして飲みたかったのか」

「いいえ、とんでもない。じゃあ失礼します」


 太郎は急ぎ足で家に向かった。背後から声は聞こえなかった。家の前の自動販売機は姿を消していた。


 翌日から全てが元通りになった。補充員の言葉通り、脇道の自動販売機にはクールビューティーに代わってよく見かけるスポーツドリンクが入っていた。校門前と一つ先の駅前の自動販売機は撤去されていた。乗車駅と降車駅の自動販売機は残っていたがクールビューティーはなくなっていた。バツ印も消えていた。もちろん声は聞こえてこない。昨日まで続いていた苦悩の日々が夢のように思われた。


「あのドリンク、本当は何をして欲しかったんだろう」


 太郎は時々考える。クールビューティーが求めていたのは買ってもらうことではなく飲んでもらうことだったのではないかと。自分の飲み口に唇で触れてくれる誰かを求めていた。だがそれを素直に言い出せず「買え!」と叫んでいた。そしてあの補充員がその願いを叶えてくれたので満足して消滅した……そんな風に今は考えている。


「本心はなかなか言えないものだからなあ」


 晴れ晴れとした気分で校門に向かう太郎の背中を誰かが叩いた。


「オハヨー。今日も手を抜くなよ」


 振り返ると二年上の女子生徒が笑顔で立っている。所属しているクラブの部長だ。数日前に仮入部が終わり本入部となったのだが、正式な部員になった途端扱いが厳しくなった。


「わかってます。部長も優しく指導してください」

「甘ったれるな。今日もビシビシしごいてやる」


 部長は太郎を追い越して大股で歩いていく。女とはとても思えない。


「部長の口調、あの自動販売機にそっくりだな」


 だが今の太郎はその乱暴な言葉遣いが心地良く感じられて仕方がなかった。


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