0b1110 冬の花
あなたを見ているとドキドキするのは、どうして何だろう。
トウカはハルを眺めながらそう思います。
名前を呼んでみても、返事はひとつも返ってきません。
けれどトウカは、そんなこと気にしません。薄く透ける尾ひれをゆらりゆらりと水の中で踊らせる姿から目を離せず、じっと鉢を見続けます。
トウカがお祭りで金魚すくいなんてしたのは初めてのことでした。小さい頃からお母さんに生き物を飼う責任が取れないでしょうと、一度もさせて貰えなかったからです。
金魚片手に家に帰れば、少し大きめの、屋台のおじさんにこういうのでも大丈夫だ、と聞いたので買ってきたどんぶりで塩水浴をさせました。せっかくだから、と名前も付けました。
ハル、という名前を得たその金魚は、モノクロの腹ビレをひらひらと動かしてどんぶりの中で気持ちよさそうに泳ぎました。
トウカはハルがきて4日目にハルのために少し大きな鉢と、水草と、小石を買いました。一人暮らしの、物もほとんどない部屋にぽつんとひとつローテーブルの上に置かれた鉢はカーテンの隙間から吸い込まれる光を不規則に反射させます。
ハルがきて14日目、二週間の塩水浴を終えたハルは心なしか初めて会った頃よりも元気に泳ぐようになりました。
ハルはトウカにとって唯一のやすらぎでした。ほとんど毎日水を変え、餌をやって、時間の許す限りハルのことを眺めていました。そうして、すこしずつ、すこしずつ、ハルとの時間が増えていきます。
数少ない友達と遊ぶことも減り、トウカの周りからは人が少しづつ離れていきました。
「寂しくないよ、ハルがいるから。」
蛇口から水滴が落ちる音が後ろから聞こえました。
ハルは何も知らないかのようにゆうゆうと泳ぎ続けます。それでもいいとトウカは笑いました。けれどトウカは泣いてしまいました。ハルのためにいくら時間を捧げても、どれだけ甲斐甲斐しくお世話をしてもありがとうとも言わないし、好きだよとも言ってくれません。
ただ当たり前のように泳ぐだけなのです。
そうしているうちにハルと暮らしはじめて、4ヶ月が経って、初めての冬になりました。トウカはまた少しずつ、友達とも遊ぶようになりましたが、それでもハルが一番でした。
ある日、トウカはぼんやりとハルを見ながら、鉢の中に手を入れて、ハルをすくい上げました。ひんやりとして、少しぬめりのあるハルは、手のひらでパタパタと何回も跳ねたあと、ピクリとも動かなくなりました。手のひらに有るのは動かないハルと水滴だけでした。
キラキラと反射する鱗は変わらないままで、トウカの大好きなハルはまだそこにいました。
「美味しそう」
そうつぶやいて口に持っていこうとしましたが、やめました。
その夜、トウカは誰もいない公園の花壇の端にハルを埋めました。鮮やかに反射するハルの体は黒っぽい土に隠れていきます。涙はもう出ませんでした。それどころかこれでわたしの心を乱すものはなくなったのだと、どこかでホッとしている自分がいました。
帰り道、黄色い水仙を買って、鉢の前に飾りました。冬花は小さく口を開けてぽそりとつぶやきました。
その言葉は誰にも聞こえません。
冬花の春はもう二度とやってこないのです。
八雲立つ 暁 @tamakagiru
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