万寿菊-2

「少し落ち着いたか?」

しばらくしてから遠慮がちに声をかけられる。落ち着いて考えれば、とんでもなく恥ずかしいことをしてしまったと思い、私は焦った。そんな私のことにお構いなく、神はさらにとんでもないことを言い出す。

「そういえば、デジレ・ミシェル・コンスタンツもここで泣いていたことがあったな。」

一瞬思考が停止する。その名前は、もうこの地では口にされることすらない、他の誰でもない懐かしい母のかつての名前だった。母は結婚する際に、この地に合わないというただそれだけの理由で、ミシェル以外の名前を捨てさせられた。名前を捨てるのは、罪を犯したものの刑の一つでもあるほどに屈辱的なことだ。それなのに、この王国はそんなひどいことを平気でする。穢れた血を持つ人になら何をしてもいいと思っているのだ。私は、5歳のときに母の日記を見つけるまで、母の名前を知らなかったことに衝撃を受けた。母が名前を剥奪されていただなんて考えたこともなかったのだ。だからまさかここで母のかつての名前を再び聞くことが出来るとは思っていなかった。

「母を、ご存知なんですか?」

震える声で質問したとき、外から叫び声のようなものが聞こえてきた。何年も神殿に来ているが、こんなことは初めてだ。その音に呼応するかのように水盤が揺れ、水が青く光る。

「またいつかお前の母の話をしてやる。だから生きろ。何があっても死のうなんて思うなよ。」

いつも以上に私を気遣う声に嫌な予感がした。どういうことか聞く前に聖水は蒸発した。神が帰った証拠だ。混乱したまま部屋の状態を元に戻す。その間にも、叫び声は大きくなり、こちらに近づく。私がドアまで歩いて、鍵を開けようとしたまさにそのとき、ドアのほうから言い争うが聞こえた。

「陸軍第一騎士団団長からの執行命令書が見えないのか?そこを退け。この中にいるのだろう?あの、穢れた血が。」

「おやめください。ここは神のいらっしゃる神聖な場でございます。」

どうやら神殿のメイドと、騎士団の人が言い合っているらしい。

「神が聞いて呆れるわ。お前はなんだ?神から何か恵んでもらったのか?そのひどい顔も、まさか神からもらったのか?」

無理矢理押し入ってきたらしい男の言葉に、大勢の人が笑う声がする。あまりの感じ悪さに吐き気がした。

「わかったらそこを退くんだ。俺は中にいるやつにしか用はない。お前が今すぐ退くならお前だけは見逃してやろう。」

鍵を開けようと伸ばした手が震える。しかし、神殿のメイドを困らせるわけにはいかないのでゆっくり鍵を開ける。思ったより大きな音が響き、ドアの外が一瞬静かになった。次の瞬間驚くようなスピードでドアが開けられる。外には沢山の騎士と、血で濡れた赤い剣。そして床には真っ青な顔をして震えたメイド。

「お前は今から騎士団本部へと連行される。言いたいことなどはそこで言え。」

私が何かを言う間も無く、騎士に囲まれる。その後ろで血の滴る剣を握っている偉そうな男に聞く。

「これはどういうことですか?私が誰と知ってのことなのでしょうか?」

声が震えるが、ここで折れるわけにはいかない。

「お前に話すことはない。穢れた血の分際で俺に話しかけるな。穢らわしい。」神経質そうな男が、嫌そうな顔をしながら私を怒鳴りつける。急なことすぎて頭が追いつかない。ただ、向こうも相当焦っているようだった。私が再び抗議をしようとしたとき、偉そうな男が騎士に合図をした。その瞬間、頭が割れるように痛み、呼吸が速くなり、めまいがしだした。薄れゆく意識の中、最後に見たのは、心配そうにこちらを見つめるメイドと、血に染まった剣を握って嫌そうな顔をした男だった。

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私が王国に帰るまで 七森 羽衣 @825272s

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