第二章 出港③

離陸から二時間後。北原は、阿賀戸港に停泊するフェリー「たからじま号」の窓から、大型バスが黒い煙を吐いて去っていく様子を眺めていた。

 宇部空港から阿賀戸港への送迎は、自動運転ではなかった。

 塗装のげたバスの後ろ姿を見ながら、それもそうかと思う。近年、社会実験という名目で自動運転車の走行を認める自治体は増えていたが、実際にその車両を見かけることはほとんどなかった。自動運転車による送迎は、今は阿賀戸駅と阿賀戸港間限定で行われているのかもしれない。

 気分を変えようと船内を見渡す。右隅の席に陣取った北原からは、客室の様子が一望できた。船内はすべて自由席で、三席ごとに区切られた座席が左右の壁沿いに百席ほど並んでいる。客室の中央には靴を脱いでくつろげる座敷スペースがあったが、乗客はまるでそこに強力な磁石でもあるかのように座敷を避け、左右の窓際席に固まって座っていた。席は半数近くが埋まっているが、会話を交わしている様子はどこにもない。その光景に寂しさを覚えていると、デッキへ続く通路から誰かが歩いてくるのが見えた。

 現れたのは、一人の少女だった。身長は北原と同じくらいで、身に着けている黒のパーカーとスウェットが、その手足の白さを際立たせている。公民館にあるような焦げ茶のビニールスリッパを裸足はだしにつっかけ、肩まで伸びた黒髪を揺らしながら歩く姿はどこか浮世離れしていて、北原は思わず、その姿を目で追っていた。

 せわしなく周囲を見渡していた少女は、北原の姿をとらえると、急にその動きを止めた。微弱な光をたたえた、切れ長の眼。透き通るように白い肌との対比で、右のじりにある小さな泣き黒子ぼくろが一際目を引く。少女はその場で黙って立ち尽くしていたが、ふいに北原の座る列の端にすとんと腰を下ろした。突然のことに何も言えずにいると、少女は目を伏せたまま、消え入りそうな声をふいに発した。

「……この船、どこ行くの」

 少女の容姿と仕草からは、何か普通ではない雰囲気が感じられた。隣に座った人物を無視するわけにもいかず、北原は慎重に口を開く。

「人財島、だと思いますよ」

「ジンザイジマって……なに?」

 その声には、わずかに感情の起伏が見られた。少女は、島のことを何も知らずにこの船に乗っているらしい。ますます不穏なものを感じながら、北原は自分が知っている範囲の事実を伝えることにする。

「僕もそんなに詳しくはないんですけど……簡単に言うと、元々無人島だった場所を開発して作った最新鋭の研修施設らしいです。僕は……パシフィストグループからの出向で、その島で働く予定です」

 雑誌の受け売りを伝えつつ、自分が怪しい者でないことを示すために会社の名前を頼る。少女は斜めに首を傾げた後、ぽつりとつぶやいた。

「じゃあ……人身売買、とかじゃない?」

「え?」

「なんでもない」

 少女はそう口にすると唐突に立ち上がり、茶色のスリッパをパタパタと鳴らしながらデッキの方へと消えていった。

 すすべもなくその後ろ姿を見送った北原は、先ほどまで少女が座っていた席を見つめたまま、しばしぼうぜんとしていた。

 あの子は一体何者なんだろう。少なくとも、これから人財島で一緒に働く社員とは思えなかった。社員の家族だろうか。これだけ大きなプロジェクトであれば、中には家族連れの社員もいるかもしれない。北原はそう考えつつ、自分がどこかで、別の可能性から逃れようとしていることに気づいていた。

 人身売買。確かにそう言っていた。見た目と話しぶりを見る限り、彼女は自分と同じ日本人に思えた。日本は平和で治安の良い国だ。そんな言葉を、ことあるごとにさまざまな立場の人から聞かされていた。その日本でどう過ごしていれば、この船と人身売買を結びつけるようになるんだろう。

 ふと人の気配を感じて意識を戻すと、視界にまた異変が起きていた。先ほどまで少女が立っていた位置に、頭髪の薄い中年男性がいる。男性は紺色のポロシャツにベージュの綿パンという、先ほどの少女と比べるとかなり常識的な服装をしていた。男性は人の良さそうな笑顔を見せると、少女が座っていた席を指し、柔らかい物腰で尋ねてきた。

「ここ、空いてますか?」

 北原がうなずくと、男性は頭を下げてからのっしりと席に着いた。北原より一回り身体の大きい男性は、座席の上でやや窮屈そうに胴をひねり、ズボンのポケットから名刺入れを取り出した。

「座ったままですみませんね。私、ざわと申します」

 紙質の良い名刺には「ざわとしゆき」と書かれていた。肩書きの欄には「やまと銀行 いいばし支店 支店長代理」の文字が躍っている。「やまと銀行」はテレビCMでも毎日のように名前を聞く三大メガバンクの一つだった。たしか、パシフィストのメインバンクでもあったはずだ。やや戸惑いながら名刺を受け取ると、野沢と名乗った男性は困ったような笑顔を浮かべて話し始めた。

「すみません、ちょっと聞こえちゃったんですけどね」

 野沢は軽く周囲を見渡し、傍に誰もいないことを確認すると、ささやくように続けた。

「パシフィストさんからっておつしやってましたよね。僕も出向で、今日から人財島でお世話になるんです」

「あ、そうでしたか」

 どうやら野沢は少女との会話を聞き、北原が同僚だと知って話しかけてきたらしい。

「北原です。人財島の社員の方とお会いしたことがなかったので、安心しました」

 体形的に一回り、年齢的には二回りは離れていそうな野沢に、本心からそう伝える。野沢は大きく頷くと、先ほどよりも余裕のある様子で船内を見渡した後、やや声を潜めたまま続けた。

「きっと、このフェリーに乗ってる方々は同僚なんだろうなとは思ってたんですけど、なんというのかな……雰囲気みたいなものがバラバラだから、僕もちょっと不安でね」

 北原には、野沢の言わんとすることが理解できた。船内には、野沢と同世代とおぼしき五十代前後の勤め人らしき姿もあれば、先ほどの少女のような、どことなく「社会的」でない雰囲気の人もいた。共通項と言えるものはほとんどなく、強いて言えば、全員がややうつむいているように見える。今も船内で会話しているのは、野沢と北原だけだった。

「どんな仕事をするんでしょうね」

 他に話題もなさそうだったため、仕事の話を広げてみる。野沢は温和な眼を船内に向けたまま、落ち着いた声で話しはじめた。

「やっぱり、研修指導ってことになるんじゃないかな。島全体が研修施設になってるそうだから」

「だとすると……僕たちの仕事は、指導教官のようなものですか」

 北原の脳裏には、昔ある映画で見た、深緑色のキャンペーンハットをかぶった鬼軍曹の姿が浮かんでいた。とてもじゃないが、自分にあんな役割はできそうにない。

「そうそう。でも正直、イメージが湧かないよねぇ。指導教官なんて、映画か自動車学校でしか会ったことないもの」

 野沢も似たような感想を抱いているらしく、温厚な表情でそう言った。親子ほどの歳の差がある野沢はすぐに北原へ敬語を使わなくなっていたが、語り口が穏やかであるため、不快な感じはしない。少し会話に間が開くと、野沢は画面のやや大きいスマートフォンを取り出し、軽く掲げてみせた。

「ネットで調べてみたら、会社の評判はすごくいいみたいだよね。ほら、今は口コミサイトみたいなのがあるじゃない?」

「そうらしいですね」

 北原も、人財島PFIへの出向が決まってすぐ企業の名前で検索し、これから向かう会社の評判を確認していた。元社員・現社員が会社の評価を書き込むことができる口コミサイトでは、株式会社人財島PFIの口コミは20件ほどあり、全体評価には「89点」とかなり高いスコアが表示されていた。野沢につられてスマートフォンを取り出すと、ちょうどそのタイミングで船内にチャイム音が響き始めた。

「本日はたからじま号をご利用いただき、誠にありがとうございます。当船はこれより約二十分で、目的地へ到着いたします。船内では、衛星回線とWi‐Fi設備により、陸地からの電波が届かない海上でも、無料でインターネットをご利用いただけます。利用登録をお済ませの上、ぜひ快適なインターネットサービスをお楽しみください」

 チャイムに続いて、理知的な女性の声がよどみない口調で案内放送を始めた。さっそくスマートフォンの設定を確認すると、「TAKARAJIMA.NET」という名前のネットワークが出現していることに気づく。女性の声はさらに続けた。

「また、たからじま号では現在、『タカラジマを千倍楽しんじゃおう!』キャンペーンを実施中です。船内で電子決済アプリ『talca』をダウンロードいただいたみなさまには、次世代型研修施設『人財島』で使用できる電子マネー千円分をプレゼントいたします。ぜひこの機会にダウンロードください」

「へぇ。太っ腹だねぇ」

 野沢は放送と会話するようにそう口にした。その声に小さく頷きながら、さっそくWi‐Fiの利用登録を行う。要求に応えてメールアドレスを入力すると、「警告 セキュリティ等について」とトップに書かれたページに遷移し、スクロールバーが付いた長大な「同意事項」の文言と同意ボタンが現れた。商業施設の無料Wi‐Fiなどでこうした画面には慣れていたため、北原は特に深く考えず「同意する」をタップする。

 わずかな間があった後Wi‐Fi接続が完了し、トップに「次世代型研修施設 人財島」と大きく書かれたWEBサイトが表示された。ページトップには人気ユーチューバーのヒカリンのデフォルメされた肖像画と「とってもおトクな電子決済アプリ talca! 今ならポイント千円分もらえる!」と書かれた吹き出しが表示されている。北原はもらえるものはもらっておこうという軽い気持ちで、アプリのダウンロードをはじめた。

「なんだか、キッザニアみたいなかんじだね。すごく楽しそうだ」

 隣を見ると、さっそく北原と同様に「talca」のアプリをダウンロードした野沢が、「人財島」のWEBサイトをスクロールしている。画面には、真っ赤に熟れたトマトを手でもぎ取りながら、さわやかな笑顔を見せる青年の写真が表示されていた。

「それでは、目的地『人財島』まで、快適な旅をお楽しみください」

 再び落ち着き払った声が響き、「たからじま号」は悠然と出港した。

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