第一章 人財③

落ち着きなく周囲を見渡しながら、白と赤を基調にしたガラス張りの廊下を歩く。

 茅野とビデオ通話をした翌日。北原は人事課に呼び出され、おおまちにあるパシフィストグループ本社を訪れていた。ビビッドレッドに染まった会議室の扉を、右手の甲で二度ノックする。遠くで「どうぞ」と聞こえるのを待って扉を開くと、人事課長のとうじょうが、優に二十人は座れそうな長机の端にぽつんと座っているのが見えた。

「失礼します」

「ああ、北原くん。悪いね、わざわざ出社してもらって」

 東條は丸眼鏡をつまみ上げ、神経質そうな笑みを浮かべて言う。なぜ自分が本社に呼び出されたかがいまだに分からないため、返す笑顔はぎこちないものになった。

「まぁ座って。せっかくだから広々と使ってよ」

 東條は冗談めかしてそう言いながら、会議室にずらりと並ぶ椅子を指す。北原が軽く頭を下げて斜め向かいに座ると、東條は小さく息をつき、細い目でこちらを見据えた。

「さっそくだけどさ……北原くんは、じんざいじまって聞いたことある?」

 この会議室を訪れるのは、最終面接以来だった。当時は室内に十名の学生と南雲会長の姿があったが、今この部屋には東條と北原の二人しかいない。面接時とは違った緊張が部屋を覆っているのを感じながら、北原は小さく頷いた。

「はい、新入社員研修の際に。ないかいに浮かぶ無人島を利活用した、次世代型の研修施設とお聞きしています」

 相手の心証を悪くしないよう、最大限の注意を払って答える。パシフィストが運営に関わる研修施設「人財島」は、メディアに登場する際には必ず「たからじま」というふりがな付きで紹介されていたが、響きだけでは世に数多くある「宝島」という言葉と区別がつかないため、社内では漢字の読み通り「じんざいじま」と呼ばれていた。東條は細かく何度か頷くと、男性にしては高い声で話し始めた。

「知ってるなら話が早いや。さっそくで悪いけど、北原くんには来週から、その人財島に行ってもらいたいんだよね」

「……来週、ですか?」

 予想外の申し出に、思わずそう尋ね返す。東條は細い首に右手を当てながら頷いた。

「うん。うちから出向してた社員が家庭の事情で退職することになっちゃってさ。きゆうきよ欠員が出たから、穴埋めにうちで社員を出さなきゃいけなくなっちゃったんだよね」

 東條は早口に言うと、丸眼鏡の奥に光る細い目でじろりとこちらを見た。

「今の時代だとさ、結婚してる社員には簡単に転勤なんて言えないんだよね。パワハラとか騒がれて、SNSで奥さんが会社たたきとか始めちゃったりしてさ」

「転勤というと……住む場所も変わる、ということですよね」

 突然のことに、東條の説明はほとんど頭に入っていなかった。一つ気になったことをかろうじて尋ねると、東條はすっかり忘れていたという様子で付け加えた。

「あ、そうそう。人財島の社員は全員、島の中にある家具家電付きの社員寮に住んでるんだよね。リゾートみたいなとこにタダで住めるから、これ、正直ラッキーだよ」

 東條はそう言って北原に微笑みかける。大学入学を機に東北から上京してきた北原は、その頃見つけた安アパートで今も一人暮らしを続けていた。そろそろ転居を考えていたこともあり、社宅まで用意してもらえるとなると、転勤自体はそこまで悪い話ではないのかもしれない。東條は北原の心境を知ってか、畳み掛けるように続けた。

ゆりかって知ってるでしょ? うちの元最年少役員で、いま人財島の社長やってる子ね。彼女が社長やってるのもそうだし、要は人財島って、うちのグループで期待されてる社員が行くところなんだよね。だからまぁ、オッケーだよね?」

「あの、少し考えさせていただいてもよろしいですか」

 言葉を選びながら、慎重にそう答える。東條の話を聞く限り、人財島への出向は北原にとってもチャンスのように思えたが、さすがに今すぐここで決断するのは難しかった。東條は回答を聞くか聞かないかのうちに、右手を顔の前で振った。

「あ、あんま考えてもらう余裕はないんだよね。うちから人出すのは決まってて、まだ業務抱えてなくてあっちでも活躍できそうな社員、北原くんくらいしかいないわけよ。茅野の許可はもらってるからさ、わざわざ来てもらったし、よっぽどの事情がない限りここで決めてもらっていいかな? 北原くんなら、新天地でも絶対やってけるからさ」

 東條の態度は、暗に北原には選択権がないことを示していた。知らない土地へ赴任することへの不安は少なからずあったが、半ば受刑囚のような今のリモートワーク生活が続く限り、東京にいるメリットはほとんどないと言っても過言ではない。詳しい業務内容は分からなかったが、東條が語る島の勤務環境は、自分をこのへいそくかんから解放してくれそうな予感があった。

「……そういうことであれば、ありがたくお受けします」

「良かった。北原くんならきっと受けてくれると思ったんだ。じゃあ、ここにサインと印鑑だけもらっていい?」

 東條は早口に言うと、すぐさま用意していた契約書類を差し出してきた。その手際の良さに閉口していると、東條はさらに続けた。

「契約上は出向ってことになるんだけど、富士もそうだし、うちの場合は出向って栄転のケースの方が多いんだよ。ほら、船が港から出るときも出港って言うだろ? だからまぁ、船の方の『シュッコウ』だと思って、楽しみに準備しててもらっていいから」

 東條のあまりピンとこない励ましに愛想笑いを浮かべながら、北原は書類に署名し、必ず持ってくるよう言われていた印鑑をす。どうやら今日の出社は、このなついんのためだったらしい。書類作成の様子を見つめる東條の目つきは陰険で、この場で改めて書類の内容を確認できるような雰囲気ではなかった。

「助かった。本当に助かったよ。じゃ、詳細はまた後で送るから。がんばってな」

 東條に肩を叩かれながら、慌ただしく会議室を出る。北原は、急に大海原へ放り出されたようなどこか落ち着かない気持ちで、元来た道を一人戻っていった。


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