第一章 人財②
硬い背もたれに身を預け、酷使した両目をぎゅっと閉じる。二時間近く作業を続け、ESのスクリーニング作業はやっと三百番台まで終わったところだった。デスクトップの片隅にある「N」と題したファイルを見つめ、ため息を吐く。作業中は、希望就職先に業界最大手の企業ばかりを記載している「N人材」のESがやけに目についた。
「今の社会は、そんなに甘くないよ」
多くの大人から呪文のように聞かされてきた言葉を、今は自分自身で口にする。脳裏には、睡眠時間を削り、自己PRの文面を何度も何度も書き直し、胃薬を服用して面接へ臨んだ就職活動の日々がよみがえっていた。
大学時代、映画研究会に所属していた北原は、映画業界を第一志望に就職活動を行うつもりでいたが、映画関連企業はここ数年、規模の大小に関わらず、新卒採用を絞る方針を打ち出していた。先輩や
スクリーニングという手法は、なかなか残酷だと思う。ただ、最低限の学歴も実績もなく、自身の能力を磨く努力もしてきたとは思えない人材のESに、今の北原の倍近い希望年収などが書かれているのを見ると、どこからか「社会を甘く見るな」という強い気持ちが燃え上がり、そのESファイルを勢いよく「N」のフォルダへと放り込んでしまうのも事実だった。
そろそろ昼休憩にしようと思ったところで、ビデオ通話のコール音が響く。目の前のディスプレイには「茅野愛由美」の文字が表示されていた。画面に映る範囲におかしなものがないことを確かめ、受話器のマークが描かれた緑色のボタンをクリックする。
「おつかれさまです」
『おつかれさま。今ちょっといいかな?』
「はい、大丈夫です」
心中に浮かんだ言葉をすべて飲み込み、短くそう答える。茅野は満足げに
『北原くん。どうして私に呼び出されたか分かる?』
「……ポジティブセンサーの件でしょうか」
『そう、分かってるじゃない』
茅野は不敵な笑みを浮かべたまま言うと、首元につけた赤いスカーフに軽く触れた。
『ここだけの話だけどね、うちの部の新入社員の中で、北原くんのポジティブセンサーの平均点はいちばん低いの』
「それは……申し訳ございません」
北原が反射的に謝罪の言葉を口にすると、茅野は画面の前で小さく手を振った。
『ううん、謝ることじゃないの。もしかしたら何か悩んでることがあるんじゃないかと思って、個別につないだだけだから。北原くん、何か私に言いたいことない?』
自分の「ポジティブセンサー」の点数が低いことも、その原因が何であるかも、北原は見当がついていた。ただ、それを打ち明けるためには、少なからず勇気が要る。茅野はこちらがすぐ反応しないと見ると、ぐっと身を乗り出した。
『会社のことでも、個人的なことでもなんでもいいよ。はじめの研修のときに言ったでしょ? メンターって、会社にいるお兄さんお姉さんみたいなものだから』
茅野は不敵な笑みを
「あの、理念の斉唱についてなんですが」
『何が気になってるの?』
茅野は小首をかしげ、すぐさま鋭い声で尋ね返してきた。
パシフィストが「理念先行型経営」を掲げていることは就活中から折に触れて聞いていたものの、その実態はあまりに宗教的で、自分の理解を大幅に超えていた。茅野の声にやや
「その、理念が重要だというのは重々承知していますが……業務の前に毎日斉唱するというのは、やや、過剰ではないかと。たとえば、斉唱を行うのは週のはじめの月曜だけとした方が、業務の生産性も、向上する気がするのですが……」
パシフィストグループの「人と人をつなぎ、平和で生産性の高い社会を実現する」という理念自体には北原も共感していた。だからこそ、生産性を高めるとは思えない連日の宗教的な理念斉唱には疑問を抱き、どうしても素直に従う気にはなれなかった。徐々に自信を失い北原の声が
『メンターとして、北原くんの正直な気持ちが聞けて
茅野は両手を前に組むと、不気味なくらい落ち着いた口調で続けた。
『北原くんの提案は、私が
「それは……ありがとうございます」
『じゃあまた。北原くんには、期待してるからね』
茅野は思わせぶりに首を傾げると、小さく手を振ってビデオ通話を終了した。通話が完全に途切れたことを確認してから、北原はほっとため息をつく。
こんな世相なのだから、就職できただけでもありがたいと思わなくちゃいけない。会社や社会への不満なんて、漏らすべきじゃない。そんな声は同じ新入社員の仲間からも山ほど聞いていた。だが、自分自身に噓を吐き続けることが想像以上に楽ではないことを、北原はこの二カ月で学んでいた。茅野から送られてきたチャットに返事を打ちながら、これで良かったのだと思う。ずっと抱いていた違和感を上司に吐き出せたことで、胸の内には小さな充足感が満ちていた。
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