第二十五話 悄然後祭

 私は傷めた右足を引きずり、ディアちゃんを抱えて医務班の所に向かった。どんな道を歩いたのか、全く覚えていない。ディアちゃんも秘能マダスの使い過ぎで命源素プリムを酷く損耗しているようだ。私の腕の中でぐったりとしている姿がとても痛々しかった。


 ――違う。単なる身体の疲れや怪我の痛みなら、ここまではならなかった……私もディアちゃんも、きっとそうなのだ。


 私達の計画は、初日で頓挫した。あれだけ必ず護り通すと啖呵を切った黒埜さんをむざむざと連れ去らせてしまった。その落胆と悲嘆が、今のディアちゃんや私の心に振り払えない暗闇をもたらしている。


 同時に、不甲斐ない自分達への怒りが、まるで釜の底にこびりついた黒炭のように魂を蝕んでいる。


 何度でも言おう――私は、失敗したのだ。

 ガルハルド様から賜った新たな役目も、いきなり果たせなかった。どの面を下げて報告に上がれば良いのか、今の私には分からない。分かりたくもない。


 医務室に到着した私は、ディアちゃんを病床に横たえ、自分もそのまま崩折れた。何故か涙は出ない。医務班の人達が私に何かを語りかけ、右足の様子を調べて膏薬と包帯を巻いてくれてはいるが、正直痛みすら感じていなかった。


 私は一体これから、どうすれば――

 黒埜さんが紺碧龍王ゾル・ドレッグに連れ去られてしまった今、彼の生存は恐らく絶望的だろう。私は己の言葉を違えてしまった。黒埜さんの期待を裏切ってしまった。世界の希望を潰してしまった。私は――


 私は――どうしたら良いの。

 誰か、教えて。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 約束したんだ。必ずケンを守り抜くって。どんな事が起きようと、僕が彼の安全を絶対に破らせないって。絶対に死なせないって。


 けどその誓いはあえなく引き裂かれた。文字通り理不尽極まりない暴虐の権化に。紺碧龍王ゾル・ドレッグはこの世界で最強の特級精霊体、【天精族オルムラン】だ。正面から当たってまともに勝てる相手じゃないのは分かっていた。


 悪いのは僕達だ。僕達が、無策のままあれとの邂逅に臨んだのが原因だ。二刻限二時間もあったのに、紺碧龍王ゾル・ドレッグの習性や対策も知っていたはずなのに、僕達は……いや、僕は何もできなかった。


 時間が足りなかっただとか、まさか紺碧龍王ゾル・ドレッグがケンを攫ってゆくなんて想像すらもできなかっただとか、そんなのは全て言い訳だ。僕は結果として、ケンを失った――


 ――いや、待て。

 紺碧龍王ゾル・ドレッグの習性を知っていた……だって? 笑わせるな。お前はそう言いながら、大事な事を一つ忘れていたじゃないか。


 酷冷山脈の奥に棲まうあの化物の事で、鍵になる習性を思い出した。

 もし僕の記憶と経験に間違いがなければ、ケンは生きている・・・・・かもしれない。


 そうだ、まだ死んだと決まった訳ではない。僕達はケンの死体をまだ見ていない。諦めてしまうにはまだまだできる事がある。

 さあ、考えろ、僕。最短最速で、ケンの探索と救出に向かえる、その妙案を――


 ――諦めるのは、まだ早いぞ?


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 医務室で応急処置を受けた私は、そのまま病床に横たわって呆然としていた。今も頭の中の整理がついていない。泣きたくても泣けないもどかしさにすら腹が立つ。


〈リョーカ、きこえるか。つニャがっているか〉


〈でぃ、ディアちゃん。体の方は大丈夫ですか? 無理はしないで――〉


〈そんニャこと、いっているよゆう、ニャい。ぼくたち、ケンさがしにいく〉


〈え……それは一体、どういう――〉


〈おもいだした。ドレッグのしゅうせい。ケン、いきている、かのうせいある〉


 黒埜さんが生きている可能性がある……? それが事実なら確かにこんな所で油を売っている訳にはいかないけれど……!


〈お願い、何を思い出したのか聞かせてくれるかしら? 黒埜さんの生死に関わる、紺碧龍王ゾル・ドレッグの習性とは一体?〉


〈ん。ドレッグ、ごはん、もちかえらニャい。いつも、そのばで、あるだけたべる〉


〈そ、それは……つまり、持ち帰られた・・・・・・黒埜さんを食料としては見ていないと?〉


〈ん、そう。だから、いきている、かのうせいある〉


 その言葉は私にとって救いの福音だった。光が一切差さない暗闇の中に突如現れた一条の光明。あるいは地獄に垂らされた一本の糸。縋るには頼りない希望だけれど、今の私にはそれだけで十分だった。


〈それなら、早く助けにゆかなければ……! でもどうやって酷冷山脈まで――〉


〈いま、かんがえてる。ニャんとかして、すぐにむかえるほうほう、ニャいかニャ〉


〈……ガルハルド様に聞いてみましょう。何か知恵をお貸し下さるかもしれません〉


〈ん。でもリョーカ、そのあしニャおして。それでニャいと、うごけニャい〉


〈……完全に痛みが取れるまでには十日程かかるそうです。けれど大丈夫。私は元々痛みには強いので――〉


〈ダメ。ドレッグともしニャにかあったら、にげられニャい。だから、ニャおして〉


 ディアちゃんにきつく言われた。でもその気持ちも言葉の意味も良く分かる。私の体が万全じゃなければ、私もディアちゃんも、何より黒埜さんも危ないのだ。だからディアちゃんの叱責に、私は何も言い返す事ができない。


〈……やっぱり、私は本当にここぞと言う時に、ダメなんです〉


〈よけいニャこと、かんがえるニャ。とにかく、あしニャおすんだ〉


 ディアちゃんからもたらされた希望の光。それを追いかけるには、私という存在は足かせにしかなっていない。私は無言で頷いてはみせたけれど、正直言って今だけはこの足が恨めしい。


 本当に、私は一体何をしているのだ。

 皆の足しか引っ張っていないではないか。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 私の城塞が酷い目に遭ってしまったが、リョークルの言う通り、それは人が無事でありさえすれば何度でも復興ができる。その意味でリョークルと異界の預言者殿には本当に感謝しなければならないだろう。ディア殿も彼女らの言を支える立場として、貢献を果たしてくれていた。そのお陰をもって、人的被害は奇跡的に極少数だった。


 しかし……

 その〝極少数〟の中に、我々にとっての最重要人物が含まれているとは。

 異界の預言者殿が紺碧龍王ゾル・ドレッグに拉致されたらしいという報告を受けた時、思わず頭を抱えてしまった。賓客として遇し、失礼のないように面倒を見ると約束したその言を私は破る事になってしまった。


 リョークルも責任を感じているであろう。ステルクロウもだ。我々は全員、彼への恩義と責任を感じている。

 だがあの紺碧龍王ゾル・ドレッグに連れ去られてしまった以上、異界の預言者殿の安否は絶望的と判断せざるを得まい。今回の事に加え、異界での部隊指揮に何か問題が生じておったリョークルが、自信と矜持を喪ってしまいかねない程の傷を負う恐れもあるだろう。彼女の心が壊れてしまわないか、今はそれが一番の気がかりである。


 何とかして彼女達を慰められないものか……


「ガルハルド様、今よろしいでしょうか」


「うむ、入れ」


 城の上層部は半壊し、私の執務室も謁見の間も見事に崩壊してしまった。今私は、城塞地下の下士官兵用宿舎に仮の部屋を用意して貰っている。その扉がノックされ、私の返答と同時に副官のステルクロウが入ってきた。


「失礼致します。現在の状況ですが――」


 彼も決死の防衛隊を率いて心身ともに疲労困憊であるはずなのに、私の副官として被害状況を事細かに報告してくれている。諸々落ち着いたら、この男にも何かの形で報いてやらねばなるまい。


 報告の中で民間人への被害は微々たるものだったのがせめてもの慰めだ。その他、城壁や家屋などの損壊状況が分かっている限りで詳細に報告される。

 紺碧龍王ゾル・ドレッグが我が城塞を強襲した際リョークルが護っていた異界への転移門が完全に破壊されてしまった事も痛手ではある。あれほどの大規模な術式の固定化は、簡単に行えるような手間でも命源素プリムの量でもないが……それは後で考えよう。


「我が隊に所属する者の被害状況については――」


 リョークルが右足に重度の捻挫を負った他、【飛竜遊撃隊カドーロガルフ】の隊員が一人、城壁の崩落に巻き込まれて全治数月限数ヶ月の重傷を負っているなど、軍属に関してはそれなりに被害が出ているようだ。決死防衛隊からの殉職者は三名、これは後で特進と遺族への補償など、手続きを速やかに進めなければならない。


 ――そう言えば。

 リョークルが上級士官学校で訓練に励んでいた頃、確か【騎竜術ガルフラム】の成績はかなり優秀だった記憶だが……もし彼女がいつまでも塞ぎ込んでいるようなら、臨時ででも飛竜遊撃隊カドーロガルフに入れて余計な事を考える暇を与えぬのも一つの手かもしれんな。


 一応頭の隅に入れておくか……

 しかし、本当に頭が痛い。相手が普能人フールとは言え、我が城塞の客として迎え入れた者をむざむざ死なせてしまうなど……あってはならぬ失態だった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 赤い太陽が中空を過ぎ、地平線に向けて傾き始めた頃、眼下に広がる深緑の森林の遥か上空を飛ぶものがあった。


 それは途方もなく巨大であり、途轍もなく凶悪で、比類なき力を誇る、この世界を統べるとまで言われる君臨者。両翼をはためかせる度に強烈な冷気が辺りを凍らせ、息を吐く度に純白の結晶が嵐に舞う。鱗は蒼く、尻尾は長く、爪は鋭い。角は尖り、瞳は輝き、翼は強い。


 天精族オルムランとも称される特級精霊体、紺碧龍王ゾル・ドレッグは、自分の巣へと急いでいるかのように猛烈な速さで滑空していた。前脚はまるで何かに祈りを捧げるように、そして大事な宝を包み込むように、何かを運んでいる。


 運ばれているのは一人の男。意識はないが命に別状もない。本来なら強烈な冷気で瞬く間に氷の彫像と成り果てるはずの男は、しかし体温を失う事もなく、蒼龍の掌の中でずっと夢を見ているようだった。


 ――モルドニア伝話に曰く。

 紺碧龍王ゾル・ドレッグは苛烈にして峻烈、暴虐にして暴食、無頼にして無敵。

 そんな紺碧龍王ゾル・ドレッグを討ち果たさんとして、数多の勇者戦士があえなく散り続ける事幾星霜、今は最早百万年余の時を経ている。


 そんな存在が、一体何を目的としてドルムセイル城塞まで赴いたのか――

 ――この時はまだ、誰も知らない。



 第一章 ―了―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る