第13話「グッドモーニング、東京」

 アジア最大の都市、東京。

 大昔の戦争で焼け野原になってから、既に二百年近くが経とうとしていた。今では復興を通り越して、大復活……何度もの世界恐慌を超えてきた、東洋のバビロンとはこの街のことである。

 そんな東京の朝は実は、旧世紀と全く変わっていない。

 ぎゅうぎゅう詰めの電車の中で、チユリはそれを実感していた。


「むぎゅ……こ、これだけは、毎朝……慣れないんだよ、なーっ」


 在宅ワークを選ぶ同僚たちがいるのも、うなずける話だ。

 日本は人口の約一割が東京に住んでおり、特に都心部での勤務を選択する者たちが多い。必定、朝の通勤ラッシュは熾烈しれつを極める。

 チユリはホームとは逆側のドアに押し付けられる形で、小さく文庫本を開いていた。

 携帯電話オプティフォンは使えない。

 人が密集し過ぎてて、光学ウィンドウを浮かべる空間がないのだ。


「たまには紙の本も、いとエモし……ってか、やっぱ紙は必要かー」


 西暦2141年、人類の暮らしぶりはさして変わってはいない。

 逆に、悪しき風習と言われていた多くの慣例が、文化的な価値を見いだされて復権していたりする。相変わらず仕事の付き合いで飲み会はあるし、残業からのデスマーチといったブラックな労働状況も相変わらずだ。

 この満員電車だってそうである。

 極度に科学技術が発達し、社会システムが洗練されたゆえに……ほぼ全ての人間が自宅にいながら全てをまかなえるようになった。すると不思議と、人とのふれあいを求めて職場を外に求める人間が増えたのである。

 電車に乗れば他者に出会える、そう思ってる者すらいるそうだ。


『次は、御徒町オカチマチ。御徒町~! The next station is Okachimachi!』


 会社の最寄り駅が近付いている。

 アナウンスはAIの電子音声で、この列車は自動運転で運行中だ。この声は確か、最近は洋画の吹き替えやアニメでもおなじみデジタル声優のものである。百年前の伝説的声優、ハヤミ・メグシバラをサンプリングした売れっ子データだ。

 電車の中の密接感に、僅かな動きが揺れて連なる。

 やがて、減速する感覚がチユリに到着を伝えてくれた。


「おし! お、降りますー! すみませーん、ちょっとごめんなさーい!」


 人混みをかき分け、多くのつぶやきやささやきと擦れ違う。

 降りる人も残る人も、この一瞬の中で確かに同じ空気を共有していた。

 晩秋の冷たい空気が、満員のもった熱気と入れ替わる。

 どうにか這い出て、チユリは一息ついた。

 背後では、この駅から乗る客たちが自分を車内に押し込んでいる。

 ホームを行き交う人々は足早で、白い呼気だけが漫画の吹き出しみたいに見えない台詞せりふを引き連れていた。

 チユリも空中の立体映像時計を見上げて、急いで歩き出した。


「やっば、遅刻する!」


 携帯電話が震えて、アニメの挿入歌が流れ出す。

 メールの着信は、同僚のソウジだ。彼はすでに出社済みで、もうすぐ始業時間である。オフィスは駅から歩いて五分の立地だが、すぐ近くが今はもどかしい距離だった。

 因みに、先にソウジにこっそりタイムカードを押してもらう、なんてズルはできない。何故なぜなら、会社ではゲートにロボットが常駐していて、社員の出入りをデータ管理しているからである。

 そのため、激務が続くブラック企業なチユリの会社でも、タイムカードを押してからのサービス残業だけはないのが救いだ。


「え、うそぉん!? 次のプロジェクトの打ち合わせ、朝からに変更!? わーっ、マジヤバーイ!」


 チユリは走った。

 手に持つ小さな紙袋に、手を突っ込んでまさぐる。

 ラップにくるまれたサンドイッチが入っていて、中身はレタスとチーズ、そして生ハムだ。味わう暇も惜しんで、エスカレータを迂回うかいして階段を駆け下りる。

 多くの通勤客を追い越し、そのままチユリは改札へと全力でダッシュした。

 同時に、取り出したサンドイッチにかじりつく。

 出社後は直接会議室に行って、ギリギリで間に合う……そういう瀬戸際せとぎわだった。


「ふががっ、美味うまっ! マスタードとマヨネーズの絶妙な、っていうかこれもう間に合わなくない!? うおお、神様! 仏様! ナギ様ーっ!」


 踊り場でターンを決めて、更に階段を急降下。

 その時、チユリの目の前を影がよぎった。

 すらりと長身の男性が、進路上でこちらに振り返ったのだ。

 回避しようとしたが、中途半端な擦れ違いが接触を生む。

 思わずよろけたチユリは、そのまま転びそうになった。

 だが、冷たい床のタイルは彼女を迎えてくれなかった。


「おっと、危ない! 大丈夫ですか、お嬢さん」


 男性の手が、チユリを抱き留めていた。

 腰に回る腕は、全く動じた様子もなく揺るがない。

 見上げればそこには、穏やかに微笑ほほえむ精悍な顔立ちがあった。


「ナギ、様……! あっ……これ、あれだ」

「うん? どうかしましたか?」

「い、いーえっ! どうもゴメンナサイ! ……あれ? サンドイッチ」


 まるでダンスのワンシーン。

 そこには革ジャンにジーンズの……ナギ様がいた。

 ナギ様というのは、チユリが大好きなゲーム『聖剣乱舞流せいけんらんぶる』のキャラクター、草薙剣クサナギノツルグのことである。正確には、草薙剣を擬人化した美青年だ。

 2.5次元としか表現できない微笑みが今、チユリを見下ろしている。

 それも、四捨五入ではなく端数切捨て……限りなく二次元に近い美形だ。

 彼はふと高い天井を見上げて、もう片方の手を振り上げた。


「サンドイッチ、は……これかな?」


 接触時にチユリの口を離れたサンドイッチが、落ちてきた。

 それを男性はあっさりとキャッチする。

 その間も、チユリの腰に回した腕はぴくりともしない。

 抜群の安定感で、チユリは気付いた。

 彼はアンドロイドだ。


「やあ、これは美味おいしそうだね。はい、朝ごはん。返すよ」

「ふぁっ! ふぁりがふぉ、ごふぁいまふ」


 朝から美青年に抱き寄せられて、サンドイッチを食べさせてもらった。

 周囲の奇異の視線も、全くチユリには意識できなかった。

 嗚呼ああ、二人だけの世界って本当にあるんだ。

 これが一流アスリートだけが体験する、極限の集中力……聖域ゾーンってやつだ。アニメや漫画だけの世界だと思っていたけど、聖域サンクチュアリは本当にあったんだ!

 脳裏に外飛ぶ城が浮かんだ。

 ばっかおめえ、そりゃサンクチュアリじゃなくてラピュタだ!

 ネタが混線するくらい、チユリのオタク脳はフル回転でうっとりしていた。


「はぐぐ、んぐ……っと、えと、ごめんなさい。急いでて」

「いや、いいさ。ほら、立てるかい?」

「バリサンです! じゃない、大丈夫です」


 フラグ、立ってます。

 ただし、一方的に。

 男性はなるほどよく見れば、アンドロイド特有の整い過ぎた顔に笑みを浮かべている。機械的な冷たさは感じず、ただただとうとい。そのご尊顔そんがんはもう、後光があふれそうなほどである。

 チユリはようやく彼の手を離れると、改めて頭を下げた。


「はは、怪我がなくてよかったよ。じゃあ、僕はこれで」

「は、はいぃ……」


 夢みたいな邂逅かいこうは、そのまま綺麗な思い出へと去ってゆく。

 そのままなんの進展もなく、男性は去っていった。

 人混みに紛れて消えるその背を、気付けばチユリは呆然ぼうぜんと見送っていた。

 それでも手は、せっせとサンドイッチを口の奥へ押し込んでいた。


「んぐ、はあ……ごちそうさま。二重の意味で、ごちそうさまだよお!」


 サンドイッチを完食しても、まだ胸の奥にドキドキが居座っていた。

 僅か一瞬のできごとだったけど、驚きがときめきに変わり続けている。この化学反応は多分、世界中に無数に散りばめられているのだ。それが欲しくて、今でも人類は外の社会へと理由を付けて出るようにしてるのかもしれない。

 チユリもこの時ばかりは、オフィスワークを選んでよかったと思った。


「って、やっべー! もうこんな時間!? ……オワタ」


 ふと携帯電話を取り出せば、時刻はギリギリのギリである。

 というか、もう始業時間数分前だ。

 急いでチユリは、そのまま携帯電話を手に走り出す。忙しく歩く人の波に入り込んで、そのまま流れの一部となって外へ。改札では今日も、駅員ロボットがカメラだけの顔で出迎えてくれた。

 手にする携帯電話は、かざさなくてもロボットが読み取ってくれる。

 こうしてチユリは、見慣れた御徒町の駅前を走り出した。


「くーっ、エモい! エモ過ぎる! 今すぐ誰かに喋りたい、語らいたーい! でもっ、いーまーはー、仕事ぉぉぉぉぉぉ!」


 猛ダッシュ、全力疾走である。

 スーツ姿にパンプスだが、靴は比較的かかとの低いものを選んでいる。

 ぶっちゃけスニーカーでもいいのだが、どうせ会社のデスクではサンダルに履き替えるからいいのだ。

 カツカツとヒールをアスファルトに歌わせ、チユリは走る。

 その背を、老いた視線が見詰めているとも知らずに。

 因みにこの日、紙一重の差でチユリは遅刻をまぬがれるのだった。

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