第12話「Morning grow it」
朝だ。
朝が来た。
チユリは覚醒と同時に、まぶたを
そのままぼんやりと、ついつい二度寝しそうになってしまった。
だが、今日は出社して仕事をするつもりである。
彼女のデバッグを待っているプログラムが山積みなのだ。
「でも、あと、あと……あと、七分だけ……」
半端な時間に意味などない。
あまりの寝心地の良さに、思考がまだ眠っているのだ。七分、これは今のチユリが思いつく一番大きな数字だっただけである。
だって、肌寒い季節になるほどにお布団は温かい。
背中がぽかぽかと、柔らかい感触で温められていた。
「メリアはあったかいにゃあ……メリア……メリア? ああ、メリアかあ」
まだ寝ぼけている。
チユリは今、背中に張り付くようにして、背後からメリアに抱き締められていた。パジャマ越しに体温が伝わってくる。
チユリはただそのぬくもりに甘えてしまう。
腰に回るメリアの手に手を重ねて、そのまま再び睡魔に身を委ねた。
しかし、逆にメリアは小さく鼻を鳴らして目を覚ます。
「ん、っ……あ、あれ? ここは……あっ、わたしってば! チユリ! もしかして!」
「んあー? おはよー、メリア。おやすみ……」
「寝ないでください! 朝です! あっ、もうこんな時間! 遅刻しますよ!」
「あー、うん。今日、学校休むよう」
わたくたと離れようとしたメリアを、振り向いて今度は逆に抱き締め返す。
チユリに深い意味はなく、それを考える思考も今は停止していた。
だが、目覚めと同時にフル稼働で、メリアが長身の抱擁からなんとか這い出そうとする。もがく彼女を閉じ込めるように、身を縮めてチユリは完全に二度寝フェーズに突入していた。
そんなチユリの眼前に、メリアは枕元から取り上げた目覚まし時計を突きつけてくる。
「チユリ! 見てくださいチユリ! あと、休むのは学校じゃなく、会社ですっ!」
「うへへ……それ、今ならプレ値だよ……昔さあ、好きなアニメが……あたし、買ったグッズは積極的に、使う、タイプだ、から」
「この、ちょっと子供っぽい目覚まし時計の話はしてません! もう八時過ぎてます!」
「そっかあ、八時かあ……八時……ハチジ、エイトォクローック……!?」
チユリは飛び起きた。
頭が真っ白になって、展望が真っ暗になった。
多分、顔は真っ青になってるに違いないと思った。
確かにメリアの細い腕が、現実を突きつけてくる。アニメキャラに彩られた目覚まし時計は、残酷に時を
「なんじゃとてーっ! どどど、どうして……はっ! そうだ……昨日、酔って」
「わたしも
「オワタ……終了のお知らせだよーっ!」
「終わってません! 始まってすらいませんし、終わらせませんっ。……そ、それより」
はたとチユリは我に返った。
最短で洗顔と髪とお化粧、着替えて15分。
ダッシュで駅に向かって、体よく電車に乗れたらギリギリセーフだ。
因みに、今日だけリモートワークを申請するというのは、これはなかなか難しい。事前に会社への申し出が必要だし、なにより自宅に仕事のためのコーディングを持ち帰っていない。
データを転送してもらう手間を考えれば、やはり出社するしかないのだ。
そして、さらに気付いた。
チユリはギューッとメリアを抱き締めていたのだった。
「あわわっ、ゴ、ゴメン!」
「いえ、そこは全然オッケーですっ。そのためのわたしですから。でも、今は」
「そうだ、会社……うわっ、髪やばい! 爆発してる! ととと、とりあえず
「落ち着いてください、チユリ。まずは身だしなみです。わたしも手伝いますから」
チユリが解放してやると、振り向くメリアが見上げてくる。
彼女は涙目のチユリにニコリと
そして、真っ先にベッドを降りるや小走りに駆けてゆく。
「手早く朝ごはん、作りますねっ! 出社後にオフィスで軽く食べられるようにしますっ」
「あーりーがーとーぉぉぉ! うう、メリアはほんといいお嫁さんになれるよぉ」
「それはいいから、手と頭とを動かしてください。本当に遅刻しちゃいますよ!」
「は、はいぃ」
まるで母親に尻を叩かれてる気分だ。
実際には、本当の母親にはあまり構われたことはない。家族仲は良好だし、赤ん坊の頃は人並みに世話を焼かせただろうけど。だけど、チユリは物心ついた頃から手のかからない子供だったのだ。
それが今は、今日に限ってこの体たらくである。
ちらりと見れば、こたつの上にビールの空き缶が転がっていた。
とりあえず今は、敏腕プログラマーで無駄にグラマーな美人OL
「うおおおっ、髪っ! 髪がやばーい! なにこれ、適当に
洗面所で絶叫、そして悪戦苦闘が始まる。
慌ただしく歯磨きと洗顔を終えて、ドライヤー片手にヘアブラシを
だが、長い黒髪は普段の
チユリは人生で何十度目かの、断髪しようという安い決意を
「くっそー、絶対髪切る! もぉ、切るー!」
「ちょっと貸してください、チユリ。それと、落ち着いて」
背後からメリアが、そっとドライヤーとヘアブラシを取り上げる。彼女に
シュッシュと霧吹きの音がして、メリアの手が静かにドライヤーを歌わせていた。
さっきまでの散々な髪が、今は嘘のようにブラッシングで流れてゆく。
そのままメリアは、慣れた手付きでいつもの三編みに
「これでよしっ! チユリの髪、綺麗なんですよ? 切るならもっと、もうちょっとちゃんとした理由がほしいですねっ」
「ま、そだね……ありがと、メリア」
「いーえっ! ……わたしこそ、ありがとうございます」
不意に礼を言われて、肩越しにチユリは振り返った。
メリアはゆるい表情でにっぽりと笑うと、本当にほがらかに語った。
「家族にも色々あるから……わたし、結構チユリのいいように、好きな距離感で接してもらっていいんです、よ? それが、いいんですっ」
「例の、理解ありますから、ってやつ? でもさ、メリアは抱き枕じゃないんだし」
「ふふ、そうですね。でも、お互いぐっすり眠れたので、それはそれでいいと思いますけど」
メリアは洗面所を片付けにいってしまった。
そういうもんかなー、と思いつつ、ふと思い出してチユリは赤面した。朝から顔が火照って、酷く熱い。
人と寝るって、こういう感じらしい。
ただ寝るだけでも、こうもドキドキと心臓が高鳴る。
そして、自分でも言った通りだが……メリアは抱き枕じゃない。裏返さなくても、物凄くセクシーだと今は思う。先日から意識させられていた気持ちが、今は本能的にも感じられるのだ。
「いやいや、でもあたしはノンケ! 腐女子でもノンケ! リアルは……リアルは」
リアルなメリアの感触が、今も身体に染み付いてる気がした。
とても温かくて、安心する。
アンドロイドって、凄い。
チユリは、同じ人間に対しての手間も時間も惜しんだ。時間をかけてでも、トライ・アンド・エラーで人間の恋人を作るのが面倒だったのだ。
それで、理想の恋人アンドロイドをオーダーした。
手違いでやってきたメリアでさえ、こんなにも心がときめく。
これ、ナギ様と一緒の生活が始まったらどうなるのだろうか。
「フヘ、フヘヘヘヘ……いいじゃんかよぉ、もぉ……薔薇色の人生ってやつじゃんねえ」
手早く化粧をしてスーツに着替えつつ、チユリはだらしなく顔をゆるゆるに緩めていた。
もうすぐ、甘い生活が始まる。
そこにメリアがいないのが、ちょっと寂しいけど……でも、メリアにも彼女の人生があって、彼女を求めた人がいるのだ。そう考えると、安易に引き止めることもできない。
今という時代、人間もアンドロイドも自分の人生を生きている。
人という単語はもう、その中に人間とアンドロイドをほぼ等しく内包しているのだ。
「よっし、武装完了! 時間は……うーん、微妙に間に合うこの感じなあ」
毎日の通勤を選んでいるのは、いつもチユリなのだ。自宅での作業ではなく、人が集う会社で人と働きたい。そうしないと、必要なことしかやらず、必要に応じた刺激しかない暮らしに
自己完結型の人間なので、せめてそこはと思う自分が、チユリは嫌いではないのだ。
「メリアー、じゃあ行ってくるね。今朝もサンキュ!」
「あっ、待ってくださいチユリ」
玄関で靴をはけば、パタパタとメリアが追いかけてくる。彼女は振り向くチユリを見上げて、ヨシ! と大きく
そして、小さな紙袋をそっと差し出してくる。
「こんなこともあろうかと! 余った食材のストックで作った、サンドイッチですっ」
「おおー、なんてこったい……メリア、気が利くっ! 偉い!」
「エヘヘ、気をつけて行ってくださいね。今日も余裕があれば、一緒に夕食を作りましょうっ!」
「おっ、いいねえ。目指せ残業ゼロ! んじゃ、いってきまーすっ!」
バタバタと慌ただしく、チユリは新しい一日へと飛び出した。
彼女と世界との接点は今日も、多くの人と共有される刺激に満ちている。その中にもう、メリアもいるのだ。
チユリは猛ダッシュでエレベーターに飛び乗ると、普段より何倍も元気に出社するのだった。
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