第50話 逃げる藍沢さん
「お、俺に勉強を教えてください! なんでもするから、お願いします!!」
彼の真剣な目に、力強い言葉。
額には汗を残し、それすら拭わずに、私の目を見る。
私は思わずドキッとした。
言葉を表面から撫でれば、テストでピンチな生徒にしか見えないし、実際そうだ。
だけど、私に彼はは晴れ晴れしさをまとった勇者に見えた。
何かを決断し、覚悟した、そんな表情はいつも以上にかっこよく見えた。
「ちゃんと、心は決まったんだね?」
私は決まり切った答えを、彼に求めた。
そして、彼の大きな頷きを見れただけで、私は十分だった。私はいくらでも彼の勉強に付き合う気概だ。
「じゃあ、私も気合入れなきゃね!!」
自分自身に言い聞かせるように、私はそう口にした。
日が暮れるまで勉強して、ある程度の区切りがついた頃、彼はシャーペンを置いた。
「だいぶ捗ったよ、ありがとう!」
彼は満足げな表情をしていた。
「すごい集中力だったよ。明日も気を抜かずに勉強したら、いい点、目指せるんじゃない??」
決してお世辞ではなかった。この集中力があれば、きっといい点を狙える。それだけ、必死に勉強していた。
彼は首をふりながら「いやいや」と言葉を濁す。でも、やり切った感はあったのか、否定はしなかった。
彼は恥ずかしさを誤魔化すかのように、口を開く。
「さ、坂本さんは、何がして欲しい??」
「何??」
私がゆっくりと首を傾げると、野村くんはポカンと口を開く。
「あれっ? 最初“なんでもする”って言ったじゃん。坂本さんはてっきり、“なんでもする”って言ったから勉強を教えてくれたのかと……」
「私、そんなに現金に見えるの!?」
「…………いい意味でね」
「今の間、間違いなくなんか考えてたよね?? いったい、どこがいい意味なんだろうね!?」
「坂本さん、目が怖いです……」
そんなことを言うから、私はさらに鋭く睨んでやった。
「今回は何もいらないや。私にとって十分してもらったし…………って、そのウソでしょ! って反応やめて」
彼の顔にはべったりと、信じられないと書いてあった。
「じゃあ、強いて言うなら、藍沢さんと仲直りして。その方が私も面白いから」
「面白いって…………その動機はなんだか癪なんだけど……」
「気にしちゃ負けよ」
彼は苦笑いをした。
そして、荷物をまとめると「じゃあね」と帰っていく。
彼は、荷物をまとめると「じゃあね」と帰っていった。
その後ろ姿を見ながら、ある決意をしていた。彼からもらった勇気は無駄にしない。
そのためにも、今は勉強に集中すると決めた。
* * *
窓の外からは太陽の光がこれほどかと言うほど差し込んで、廊下側からは週明けからつき始めたクーラーが冷たい風を送る。
今の席は教室の真ん中あたりで、寒すぎず暑すぎずの席だった。だけど、席を戻ってしまえば、暑すぎる窓側の席への移動となってしまう。まあ、それも夏休みまでの辛抱である。
今朝の
今は最後のテストの真っ最中。いや、あと5分くらいで終わるところだ。見直しを終えていて、あとは待つばかり。
日曜は自分でも信じられないくらい勉強が捗り、妹が怒るに怒れずに、逆に不機嫌になるよくわからない展開にまでなっていた。
それでも、これまでの遅れは手痛いもので、赤点を回避できるのがやっとの点数になっていると思う。だから、勝負は次回のテストに持ち越しになると思う。
そして、五分間経てば、テストが終わる。
伊藤曰く『テストが終わったら告白する』らしいので、今度こそ伊藤に先を越される前に、俺の結論を告げなければならない。今度こそ逃げられないようにしっかりと掴まなきゃならない。
「はい、じゃあテスト用紙回収して〜」
俺は先生がテストの枚数を確認するのをウズウズしながら待つ。ゆっくりと丁寧に数える姿に苛立ちを覚えながら、貧乏ゆすりをする。
彼女はドアに1番近くて、逃げ出してしまえば勝ち目はない。だから、逃げる意思がないことを祈るばかりだった。だけど、視界に入る彼女は、俺と同様に鞄を完璧に片付け、取手を握っていた。
間違いない、逃げる体勢だ。
「はい、テストおしまいです。解散してください」
スタートの号令が鳴った時、彼女の姿は一瞬にして教室から消えていた。このままだと見失ってしまう。俺も負けじと教室を出ようとする。
「野村くん? テストが終わった解放感はわかるけど、走らない走らない」
担任に止められてしまった。今だって藍沢さんは走って差を広げているだろうにと、そのもどかしさを押し殺し、苦笑いしながら教室を歩く。
一歩廊下に踏み出した時、担任の先生は俺を見ていた。おそらく走るなよと目で訴えていて、腕を掴もうと手がすでに伸びていた。だから、俺は……
「あっ! こら! 走らない! っていうか、躱さない!!」
体を捻って、先生の手をギリギリでかわし、廊下を駆け抜ける。後ろに誰の姿も見えなくて、前にも誰の姿も見えない。玄関にたどり着いて前を見る。彼女は右に曲がったことだけを知らせて、どこかに消えてしまう。
俺はさっさと靴を履き替えて、校門を右に曲がった。
でも、その先に、藍沢さんは居なかった。
住宅街や幹線道路。行ける場所なんていくらでもあって、右か左、信号を渡るか渡らないか、それらの一つを間違えるだけであっという間に見つけられなくなってしまう。
俺は住宅街でぐるりと一回り見渡す。そのどこにも藍沢さんは居なくて俺はがっくしと項垂れる。
「しまったなぁ…………」
そもそも彼女が無事家に帰ってしまったなら、それ以上手を出すのは、倫理的に不可能だ。それに、もし帰ってなくても、これだけの時間が開けば、隣町にでも行っているかもしれない。
ほとんどの状況で彼女を見つけるのは無理と告げていた。
『じゃあ、諦めるのか…………いや、まだ諦めたくない!!』
やっとわかった彼女との距離感、俺はどうしても藍沢さんを諦めたくなかった。
足をペチンと叩き気合を入れると、当てもないのに走り始めた。
* * *
もちろん藍沢さんは見つからない。探せど探せど、ただ同じところをぐるぐる回っているだけ。そんな感覚に陥ってしまう。だけど、近くにいるような気もして諦めきれなかった。
でも、もう遅くなっていて、空色は諦めろと言っていた。
それでも、諦めたくない俺は。頭を捻った。
俺の頭はテストで全力消耗した上に、もともと性能がよろしくない。それでも、絞りカスでも出ないかと捻り出した結果、ある人の顔が思い付いた。
たぶんこんなことをしても仕方ない、わかっていたけれど、それでも何かをしなくては気が済まなかった。
俺がそのアイコンをタップすると、数回の呼び出し音の後に、聴き慣れた声がする。前かけた時には、突然の大声が流れたから、少しだけ耳から離していたけれど、スピーカーから流れるのは、至って落ち着いた声の「もしもし」だった。
「ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど…………」
「小春がどこにいるかって??」
沙奈は間髪入れずにそう言い切った。まるで俺が聞くことを確信しているようで、そこに迷いはなかった。
「うん…………」
「その前に一つ確認してもいいかしら? 裕太は……藍沢さんに告白しに行くの?」
通話口の声からは沙奈の真剣な表情が浮かぶ。たぶん嘘をついたらすぐ見抜かれてしまう、そんな気がした。だから、素直な言葉を口にする。
「違う……」
「じゃあ、なんで小春を探しているのかしら? 別に告白しないなら、伊藤と付き合ってもいいんじゃないかしら??」
沙奈の声は少しきつかった。キープなんて許さない、そんな声が聞こえた気がした。だから…………
「伊藤と付き合ってもいいと思ってる」
「えっ?? そんな……いくらなんでもそれは冗談でしょう??」
彼女の声はうわずる。
「冗談じゃない。付き合ってもいいと思ってる。だけど……藍沢さんの隣にいたい!」
通話口からは、最大限の「はぁ〜???」が聞こえた。
「何言ってるのかしら? 私には裕太のいうことがわからないわ……」
「とにかく好きとか嫌いとかどうでもいいから、俺は藍沢さんの隣にいたい」
「…………もはやそれはプロポーズじゃないのかしら…………まっまあ、じゃあ、隣にいられるなら別に誰と付き合っていようといいのね??」
「それが俺の考えた関係だから」
「そう、なら好きにしなさい……」
沙奈は呆れたのか、諦めたのか、通話口から大きなため息が聞こえた。そして、ピコンっと音がした。
やけに近く感じた電子音は、おそらく通話口からのもの。
「沙奈?? なんか鳴った??」
「ううん、何もなってないわ。それより小春が何処にいるかっていう話だったわよね?」
「うん……教えて欲しい…………」
俺は電話に全ての集中力を傾ける。色濃く染まった住宅街に、どう考えても不可能な状況。そろそろ潮時だと思っていて、最後のチャンスだと拳を握る。
「たぶん隣にいるわよ?」
「はぁ??」
だけど、沙奈の口から聞いたのは、随分と腑抜けた解答だった。思わず間抜けな声が口から漏れた。
「出てこないだけで、近くにいるわよ?? 叫んでみなさいよ??」
俺はイラッとした。
こっちは全力で走り回って、暗くなるまで粘って。諦めるか諦めないかのギリギリに立っている。それなのに、彼女はまるでからかうような言い回し。途中まで真剣に話を聞いてくれたと思ったのに、最終的に心の距離がどうこうの話をしてきた。
せめて知らないのであれば素直に知りたいと言ってくれればよかったのに…………
俺は、彼女の声を待たずに、通話終了のボタンを押す。そして、大きく首を落とす。
余計にも疲れた気がしてため息が出たが、その時に手元が震える。俺はもう一つため息をついてから、その電話を取る。
「何いきなり切ってるのよ??」
「今の俺に余裕はないんだ……だから冗談は後にしてほしい……もう切るね??」
「あっ、ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!! 本当なんだって! とりあえず叫んでみなさい。いいから!!」
「あたりは住宅街だぞ、叫べるわけないだろ……」
「それでも!! 藍沢さんに想い伝えたいんでしょ!!!」
俺は思わず耳からスマートフォン遠ざけた。沙奈の声は厳しくて、大きな声だった。そして、沙奈が真剣なことは十二分に伝わってきた。
「わかった……考えてみる……」
「絶対よ、じゃあね!!」
そう言って沙奈は電話を切った。それでも、俺は近くにいるだなんて信じられなかった。この辺りを縦横無尽に動き回っていた俺と、教室から真っ先に逃げ出した藍沢さんが交わるわけさえなかった。でも沙奈は真剣だった。
『どうするか……本当に叫ぶか…………』
あたりを見渡しても家、家、家……
そりゃどこでも叫んだら勝率は高いかもしれないけど、今は制服のまま。みられたら間違いなくクレームは入る。
「どうしたもんか…………藍沢さんに想いを伝えるには…………」
なんてつぶやいてみるけれど、実際にやることなんて一つしかなかった。
俺は覚悟を決めると、大きく息を吸い込んだ。全く無意味な行動と分かっていても大きく口を開いた。
『俺は!! 藍沢さんの隣にいたい!!!!! 聞こえていたら、返事をしてほしい!!!!!!!』
側から見れば口を大袈裟にパクパクさせた不審者だ。だけど、近くにいる藍沢さんだけに想いを伝えるには十分だった。あとは返事を待つだけ。
しばらくして、俺は、膝をついた。
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