第48話 硬貨の裏表はややこしいけど、細かいことは気にしない主義の坂本さん


 俺はパジャマを着替えてもなお、ベットの上に張り付いていた。


 普段より数倍重力がかかっているような重い体に、力を吸収してくれないせんべいのような薄い布団。


 カーテンを開けてみたけれど、外はあんまり明るくなかった。ただ、曇りらしいから、ザーザーと音がないだけ、いくらばかしマシかもしれない。


 枕に顔を埋める。


 

 金曜日、すなわち昨日、藍沢さんは学校に来なかった。

 担任によると体調不良らしい。


 確かに湿度も高いし、体調を崩しやすい時期かもしれない。だけど、ある噂が立ったことも要因の一つとして無視できなかった。むしろそっちの方が可能性が高いとも言える。


 

「藍沢さんの家に伊藤か……」


 伊藤は「テスト明けが明けたら告白する」と言った。てっきりそれまでは、何もしないものだと思っていた。だけど、今この瞬間だって何をしているかわからない。


「どうせ逃げられるんだし……」


 結局、勉強会もできなくて、でも伊藤は家に招いて…………


 ネガティブなことばかりがどんどん頭に浮かぶ。



 俺は顔をあげると、机の上に目をやった。教科書が乱雑に積み上げられていて、開いてもない。


 このままだと本当にヤバいかもしれない。高校生で成績で留年なんて前代未聞だ。友達たちとも話せなくなってしまうかもしれない。


 だけど、どうでもよかった。


 俺は再びまくらに顔を押し付ける。同時に、バンっと扉が音を奏でる。


「クソ兄貴!!!!」



 俺は特大のため息をついた。



* * *


 大気はモヤっとした空気で満たされていて、どんよりとした雲色が気分まで落ち込ませる。


 今すぐに雨が降りそうな雰囲気。傘を持って出ようと思ったのに、ちゃっかり忘れてきた。


 さらには、机に山積みにされた勉強道具さえ忘れてきた。何のために歩いているか、わからない状況だった。


 妹とまたもやバトった結果、俺は家を出ることにした。行くような場所も思いつかずにフラフラとぶらついてから、最終的にはエオンに辿り着く。


 その大きな建物を見上げた時に、ふと藍沢さんの泣き顔が思い浮かぶ。


 朝、学校に行ったら藍沢さんが泣いてたんだっけ? 映画館に行くことになって、沙奈と三人で行ったんだっけ。


 藍沢さんは、まるで自分のことかのように泣いていて、その感情の豊かさが可愛いらしかった。


 そうやって思い返してみると、懐かしさと同じくらいに、寂しさも浮かんでいた。その思い出は、ただの記憶でしかなくて、今となってはもうありえない。心が苦しくなっていた。


 楽しかった思い出に浸りたかったのに、寂しくなった俺は、見上げた視線をもとに戻す。すると、エオンに入って行く人々の中に見覚えのある顔を見つけた。



「坂本さん??」


 彼女は立ち止まってこちらを振り向く。俺は手を振って近づくと、キョトンとしたまま待っていた。


 目の前に立ってなお少しの間があって、ようやく「あ、野村くん? どうしたの?」と返事があった。


 いつもであれば、目が合えば向こうから走ってきそうな坂本さんだから、俺は不思議に思った。だけど、本当に戸惑っていただけなのか、すぐにいつも通りの声にもどる。


「野村くん、ちゃんとテスト勉強やってる???」


「まあまあかな……」


「ちなみに今日は何問解いたの??」


 坂本さんは元気になったどころか、鬼教官っぷりを全開にしていた。こうなってしまうと、言い逃れはできない。俺は素直に言葉にした。


「まだ何も手についてない…………」


 俺は下を向きながら呟いた。見なくてもわかる。坂本さんのあの、やけに怖い笑顔が。俺は目を瞑りぎゅっと構えていたけれど、坂本さんの口調は柔らかかった。


「何か悩み事?」


「え…………」


「だって、野村くんすごい暗い顔してるよ??」


 さすがの坂本さんだった。俺の悩みなんてすぐ見抜いてしまう。やっぱり姉貴のような人だと思った。だから……


「坂本さん!! ちょっと話聞いてもらってもいい??」


 一瞬間があった。眉がピクリと動き、僅かに険しい顔になる。だけど、すぐに優しい笑顔にもどり


「もちろん! じゃあそこのベンチで話そうか?」


 坂本さんはエオンの前、駐車場と店の入り口の近くにあるベンチを指さした。



* * *


「じゃあ、野村くんは藍沢さんに話しかけたいけど、逃げられると。思い切って告白するような勇気もないけど、康太に取られるのは嫌だと」


「うん……もう、伊藤と付き合うなら、近づかない方がいいと思ったり、でもやっぱり藍沢さんとはお話ししたいし…………」


 坂本さんは顎に手を当て考えるようなそぶりを見せた。少しの間困ったように顔を顰めたけれど、すぐに元通り。周りが曇っているせいか、いつも以上に明るく見えた。


「野村くんはどうしたいの?」


「わからない…………」


「たぶん、そこをはっきりさせないとずっと悩むことになると思う。それで、私が思うに、藍沢さんを諦めるか、諦めないかだよね?」


 藍沢さんを諦める。その言葉俺の心に重くのしかかった。でも、伊藤に取られるのが嫌なのも藍沢さんを諦めてないからだし、もう関わらない方がいいっていうのは諦めた方がいいと思ってるから。


「たぶんそうだと思う…………でも、その二つのどちらかを選べと言われても選べないと思う」


「じゃあ、百円出して?」


 坂本さんは綺麗な右手を差し出してきた。

 俺はためらった。新手のカツアゲ? と疑ったからだ。でもそんな雰囲気でもなかったので、素直に差し出す。


「じゃあ、この数字が書いてある方が表で、書いていない方が裏。表だったら野村くんが藍沢さんを諦めなくて、裏だったら諦める、いいね?」


 坂本さんは百円玉を親指に乗せた。そして、今にも弾きそうに手を前に出すから、思わず声が出た。


「ちょっと待って!! 運で決めるの!? 大切なことを??」


「そうだよ??」


「それはいくらなんでも…………」


 彼女はさすがに思いなおしたのか、手をそっと手前に引く。俺はホッとしてから、坂本さんを睨む。


「これでも真剣なんだから…………」


「おっと、手が滑った!!」


 コインは宙に舞い、回転しながらまっすぐな軌跡を描く。空中で一瞬だけ止まったかのように見えたら、吸い込まれるように坂本さんの手の甲へと向かう。


 パチンと坂本さんの手が鳴いた後、俺に有無を言わさずに、その手を開いてしまう。そこには……


「裏だって。藍沢さん諦めるに決定! これでいい??」


 彼女の手の甲の上に、数字は刻まれていなかった。

 たぶん坂本さんくらいサバサバしていれば、これで結論を出せるのかもしれない。だけど、俺は…………




「いいわけないじゃん!!!!」


 俺は思わず立ち上がり、大きな声になっていた。


「坂本さんってそんな冷たい人だったの!? これでも真剣な悩みだったんだよ。なのにそれを運だなんて…………」


「じゃあ、もういっかいやる?」


 彼女はもう一度親指にコインを乗せた。


「えっ?」


「だって、この結果不満なんでしょ?? 別に一回しかやらないなんて言ってないし」


 彼女は親指の上のコインを見つめていた。


「え、でも…………」


「じゃあ、このままでいい??」


 俺はゆっくりと首を振った。こんな決め方間違っている。

 でも、彼女は再びコインを弾く。


 結果は、おんなじだった。


「これでいいの?」


 坂本さんは問いただすような口調だった。俺は大きく首を振る。


「やっぱり、心決まってるじゃん? だって、振り直したいってことは、諦めたく無いってことでしょ?」


 確かにこのコイントスはここで止めたくない。裏のままは絶対に嫌。


 それは、『諦めたくない』であって、間違いない気持ちだった。


「諦めたくない……か……」



「心は最初から決まってたんだよ! だから、今すべきことなんて悩むことじゃなくて、勉強することなんじゃない??」


 俺は「たしかに」とゆっくりと頷いた。


「だから、今は勉強する! そしてテストが明けたら、康太より前に告白する!! いいね!!」


「…………はい、姉貴!!!」


 俺は取り繕って、元気よく言った。


 だけど…………


 諦めたくないのはわかったけれど、『告白する』がどうしても飲み込めなかった。


 これから藍沢さんとどうして行くべきなのか、イマイチ腑に落ちないまま、俺は勉強すべく来た道を戻った。



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