第40話 無心はむずかしい

「はぁ〜」


 なかなか減らないお弁当を見て、俺はため息をついた。


 別に、お弁当の中に鈍色のゲテモノが入っているという訳でもなければ、生米が引き詰められている訳でもない。至って普通のお弁当だ。


 さらに言えば、食欲がないわけでもない。ついさっきまでは、おかずを食らわば箱までと言わんばかりに、弁当箱をまでも食う勢いだったのに、今はピッタリと箸が止まっている。




『テニス部の伊藤くん、藍沢さんと付き合ってるらしいよ』



 何度も噛み締めるたびに、あの噂が脳に蘇る。



『別に俺には関係ない』


 噂を打ち消すように、俺は心でつぶやいてみる。だけど、心は曇ったようにモヤモヤするばかりだ。



 俺はあまりにも進まない箸を諦めて、代わりにスマホを手に取った。


 そして画面に目を向けたその時、ふと隣に気配を感じ、誰もいない左隣の席に振り向く。


 もちろん空席だったけど、一瞬だけ藍沢さんの姿が見えた気がした。


 そういえば、藍沢さんが俺のスマホを覗こうとしていたこともあったよなぁ…………


 俺は大きなため息をついた。


 それも懐かしい思い出なんだと考えると、寂しさがはっきりと増してくる。そして、なんでもない記憶が妙に懐かしくなってしまって、俺はメモアプリに手を伸ばす。


 メモは、あの日のまま残っていて……





<藍沢さんが心を読んでくるので、メモ帳に記します。>

 

<それにしても、なんで姉貴が、震えているんだろう?>


<やっぱりあの男子生徒か?>


<藍沢さんとはどんな関係なんだろう?>


<付き合ってたりするのかな……まあ、俺には関係ないんだけど!!!!!!!!>



 

 スクロールした先には、まだまだ文字列が見えていた。だけど、そんなことよりも…………



 そう言えば、藍沢さんんは俺の心を読めるんだった!!


 俺は思わず手からスマホを落としかけ、手の中でお手玉をした。


 心の声が読まれるということは、モヤモヤを嘆けば、彼女に聞こえてしまうということで……………


 それはまずい!! 

 

 間違いなく、ストーカーみたいな気持ち悪いやつと思われてしまう。それに、もし藍沢さんがこの噂を知らないのであれば、自ら伝えるといった自爆は避けたい。


 そうなれば方法は一つしかない、そう、無心を貫くこと!!


 前に無心を貫こうとした時は見事に失敗したし、今回だってできる気がしない……


『でも、やるしかない!!』



 俺は弁当を無理矢理かき込むと、覚悟を決めた。

 

 そして、無駄に無駄なる、心の中の戦いが始まろうとしていた。


 

* * *

 


 教室の入り口から彼女が見えた時、俺はビクッと反応した。


 一歩一歩と近づくたびに、鼓動が段々と早くなっていく。これが恋とか淡い感情だったら良かったかもしれないけど、今は違う。


 入り口で藍沢さんを確認した時、彼女は俺から目をそっと逸らした。


『俺と目を合わせることができないのはつまりはそういうこと?』 


 心に浮かんだ言葉を、首を振って必死にはらう。席についた藍沢さんは俺の奇行に首を傾げる。


 状況確認にと、ちらりと藍沢さんの方を向いた。すると彼女もこっちを向いていて、口元がピクリと動く。何か話したげな様子で、それでも少し躊躇っている様子も見える。


 こんな状況で今俺に話したいことなんて、一つしかないに決まっている。


 俺はうっかり、一を聞く前に十を察してしまった。

 

 そして、十をどうしても聞きたくない俺は、彼女が話す前に即座に顔を伏せた。こうしていれば、彼女の表情とかに悩まされる必要がない。後は、『無心、無心、無心』ただひたすらそう呟いとけばいいだけ。なんなら、寝てしまってもいい。そっちの方が楽かもしれない。



 俺は目を閉じ、心を無にして、リラックスモードに…………


『ぜんっぜんリラックスできねえ!!! おっと、無心、無心』


 “何も考えないこと”がいかに大変か、俺は知らなかった。すぐに、あの言葉が浮かびそうになるし、それを抑えるために集中力がガンガン削られている状況。


 でも、授業が始まって、勉強内容に集中してしまえば俺の勝ちだ。気持ちを隠すことができるし、普段より雑念を考えずに集中するんだから、テスト対策にだってなる。


 授業ってなんて素晴らしいんだろうと、狂気の思考に至っているなか、その授業はなかなか訪れず、いくら待てどなかなかチャイムは聞こえない。


 さっき見た時は、昼休み終了まで15分くらいしかなかったはずだし、普段だったら15分なんて一瞬だ。それなのに、ぜんぜんチャイムがなる気配がなくて、俺は顔をあげて時計を確認した。


『まだ、5分かぁ……おっと、無心、無心』


 俺は顔を上げたついでに、藍沢さんをちらりと見た。すると、ばっちりと目があった上に、ジトーっとした目で俺を睨むように見つめている。


 まずいと俺はすぐに伏せて、できるだけ顔を上げないようにすると決めた。


 だけど、その暗闇ではいろんなことが浮かんでしまい、ついにはさっきの言葉も頻繁に浮かぶようになっていた。俺はとにかく心の声にしないように必死に、無心ばかりをつぶやく。


 いくつの無心を数えたか分からないけど、しばらく時間が経ったとき、隣からか細い声が聞こえてきた。


「野村くん…………どうしたの? 何かあったなら、話して欲しい…………」


 その声には、小さくてもずっしりとした重さがあって、見なくても彼女が心配そうな顔をしているのが浮かぶ。だから、彼女と話したくなって、つい顔を上げてしまいそうになった。だけど、寸前のところで止まった。



 ここで藍沢さんと話したら、心の声が漏れてしまうかもしれない。



 ここは藍沢さんに申し訳ないけど、寝たふりで誤魔化した方が懸命だ。俺は上げかけた重たい頭を、ゆっくりと下ろした。


 その後、藍沢さんがどんな表情をしたかは知らない。俺は「眠いんだろうな」って思って欲しいけど、そんなにうまく行くような気はしていない。たぶん面倒臭いことになっていると思いつつ、授業が始まるまで顔を伏せ続けた。


* * *


 やっと鳴いたチャイムだったけれど、授業が始まってからが、本当の地獄だった。


 これまでロクに授業に集中してこなかった奴が、突然授業に全意識を集中させることなんてできるわけもなく、むしろ授業という中途半端に知っている雑音が、俺の精神を乱してくる。


『「うちの先生の声が、俺の無心を乱してくる件について」とか、ひと昔のラノベにありそ…………無心、無心、無心…………』


 余計に変なことばかりを考がえるようになって、藍沢さんもなんだか不信の目で俺を見ているような気がする。さらには、この場において全然関係ないはずの、坂本さんまで、ちらりちらりと視線を感じる。


 たぶん、俺の勘違いなんだろうと、そう信じ込むけれど、それでもゆっくり流れる時間の中で、意識をせざるを得なくなっていった。


 俺は、とってもゆっくり流れる時間の中、授業の内容を全て雑音として処理しながら、心では無心を呟き、周りの視線にビクビクしながら過ごす。

 


 そして、途方に暮れるような時間を過ごすと、やっと放課後になった。


 

 俺は大きくため息をつくと、帰る準備を始めたところ、目の前に小さな影がさした。見上げると、憂いを帯びた表情をした藍沢さんが立っていて、目が合うと間髪入れずに声がした。


「あ、あの…………野村くん…………もしよかったらこれから一緒に勉強しない??」


「えっ??」


 俺はたぶん、困ったような表情をしたんだと思う。彼女の表情はより悲しそうに歪み、声もさらに小さくなる。


「私も…………勉強頑張ったから…………少しなら……教えられる…………」


 俺は思わず『はい』と言いかける口を必死につむんで、彼女から目を逸らす。


「ごめん……用事があるから……」


 もし、昼間にあの噂を聞いてなければどれだけ幸せだったことか……


 もし、心を無にする必要がなければどれだけ嬉しかったことか……


 だけど、現実は、邪念だらけの心で、彼女に見せられる状態じゃない。


 俺は、下を向いたままカバンを持って立ち上がった。



 藍沢さんが誰かと付き合っているからといって、優しいお誘いを断るなんて、酷いことで、ひどく不誠実なことだと思う。



 わかってる。



 だけど、今の俺には、こうすることしかできなかった。


 俺は廊下の一歩手前で、後ろ髪が引っ張られるような、そんな思いに駆られ、振り返った。


 藍沢さんのすごく寂しそうな表情に、俺の心は切り裂かれるような痛みを覚えた。

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