第2話 藍沢さんの声はかわいい

 黒板では白い数字が躍り、教壇きょうだんの上では若い先生がくるくると軽いステップを踏む。半分くらいの生徒はウトウトしていて、だけど寝るとちゃっかり当てられる。


 そんなつまらない授業の中、あくびをしながらノートを写していると、机の前に消しゴムが転がってきた。

   

 俺は机の下に頭をつっこみ、ピンクの消しゴムに手をのばす。そして拾った消しゴムを、無言でとなりに差し出した。


「あ、ありがとう……」


 藍沢さんは小さな声でつぶやき、かわいらしい手のひらで消しゴムを受け取った。


 俺は差し出した手を引っ込めると、何事もなかったかのように前を向き、涼しい顔で授業を受けるフリをする。


 そして、心の中では……


『藍沢さんの声かわいい!!!』


 やっぱり叫んでいた。


 鼓膜こまくにしみこむ甘くてはかない声は、耳にふれているだけで頬がゆるみ幸せな気分に包まれる。そして、声がとぎれたとたん、無音がやけにさみしくなって鼓膜があの声音を求めだす。


 だから、何度でも浸れるように藍沢さんの声を脳内再生する。何回も再生しては『藍沢さんの声かわいい……』ととうとさをかみしめていく。


 そして、再生するたびにとなりがビクッとしているのも気にせずに、俺は天使の声を十二分に堪能たんのうし、心の中は幸福で満たされた。

 

『今ならこんな授業だって笑顔で受けられる!』


 そんな清々しい気持ちで顔を上げると、視界の隅で藍沢さんが伏せているのが映った。


 彼女の耳は赤くなっていて、腕の中から少しのぞく頬も真っ赤に染まっていた。なんだか熱がありそうで……っていうかなぜか湯気がたっている?


 とにかく体調悪そうだし、保健室に連れて行ったほうがいいのかな? なんてことを考えてると、前から空気を読まない声が飛んできた。


「じゃあ……藍沢さん! ここの答えは?」


 数学担当のお姉さん先生は、いたずらっぽい顔をして藍沢さんにたずねる。


「は、はいっ!」と、顔をあげて慌てて返事をすると、アワアワと教書のページのあちこちをみる。


『先生空気読めよ! このにぶちんが! あそこの答えが6だって教えられたらいんだけど、どうしよう……』

 

 なんて考えていると、藍沢さんは間髪入れずに口を開く。


「答えは6です……」


 藍沢さんの小さな声に、先生は目を丸くする。


「あら? 話を聞いてたんですね? 疑ってごめんなさい。でも、前を向いて授業を受けましょうね」


 彼女は「はい……」と小さな声でつぶやいてから俯いた。やっぱりその頬は赤く染まっていて、体調が悪そうだ。


「顔赤いけど、大丈夫?」


 心配になって小さな声でたずねると、彼女は驚き、顔はさらに真っ赤になっていく。


「やっぱ体調悪そう。保健室行く?」


 俺がそう聞くと彼女はゆっくりと首を振る。そして、今にも消え入りそうなくらい小さな声でささやく。


「体調はだいじょうぶ……答え……ありがとう……」


 彼女の赤らめた顔から、儚く聞こえる声に、思わずドキッとした。だけど、その言葉はすぐ疑問に変わる。


『答え? ありがとう? ってなんだろう?』


 首を傾げて考えていると、前の方から俺の名前が聞こえてギクッとする。


『じゃあ、野村くん。この問題は?』


 お姉さん先生は、またいたずらっぽい笑みを見せていた。


『意地悪い先生め! この独身女が! ちょっと顔が小さいからって調子乗るなよ!』


 だけど、心の中でいくら毒づいたところで、現実は変わることなく、必死に教科書を見つめても答えはすぐすぐに出てこない。


 俺が頭を抱えこんで唸っていると、机の上にノートが飛んできた。


 そのページには答えは3だと、きれいな文字で書いてあって『えっ?』と驚いた俺は、藍沢さんの方に振り向く。だけど、藍沢さんは知らんぷりをしながら、顔を触るだけだった。なりふり構ってられない俺は、そのノートに目を落とすと「先生! 答えは3です!」とはっきりとした声で答えた。


 すると先生は、また目を丸くした。


「あら、よそ見していたからどうかなと思ったんだけど、ちゃんと聞いていたんですね。でも、野村くんも前向いて授業受けましょうね」


「はい!」


 お姉さん先生はその返事を聞くと、黒板へと向きなおして授業を再開した。そして、事なきことを得ると、ひとこと書き加えてノートをとなりへと返す。


 すると藍沢さんも何か書くような動作をしてから、ノートをこっちに向ける。


 そのページの乱雑な『ありがとう』の文字の下には、かわいらしい文字で『こちらこそ』と付け加えられていた。


『こちらこそ?』


 彼女は控えめにうなずいた。


『俺、藍沢さんに答えなんて教えてないんだけど……』


 そこまで心の中でつぶやいた時に、突然すごく嫌な予感を感じた。


『っていうか、なんで今藍沢さんはうなずいたたの? 心の声が通じて……』

 

『藍沢さんには心の声聞こえるんだった!!!!』


『じゃあなに? 藍沢さんの声を脳内再生していたことも聞かれてた? 恥ずかしい!!』


 すると、追い討ちをかけるようにとなりから声がした。


「授業中だから、あまり見ないで……恥ずかしいから」


 藍沢さんはノートで口元を隠しながら、恥ずかしそうにささやく。それに対して俺は……


『それはずるい!! そう言われるとなにも言えないから!!!』


 心で叫んでいた。だけど、藍沢さんはその心の声を聞いてないように無反応だったけど、

なんだかやり返したかのような満足げな表情をしていた。


 俺は藍沢さんに遊ばれているのかもしれない。

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