珈琲は月の下で
尾八原ジュージ
珈琲は月の下で
彼女が隣に立ったとき、私は「綺麗な人だな」と思った。
そこはマンションの廊下だった。すでに零時を回っており、住宅街であることも相まって辺りは暗く、しんと静まり返っていた。
私はこのマンションに、友人夫妻を訪ねて、別の友人三人とやってきていた。仲間内五人だけの気楽な飲み会である。飲み食いしているうちに私はアルコールが回って、少し眠たくなってきてしまった。ちょうどおつまみも少なくなっている。
「ちょっと外の風に当たってくる。ついでに買い出しも行くよ」
私はそう言って部屋を出た。外の風、と言ってもコンビニはマンションの一階に入っているので、実質建物からは一歩も出ない。とはいえ廊下を歩いていると、夜風が頬に当たって気持ちよかった。
買い物を終え、エレベーターで友人夫妻の部屋がある九階へと戻って廊下を歩いていると、ふいに潮騒のような音が聞こえた気がして、私は手すりの外を見た。
そこには大きな川が流れていた。このマンションは河原に近く、夏にはバルコニーからそこで開かれる花火大会が見られるのだという。空には満月が浮かんでおり、月光を反射して水面が揺れているのが遠目にもわかった。
辺りが暗いせいか、それとも私がいささか酔っていたせいか、私にはその水面が、マンションの真下まで広がっている気がして仕方なかった。広大な川の真っ只中に建つマンション。そんなわけないか、と思いながらも、私は不思議と水面から目を離せずにいた。きらきらと波打つそれは美しかった。
彼女が現れたのは、ちょうどそのときだった。
「こんばんは」
突然女の声がしたので、私は飛び上がりそうになった。振り返ると、色味のない照明に照らされて、同年代くらいの女性がそこに立っていた。整った小さな顔に栗色の髪の毛。きちんとメイクをして、明るいベージュの光沢のあるワンピースを着ている。こんな時間にこんなきれいな格好をして、いったいどこへ行くのだろう、と私は思った。
「驚かせてすみません」
私の様子を見て、彼女は小さく会釈し、謝った。
「い、いえ」
「901号室の沖野といいます。沖野まどかです」
「あ……わたし、板津早織です」
相手がまるで当たり前のように名乗ったので、つい私もそうしなくてはいけないような気がした。大体深夜とかお酒とか美女とかいうものは、ひとの判断を誤らせるものだ。
「イタツさん?」
「木の板の板に、三重県津市の津です」
「そうなんですか。初めて聞く名字です。板津さん、何を見てらしたんですか?」
「あ、川を……」私はまだどきどきしている胸を、コンビニの袋を提げている方の手で押さえながら、何も持っていない右手を伸ばして川を指さした。
「何でもないんですけど、水面がきれいだなと思って」
「ああ」沖野さんは半ば溜息をつくように言った。「わかります」
「そうですか?」
「はい。なんだか幻想的ですね」
「そうそう。それです」
幻想的、という言葉がさっきから出てこなかった私は、嬉しくなってしまった。沖野さんも嬉しそうに、私に微笑みかけた。
「板津さん、コーヒー飲みませんか?」
そう言うと、彼女は私の返事を待たず、小走りでエレベーターの方に駆けていった。そこにある自動販売機で缶コーヒーをふたつ買い、またこちらに戻ってくる。
「はい」
まるで幼い少女が、野で摘んだ花を渡すように無邪気に差し出すものだから、私もつい受け取ってしまった。砂糖とミルクの入った甘いコーヒーで、缶は暖かかった。
少しの間、私たちはマンションの廊下に立ち、手すりに肘を載せて缶コーヒーを飲みながら、満月と川を眺めた。
私は沖野さんがさっき会ったばかりの人だということも、今が飲み会の途中なのだということも忘れてしまっていた。小さな子供に戻って、友達とふたりで大人の目を盗み、こっそり夜の景色を見ているような気分だった。
「月が綺麗ですね」
私がそう言うと、沖野さんは「愛の告白みたい」と笑った。私はそこでようやく有名な夏目漱石のエピソードを思い出し、赤面した。
でも、もしも誰かにこのとき「この女性のことを愛していますか」と尋ねられたら、私は「はい」と答えてしまったかもしれない。月光を受けてきらきら光るワンピースも相まって、彼女はまるで月の妖精のように見えた。
「誰かと話したかったんです」
突然そう言うと沖野さんは、コーヒーの缶をぐいっと傾け、白い喉を動かした。それから私の方を向いて、
「会ったことのない誰かに、私のことを新しく覚えてほしくって」
と続けた。その顔は、私にはどこか哀しそうに見えた。
「そうなんですか」
私はそう返した。理屈はわからないけど、気持ちは何だかわかる。そんな感じがした。
私のデニムのポケットでスマートフォンが震えた。友人だった。
『遅いけど大丈夫? どこまで行ったの?』
その声は、私を突然現実に引き戻した。
「あっ、ごめんごめん。すぐに戻るから。もう部屋の前なの」
『そう? わかった。待ってるね』
「はーい」
通話を切ると、沖野さんが「すみません、お引きとめしちゃって」と言った。私は慌てて首を振った。
「いえいえ、私が勝手にぼーっとしてただけなので。ええと、失礼します」
私は後ろ髪を引かれるような気持ちで、コーヒーのお礼も込めて深くお辞儀をした。
頭のてっぺんの方で、沖野さんの声を聞いた。
「私、沖野まどかです。忘れないで」
「はい。なら私のことも。板津早織です」
私が頭を上げると、沖野さんは微笑んで「さようなら」と言い、同じようにお辞儀をした。
私は彼女に背を向けて、一番奥の友人夫婦の部屋に向かって歩き出した。何歩か遠ざかったとき、ふと、何かに導かれるように私は振り返った。
沖野さんが両手で廊下の手すりを持ち、ぐっと上半身を持ち上げて、片足を手すりにかけるのが見えた。声をかける間もなく、まるで鉄棒でもするかのように頭がくるりと下がった、かと思うとふわりと広がったワンピースの裾が、月明かりを反射して薄い光を放ち、蝶々の羽のように虚空に閃いた。
次の瞬間、彼女の姿はもうそこにはなかった。ずっと下の方で、ドスンという重たい音がした。
私はぺたんと床に座り込み、それから慌てて手すりと反対の壁に寄った。そうしないと、自分も彼女を追って空中に飛び出してしまうような気がした。
手すりの傍には、白いハイヒールがひと揃いと、コーヒーの空き缶がひとつ、きちんと並べて置かれていた。
珈琲は月の下で 尾八原ジュージ @zi-yon
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